資料(百年戦争の概略)
■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■開戦・展開
・実際の最初の戦闘は1339年9月末から10月。ここで両国の正規軍が初めて衝突した(中公新書43)
・1338年7月、エドワード3世は大陸へ上陸。まず軍事同盟を持ちかけていた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世から皇帝代理権を授与された。これは低地地方に多数存在していた帝国領において皇帝の代理人として振る舞える権力。これは対仏戦争に戦力を動員する上で非常に役立った(中公新書47)
・一方、フランスも開戦準備を進めた。1337年5月、フィリップ6世はイギリスの大陸領の没収を宣言すると、冬には同地境界付近への襲撃と略奪を命じた。このときすでに、フランスの兵力は封建諸侯と傭兵を中心にイギリスの倍は集まっていた。だが、どちらも軍事費の工面に苦慮していた。フィリップ6世は、貨幣の貴金属の含有量を減らして、製造貨幣の量を増やすという苦肉の策を講じたが、経済の混乱を招く愚策だったため「贋金造り王」と揶揄された(中公新書49)
・1339年9月末から10月、両軍が激突。だが、ここでは戦闘はなかった。フランス軍は会戦日を承諾していたが、その日はイエスの処刑された金曜日であったこと、そしてフィリップ6世の叔父で占星術師のナポリ王ロベルトがフランスの不利を判断したことなどが理由だった(中公新書52)
・1340年6月24日、スロイスの海戦。百年戦争における両国の最初の武力衝突。イギリスの圧勝(中公新書53)。その後、トゥールネまで進攻するも攻略に失敗。結局、9月25日に休戦協定が結ばれた(中公新書56)。だが1341年4月30日、フランス西部のブルターニュ公領において公主ジャン3世が死去。先代の異母弟モンフォール伯ジャンと、同じく先代の姪の夫シャルル・ド・ブロワの間で跡目争い(ブルターニュ継承戦争)が勃発した。イギリスがモンフォール側、フランスがブロワ側につき、代理戦争となった。1342年6月にローマ教皇クレメンス6世が枢機卿を派遣して、1343年1月に休戦協定が結ばれ、平和条約締結の話し合いをすると決まるまで続いた。しかし、1344年10月にアヴィニョン講和会議が開始するも翌月に決裂。1346年8月、クレシーの戦いが勃発。イギリス軍の長弓を軸とした巧みな戦闘、そしてエドワード3世の長男で同国の英雄であるエドワード黒太子の活躍が語られる。兵力では1万のイギリス軍の倍の2万を誇ったフランス軍だが、弩を軸とした鈍重な戦いで惨敗を喫した。その後、イギリスはフランス北部カレーをめざして北上。カレー手前で英仏両軍が激突する直前に、教皇庁が再び介入するも和平交渉は再び決裂。イギリス軍が進攻を開始し、1347年8月にカレーが降伏。9月にようやくカレー休戦協定が結ばれた(中公新書57〜67)
・ちなみに、1340年代はフランスで築城ラッシュが起こった。もちろん戦争のためである。フランス国王は各地の城や砦を徴発し、城壁の建設や修繕などを命じていった(中公新書74)
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■開戦・展開
・実際の最初の戦闘は1339年9月末から10月。ここで両国の正規軍が初めて衝突した(中公新書43)
・1338年7月、エドワード3世は大陸へ上陸。まず軍事同盟を持ちかけていた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世から皇帝代理権を授与された。これは低地地方に多数存在していた帝国領において皇帝の代理人として振る舞える権力。これは対仏戦争に戦力を動員する上で非常に役立った(中公新書47)
・一方、フランスも開戦準備を進めた。1337年5月、フィリップ6世はイギリスの大陸領の没収を宣言すると、冬には同地境界付近への襲撃と略奪を命じた。このときすでに、フランスの兵力は封建諸侯と傭兵を中心にイギリスの倍は集まっていた。だが、どちらも軍事費の工面に苦慮していた。フィリップ6世は、貨幣の貴金属の含有量を減らして、製造貨幣の量を増やすという苦肉の策を講じたが、経済の混乱を招く愚策だったため「贋金造り王」と揶揄された(中公新書49)
・1339年9月末から10月、両軍が激突。だが、ここでは戦闘はなかった。フランス軍は会戦日を承諾していたが、その日はイエスの処刑された金曜日であったこと、そしてフィリップ6世の叔父で占星術師のナポリ王ロベルトがフランスの不利を判断したことなどが理由だった(中公新書52)
・1340年6月24日、スロイスの海戦。百年戦争における両国の最初の武力衝突。イギリスの圧勝(中公新書53)。その後、トゥールネまで進攻するも攻略に失敗。結局、9月25日に休戦協定が結ばれた(中公新書56)。だが1341年4月30日、フランス西部のブルターニュ公領において公主ジャン3世が死去。先代の異母弟モンフォール伯ジャンと、同じく先代の姪の夫シャルル・ド・ブロワの間で跡目争い(ブルターニュ継承戦争)が勃発した。イギリスがモンフォール側、フランスがブロワ側につき、代理戦争となった。1342年6月にローマ教皇クレメンス6世が枢機卿を派遣して、1343年1月に休戦協定が結ばれ、平和条約締結の話し合いをすると決まるまで続いた。しかし、1344年10月にアヴィニョン講和会議が開始するも翌月に決裂。1346年8月、クレシーの戦いが勃発。イギリス軍の長弓を軸とした巧みな戦闘、そしてエドワード3世の長男で同国の英雄であるエドワード黒太子の活躍が語られる。兵力では1万のイギリス軍の倍の2万を誇ったフランス軍だが、弩を軸とした鈍重な戦いで惨敗を喫した。その後、イギリスはフランス北部カレーをめざして北上。カレー手前で英仏両軍が激突する直前に、教皇庁が再び介入するも和平交渉は再び決裂。イギリス軍が進攻を開始し、1347年8月にカレーが降伏。9月にようやくカレー休戦協定が結ばれた(中公新書57〜67)
・ちなみに、1340年代はフランスで築城ラッシュが起こった。もちろん戦争のためである。フランス国王は各地の城や砦を徴発し、城壁の建設や修繕などを命じていった(中公新書74)