資料(百年戦争の概略)

■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1

■ナヴァール王シャルル、百年戦争初期のフランスの敗因、フランス国王が捕虜に
・そんな中、状況を複雑化させる存在が現れた。ナヴァール王シャルルである。父は国王フィリップ4世の甥フィリップ、母はフィリップ4世の孫で次代ルイ10世の娘であるジャンヌ。父からノルマンディー東部のエヴルー伯領、母からピレネーの南西山麓のナヴァール王国を相続した。政治手腕に優れ、演説も巧みな美男子として知られ、後世「悪王」と呼ばれる/母ジャンヌはフランス王家と因縁があった。1316年、父のルイ10世、その弟ジャン1世が死去した際、王位はジャンヌを差し置いて、叔父のフィリップ5世、次代のシャルル4世に継承された(確かに当時(前述のように)王位継承権の明確なルールはなかった)。シャルル4世が死去してカペー王家は断絶し、ヴァロワ王朝へ変わったが、ジャンヌにはなんらかの補償が必要だった。そこでフィリップ6世は1328年、ジャンヌの息子シャルルにナヴァール王国の相続を認め、1336年にはフランス南西部のアングレーム伯領の授与を約束した。だが、後を継いだジャン2世はこの約束を一方的に破棄し、国王軍の総司令官として活躍した大元帥シャルル・デスパーニュへの報奨としてアングレーム伯領を授与。これで補償問題が再燃し、また1337年にエドワード3世がフランス王位継承権を主張しはじめたのもあって、ナヴァール王シャルルもこれに乗じて再び王位、あるいはさらなる補償を主張。ジャン2世は娘ジャンヌをシャルルに嫁がせて持参金も与えたが、この件はシャルル以外に聖俗貴族の不況も買っており、北仏(パリ、ラーン、ボーヴェー)の聖職者たちもシャルルを支持していた。こうした援軍を背景に、シャルルは行動を起こす。1354年1月、シャルル・デスパーニュを殺害した。対英和平交渉に進展がない中で国軍の要を失って焦ったシャルルは、対英交渉のために派遣されていた教皇特使の和解仲介のもと、1354年2月にシャルルの大元帥殺害を赦免とし、またノルマンディー地方から突き出たコタンタン半島付近の多くの領土を与えた(中公新書83〜86)
・ナヴァール王シャルルとの一件を受けて、ジャン2世はエドワード3世との講和を急いだ。1355年1月、アヴィニヨン講和会議が開始。だが使節間で調整した講和内容に満足できなかったジャン2世がこれを破棄。イギリス側は激怒して次々とアヴィニヨンを去った。そしてフランスジャン2世は、幽閉の身の国王デイヴィッド2世の解放をめざすスコットランド貴族との密談やアキテーヌ攻撃作戦の準備を進める。1355年12月には南北三部会を開催して戦費調達のための課税の承認をもらった。一方、イギリスのエドワード3世は再上陸をめざしてナヴァール王と連絡を取り始めた。1346年4月、ジャン2世はイギリス王との接触を図っていたナヴァール王の身柄をルーアンで拘束。一方のイギリス軍は5月にヘンリー・オヴ・ランカスターがノルマンディーへ進軍。7月には南方でエドワード黒太子の軍がアキテーヌ残留軍と北方軍に分かれて、それぞれ進軍。北方軍はヘンリー・オヴ・ランカスターたちとの合流を急いだが、フランスはこれを阻止すべく、フランスを南北に二分するロワール川の橋を破壊し続けた。しかし、イギリス軍は進軍中に捕虜にとった者から浅瀬の場所を聞き出して渡河に成功。そして9月、両軍はポワティエ付近で対峙した。ポワティエの戦い。クレシーの戦いと同様の展開でイギリスが勝利。敗北を悟ったジャン2世は、自ら捕虜になると申し出て戦闘は終わった(中公新書89〜92)
・ちなみに、このようにフランス王に臣従していた臣下による反乱やイギリス側への寝返りが、百年戦争初期におけるフランス劣勢の大きな要因だった。ナヴァール王シャルルはその代表例である(中公新書86)。このときの貴族たちは、その時々の情勢に応じて、どうすれば自分たちの領土の権利を維持・拡大できるかを考え、頻繁に鞍替えをした。これが百年戦争の情勢をわかりにくいものにした(中公新書88)
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