資料(百年戦争の概略)

■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1

■ペスト流行、和平交渉の難航
・だが、1347年の年の暮れ、ペストが欧州で猛威を奮い始めた。翌48年8月にはパリで、11月にはロンドンで大量の死者が発生。両都市の人口のおよそ1/4が失われた(中公新書67)。それによって疲弊した両国に戦争を続ける体力はなく、最初は9ヵ月の休戦を定めたカレー休戦協定は更新を繰り返した(中公新書76)
・休戦協定が結ばれたが、戦争がなくなって仕事を失った兵士による略奪は加速。また、休戦協定がいつ破棄されるともわからないため、フランス王は戦争の準備も怠らず、王による徴発も続けられた。大規模な課税も40年、43年、47年の3度にわたって三部会で審議にかけられ、承認されていた。結果、国民の不満がついに爆発。1358年にフランスでジャックリーの農民反乱が勃発した。人々は不満があると、いきなり実力行使には出ず、まずは三部会で不満を表明するのが常だったが、我慢の限界を迎えていた(中公新書71)
・ちなみに百年戦争期、三部会は南部と北部に分けて開催された。ペストなどで王領収入が減って開催地までの旅費の工面が困難なこと、南北で言語や法が異なることなどを考慮した結果だった。北部はラングドイル(北仏語圏)、南部はラングドック(南仏語圏)と呼ばれた(中公新書77〜78)
・1350年、和平交渉が再開されたが、再び決裂。フランスではフィリップ6世が死去し、ジャン2世が即位。1352年の春、フランスはブルターニュとアキテーヌにおいて進攻を開始した。同年、和平交渉に奔走していたクレメンス6世が死去し、新教皇としてインノケンティウス6世が選出された。新教皇はさっそく和平交渉に動き、1353年3月からギーヌ和平交渉が始まった。だが、やはり決裂し、休戦協定の更新と小競り合いを繰り返した(中公新書81〜83)
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