資料(百年戦争の概略)
■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■原因の経緯
・初期はイングランドが圧勝。だが、ジャンヌ・ダルクの登場で覚醒したフランス軍が巻き返し、最終的に勝利。だが、100年に及ぶ戦乱で英仏貴族は尽く没落。教会の権威も失墜し、その潮流から宗教改革が叫ばれ、中世という一つの時代が終焉を迎えた(中公新書・前書き)
・1337、当代のフランス王・フィリップ6世が、彼の家臣として同国南西部(アキテーヌ)を治めていたイギリス王・エドワード3世に対して領土没収を宣言。これによって戦端が開かれた。当時、人口や国土など、さまざまな面でフランスはイングランドの4倍の国力を誇った(中公新書5〜7)
・時代としては、右肩下がりの時代。人口の増加に対して食糧の生産が追いついておらず、開戦から10年後の1348には黒死病が大流行。欧州全土の民の1/3が死に至り、王や貴族の収入は激減。ワインなどの商品作物を収益の新たな柱にしようと動くも、そのための負担を農民に強いたことで農民蜂起が頻発した(中公新書7)
・11世紀以降、イングランド王は大陸からやってきた。1066年、ノルマン家のギヨームがイングランドを征服し、ウィリアム1世として即位(ノルマン・コンクエスト)。その後、1154年にアンジュー地方からプランタジネット家のアンリが、ヘンリ2世としてイングランド王位を継承。これ以後、フランス語を母語とする人々がイングランド王となった(中公新書9)。一方、フランスでは987年、カール大帝の血を引く王家シャルル一族に対してカペー家がクーデターを起こし、王位を強奪。新王朝を開いた(中公新書10)カペー家は本拠地のパリ盆地に開かれた農業地帯と、セーヌ川を活用した水運を武器に成長。パリ周辺は経済や文化が急速に発展し、1180年にはフィリップ・オーギュスト(フィリップ尊厳王)が即位。ここで先の、イングランド王位を継承したばかりのアンジュー伯家=プランタジネット家との間に抗争が勃発する(中公新書11〜12)
・アンジュー伯家=プランタジネット家のヘンリ2世は、フランスに領有する土地については1156年、当時のカペー家の王ルイ9世に対して臣従礼を誓った(中公新書12、14)プランタジネット家は一時期、フランスの西半分を領有するに至ったが(中公新書13)、領土の広さに関係なく(プランタジネット家は当時のカペー家より圧倒的に広大な領土を持っていた)、フランスで生まれた貴族である以上、アンジュー伯家=プランタジネット家はフランス王の家臣に過ぎない。だが、その状況が1215年ごろから変わってくる(中公新書14)
・少し前の1204年ごろ、カペー家のフィリップ・オーギュスト(フィリップ2世)が、イングランドのジョン王が大陸に持っていたノルマンディー(ノルマン・コンクエスト以降、イギリス領となっていた)やアンジューを奪還。ジョンはフランス北西部の領土を失い、これが国内で大失政として非難され、1215年のマグナ・カルタ(失政を重ねるジョン王にイングランド貴族と教会が、王国統治の約束事を認めさせた文書)につながる一因となる。なお、このイングランド王家が持っていた大陸領は「アキテーヌ」(フランス側の呼び名はギュイエンヌ、そのうち特に南西部はガスコーニュと呼ばれた)と呼ばれ、イングランド王はフランスではアキテーヌ公を名乗った。このアキテーヌには、奪われたノルマンディーやアンジュー以外に、まだイングランド王領が点在していた(中公新書15〜16)。そのため同地の支配関係が曖昧だったが、1259年のパリ平和条約で確定される。時の王は、フランス(カペー家)がルイ9世、イングランド(プランタジネット家)がヘンリ3世。イングランドは王家伝来のノルマンディーとアンジューを放棄するかわりに、アキテーヌの領有を認められた。その条件としてフランス王家に対する優先的臣従礼を認めさせられた。識字率の低かった中世では、王や貴族は儀式によって主従関係などを示す必要があった。優先的臣従礼は最重要の主君に対して求められる儀式(中公新書16〜17)
・13世紀末になると、ヨーロッパ全体で経済成長が停滞を始め、英仏両王は国土の拡大を模索(王家の収入は王領の税収などだから)。両王はキリスト教会の聖職者に対する課税を決定。これでローマ教皇庁との対立が始まった。またアキテーヌの支配権をめぐっても、対立が再燃した。時の王はフィリップ4世とエドワード1世。1329年にはガスコーニュ地方をめぐって戦争が起こり(ガスコーニュ戦争)、エドワード1世は「ガスコーニュはフランス王からの封土ではなく、神より与えられた土地」と主張し、大陸領からの実質的な独立を宣言。もっとも1303年にローマ教皇庁が間に入ってパリ平和条約が結ばれ、両国友好の証として、イギリス王太子エドワード(後のエドワード2世)とフランス王女イザベルの結婚が提案され、1308年に結婚。だが、後にこれが、2人の子であるエドワード3世がフランス王位継承権を主張する根拠となる(中公新書25〜27)
・また同時期、3つの問題が両国の間にはあった。
1)スコットランドをめぐる問題。フィリップ4世がアキテーヌへ介入し始めたころ、イングランドはスコットランドの領土獲得を目論んで、同国の王位継承問題へ介入。スコットランドはフランスに同盟を求め、フランスもこの同盟でイングランドを牽制できると踏んで受諾。だが1329年、スコットランド王として5歳のデイヴィッド2世が即位すると、イングランドがこれ幸いとスコットランドへ進行。デイヴィッド2世は時のフランス王であるフィリップ6世のもとへ亡命した(中公新書28〜31)
2)フランドル地方をめぐる問題。高級衣服をはじめとする毛織物産業で発展した一大商業地フランドルの職人や市民は、羊毛の輸入先であるイングランドとの良好な関係を望んでいた。それはイギリス側も同様だった。交易の維持はもちろん、フランスと対立する中で、大陸側の同盟者の確保は死活問題だったからだ。さてそんな中、イングランドのエドワード3世は、フランドルへの羊毛の出荷を停止(1336年と1337年の2度。中公新書47)。職人たちの収入源を脅かして対仏同盟への参加を促した。そして失業者があふれた1337年12月、指導者ヤーコプ・ファン・アルテフェルデに率いられたフランドル職人たちが、フランス王の家臣だったフランドル伯のルイ・ド・ヌヴェールに対して蜂起。フランドルはエドワード3世との連携を模索する道を選ぶ(中公新書31〜32)
3)ロベール・ダルトワをめぐる問題。この頃、フランスでは北部アルトワ地方の相続をめぐって破れたロベール・ダルトワが渡英。ダルトワは裁判の過程で王に支援を求めるも、逆に裁判文書の偽造などの嫌疑で王国追放と財産没収の刑を言い渡された。王に裏切られたと感じたダルトワはイギリスへ渡った。こうして両国は相手国と対立する人物を匿うこととなった。そして1337年、エドワード3世がフィリップ6世に対して、スコットランド支持の停止、ダルトワの平和的帰還、アキテーヌ領有をめぐる諸権利の問題の法的解決を迫った。これに対してフィリップ6世は、ダルトワの引き渡しを拒むエドワードに対してアキテーヌ公領の没収を宣言。これに対してエドワードが、1337年8月26日、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世に軍事同盟を呼びかけ。そして11月、フィリップに宛てて「自称フランス王」に主従関係の破棄を叩きつける書簡を送付。それは事実上の宣戦布告であり、ここまでの一連の出来事を含めて、百年戦争のはじまりとされる(中公新書28〜31)
・1328年2月1日、シャルル4世が後継ぎを残さないまま逝去。約340年続いた直系の王族、カペー王家が断絶。重臣会議は摂政のヴァロワ伯フィリップを王に選び、フィリップ6世が誕生した。ヴァロワ王家のはじまりである。だが、当時のフランスには明確な王位継承順位のルールなどはなかった。そのため、前年に即位したイングランド王エドワード3世は、母イザベル(仏王フィリップ4世の娘)の血縁を理由に、やがて1340年2月6日、フランス国王への即位を宣言するに至る。百年戦争とはいわば、英大陸領の主従関係の清算をめざした戦争であり、そこにフランス王位継承権の問題が交渉カードとして絡んだことで、百年もの長期化を引き起こすほど複雑化した戦争といえる(中公新書33〜35)。またエドワード3世がフィリップ6世に1340年7月27日付けで送った挑戦状に明記されているが、これはあくまでイングランド王とフランス王の個人的な戦いであり、「我々のあいだで個人的に解決すること」が妥当というのが彼の認識だった。言い換えれば、百年戦争はあくまで両国王の個人的な闘争であり、本来はイギリス対フランスの戦争ではなかった。両国の国民などは、単に両国王の争いに巻き込まれただけだった(中公新書55)。国民は戦乱における三重苦、略奪・徴発・課税に苦しんだ(中公新書68)
・またイギリスは戦争の準備として、1333年のウエストミンスター制定法で、15〜16歳以上の男子全員に武器の扱いの習得を命じた(中公新書48)
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■原因の経緯
・初期はイングランドが圧勝。だが、ジャンヌ・ダルクの登場で覚醒したフランス軍が巻き返し、最終的に勝利。だが、100年に及ぶ戦乱で英仏貴族は尽く没落。教会の権威も失墜し、その潮流から宗教改革が叫ばれ、中世という一つの時代が終焉を迎えた(中公新書・前書き)
・1337、当代のフランス王・フィリップ6世が、彼の家臣として同国南西部(アキテーヌ)を治めていたイギリス王・エドワード3世に対して領土没収を宣言。これによって戦端が開かれた。当時、人口や国土など、さまざまな面でフランスはイングランドの4倍の国力を誇った(中公新書5〜7)
・時代としては、右肩下がりの時代。人口の増加に対して食糧の生産が追いついておらず、開戦から10年後の1348には黒死病が大流行。欧州全土の民の1/3が死に至り、王や貴族の収入は激減。ワインなどの商品作物を収益の新たな柱にしようと動くも、そのための負担を農民に強いたことで農民蜂起が頻発した(中公新書7)
・11世紀以降、イングランド王は大陸からやってきた。1066年、ノルマン家のギヨームがイングランドを征服し、ウィリアム1世として即位(ノルマン・コンクエスト)。その後、1154年にアンジュー地方からプランタジネット家のアンリが、ヘンリ2世としてイングランド王位を継承。これ以後、フランス語を母語とする人々がイングランド王となった(中公新書9)。一方、フランスでは987年、カール大帝の血を引く王家シャルル一族に対してカペー家がクーデターを起こし、王位を強奪。新王朝を開いた(中公新書10)カペー家は本拠地のパリ盆地に開かれた農業地帯と、セーヌ川を活用した水運を武器に成長。パリ周辺は経済や文化が急速に発展し、1180年にはフィリップ・オーギュスト(フィリップ尊厳王)が即位。ここで先の、イングランド王位を継承したばかりのアンジュー伯家=プランタジネット家との間に抗争が勃発する(中公新書11〜12)
・アンジュー伯家=プランタジネット家のヘンリ2世は、フランスに領有する土地については1156年、当時のカペー家の王ルイ9世に対して臣従礼を誓った(中公新書12、14)プランタジネット家は一時期、フランスの西半分を領有するに至ったが(中公新書13)、領土の広さに関係なく(プランタジネット家は当時のカペー家より圧倒的に広大な領土を持っていた)、フランスで生まれた貴族である以上、アンジュー伯家=プランタジネット家はフランス王の家臣に過ぎない。だが、その状況が1215年ごろから変わってくる(中公新書14)
・少し前の1204年ごろ、カペー家のフィリップ・オーギュスト(フィリップ2世)が、イングランドのジョン王が大陸に持っていたノルマンディー(ノルマン・コンクエスト以降、イギリス領となっていた)やアンジューを奪還。ジョンはフランス北西部の領土を失い、これが国内で大失政として非難され、1215年のマグナ・カルタ(失政を重ねるジョン王にイングランド貴族と教会が、王国統治の約束事を認めさせた文書)につながる一因となる。なお、このイングランド王家が持っていた大陸領は「アキテーヌ」(フランス側の呼び名はギュイエンヌ、そのうち特に南西部はガスコーニュと呼ばれた)と呼ばれ、イングランド王はフランスではアキテーヌ公を名乗った。このアキテーヌには、奪われたノルマンディーやアンジュー以外に、まだイングランド王領が点在していた(中公新書15〜16)。そのため同地の支配関係が曖昧だったが、1259年のパリ平和条約で確定される。時の王は、フランス(カペー家)がルイ9世、イングランド(プランタジネット家)がヘンリ3世。イングランドは王家伝来のノルマンディーとアンジューを放棄するかわりに、アキテーヌの領有を認められた。その条件としてフランス王家に対する優先的臣従礼を認めさせられた。識字率の低かった中世では、王や貴族は儀式によって主従関係などを示す必要があった。優先的臣従礼は最重要の主君に対して求められる儀式(中公新書16〜17)
・13世紀末になると、ヨーロッパ全体で経済成長が停滞を始め、英仏両王は国土の拡大を模索(王家の収入は王領の税収などだから)。両王はキリスト教会の聖職者に対する課税を決定。これでローマ教皇庁との対立が始まった。またアキテーヌの支配権をめぐっても、対立が再燃した。時の王はフィリップ4世とエドワード1世。1329年にはガスコーニュ地方をめぐって戦争が起こり(ガスコーニュ戦争)、エドワード1世は「ガスコーニュはフランス王からの封土ではなく、神より与えられた土地」と主張し、大陸領からの実質的な独立を宣言。もっとも1303年にローマ教皇庁が間に入ってパリ平和条約が結ばれ、両国友好の証として、イギリス王太子エドワード(後のエドワード2世)とフランス王女イザベルの結婚が提案され、1308年に結婚。だが、後にこれが、2人の子であるエドワード3世がフランス王位継承権を主張する根拠となる(中公新書25〜27)
・また同時期、3つの問題が両国の間にはあった。
1)スコットランドをめぐる問題。フィリップ4世がアキテーヌへ介入し始めたころ、イングランドはスコットランドの領土獲得を目論んで、同国の王位継承問題へ介入。スコットランドはフランスに同盟を求め、フランスもこの同盟でイングランドを牽制できると踏んで受諾。だが1329年、スコットランド王として5歳のデイヴィッド2世が即位すると、イングランドがこれ幸いとスコットランドへ進行。デイヴィッド2世は時のフランス王であるフィリップ6世のもとへ亡命した(中公新書28〜31)
2)フランドル地方をめぐる問題。高級衣服をはじめとする毛織物産業で発展した一大商業地フランドルの職人や市民は、羊毛の輸入先であるイングランドとの良好な関係を望んでいた。それはイギリス側も同様だった。交易の維持はもちろん、フランスと対立する中で、大陸側の同盟者の確保は死活問題だったからだ。さてそんな中、イングランドのエドワード3世は、フランドルへの羊毛の出荷を停止(1336年と1337年の2度。中公新書47)。職人たちの収入源を脅かして対仏同盟への参加を促した。そして失業者があふれた1337年12月、指導者ヤーコプ・ファン・アルテフェルデに率いられたフランドル職人たちが、フランス王の家臣だったフランドル伯のルイ・ド・ヌヴェールに対して蜂起。フランドルはエドワード3世との連携を模索する道を選ぶ(中公新書31〜32)
3)ロベール・ダルトワをめぐる問題。この頃、フランスでは北部アルトワ地方の相続をめぐって破れたロベール・ダルトワが渡英。ダルトワは裁判の過程で王に支援を求めるも、逆に裁判文書の偽造などの嫌疑で王国追放と財産没収の刑を言い渡された。王に裏切られたと感じたダルトワはイギリスへ渡った。こうして両国は相手国と対立する人物を匿うこととなった。そして1337年、エドワード3世がフィリップ6世に対して、スコットランド支持の停止、ダルトワの平和的帰還、アキテーヌ領有をめぐる諸権利の問題の法的解決を迫った。これに対してフィリップ6世は、ダルトワの引き渡しを拒むエドワードに対してアキテーヌ公領の没収を宣言。これに対してエドワードが、1337年8月26日、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世に軍事同盟を呼びかけ。そして11月、フィリップに宛てて「自称フランス王」に主従関係の破棄を叩きつける書簡を送付。それは事実上の宣戦布告であり、ここまでの一連の出来事を含めて、百年戦争のはじまりとされる(中公新書28〜31)
・1328年2月1日、シャルル4世が後継ぎを残さないまま逝去。約340年続いた直系の王族、カペー王家が断絶。重臣会議は摂政のヴァロワ伯フィリップを王に選び、フィリップ6世が誕生した。ヴァロワ王家のはじまりである。だが、当時のフランスには明確な王位継承順位のルールなどはなかった。そのため、前年に即位したイングランド王エドワード3世は、母イザベル(仏王フィリップ4世の娘)の血縁を理由に、やがて1340年2月6日、フランス国王への即位を宣言するに至る。百年戦争とはいわば、英大陸領の主従関係の清算をめざした戦争であり、そこにフランス王位継承権の問題が交渉カードとして絡んだことで、百年もの長期化を引き起こすほど複雑化した戦争といえる(中公新書33〜35)。またエドワード3世がフィリップ6世に1340年7月27日付けで送った挑戦状に明記されているが、これはあくまでイングランド王とフランス王の個人的な戦いであり、「我々のあいだで個人的に解決すること」が妥当というのが彼の認識だった。言い換えれば、百年戦争はあくまで両国王の個人的な闘争であり、本来はイギリス対フランスの戦争ではなかった。両国の国民などは、単に両国王の争いに巻き込まれただけだった(中公新書55)。国民は戦乱における三重苦、略奪・徴発・課税に苦しんだ(中公新書68)
・またイギリスは戦争の準備として、1333年のウエストミンスター制定法で、15〜16歳以上の男子全員に武器の扱いの習得を命じた(中公新書48)