本編
◯1425年 ドンレミ
マルグリットの伝令を受けてカタリナが向かったのは、フランス東部。ロレーヌ地方とシャンパーニュ地方の境界付近に開かれた小さな農村だ。
妖精の子孫を名乗るブールレモン家の末裔、女領主ジャンヌ・ド・ジョワンヴィルが治めるその村は、名をドンレミといった。
暮らす世帯は50ほど。近くにはムーズ川や美しい名もなき泉、ブールレモン家が所領する広大な広葉樹林・ヴォージュの森があり、村のほぼ中央に置かれた教会の近くには3本の小川が流れる。この川を境として、20世帯の自由民が集まる北側はシャンパーニュ領、30世帯のマンモルトに従う村民たちが暮らす南側はバール公領に属していた。
村のほぼ中央に広がる共同耕作地や泉の周りは、常に村人や木の実を食む鳥や豚で賑わう。カタリナはそんな泉のほとりに広がる大柏の森、その大木の根本から件の少女ジャネットを見守る日々を送った。
初めて目にした時、彼女はまだ3歳だった。赤みを帯びた栗色に輝く、首筋に甘えるように緩く波打つ髪。無垢そのものを固めたような同色の円な瞳。まだ幼さが残る、しかし凛と大人びたその目鼻立ちは、遥か彼方の街・ナンシーにまで噂が届くほど愛らしかった。
ジャネットが生まれたのは、村の世話役を担う家系。3人の兄と姉に続く5番目の子どもとして、この世に生を受けた。父はジャック、母はイザベル。特に母は《主》に対して甚く敬虔で知られ、その教えは5人の兄弟姉妹にも強く受け継がれている。
マルグリットが《依り代》として見初めたのも頷けるほど、ジャネットは敬虔だった。父の決めた婚約者に目もくれず処女を固く貫き、祈りの時間を告げる鐘が鳴れば、誰よりも早く教会へ駆け出す。その篤い信仰心は、カタリナも《依り代》として申し分ないと思う。
だが、そんな彼女にカタリナが抱いた第一印象は―――不安だった。
確かに《主》の神子として、福女たる自分の《依り代》となるに相応しいだけの敬虔さ、清らかさを備えてはいる。
だが彼女は、その手を数多の血で汚す宿命を背負うには……あまりにも優しすぎた。
戦禍に巻き込まれた人が村へ避難してきた時には必ず家に招き、自分の寝台を譲って介抱に努め、自身は屋根裏部屋で一夜を過ごした。その隣人愛は種の壁を超えるほどに深く、気の弱い小鳥が恐れも迷いもなく、彼女の手の中の餌を喜んで食べにくるほどだった。
この少女は過酷な務めに耐えられるのか……。カタリナは慎重にジャネットを見極めた。そもそも幼かったため、もとより戦禍へ馳せ参じるに足る年齢まで待つ必要があったが、《依り代》として相応しいか判断を下すのに、かなりの時間を要したのも確かだ。
アザンクール以降の10年で、フランスはさらに混迷を極めていた。イングランドのフランス進攻が加速する中、フランスではブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立が深刻化。1417年に、アルマニャック派がブルゴーニュ公ジャン・サン・プールと関係を深めていた王妃イザボー・ド・バヴィエールをフランス王シャルル6世もろともパリから追放すると、翌年にはブルゴーニュ公がパリを奪還してアルマニャック派を追放した。さらにシャルル6世とイザボーは、アルマニャック派が担いだ実子の王太子シャルルを廃絶。1420年にはイングランドとトロワ条約を締結し、王太子の王位継承権を剥奪するに至る。
ドンレミにも混乱の余波は及んだ。1425年、少し前に始まった停戦交渉などの影響で仕事を失い、野武士と化したアンリ・ドルリーなる傭兵が仲間と村を襲撃。ジャネットたちはブールレモン家が所有するムーズ川中洲の城館に避難し、事件はジャンヌ・ド・ジョワンヴィルの従兄弟の軍勢が解決したが、村は多大な被害を受けた。
事が落ち着くと、ジャネットは誰よりも早く村へ戻った。そして、荒れ果てた家屋や田畑、惨殺された家畜の山を前に膝を折り、ひどく涙し、神である《主》に語りかけた。
「なぜですか……なぜ、このような悲劇が繰り返されるのですか?」
月夜の下、村の全容を見渡せる小高い丘の上、ジャネットの声が震えつつも力強く響く。
「ここ数年、フランスは戦争でひどい荒れ様です。盗賊や野武士による略奪は一向に止みません。今ではドンレミも、野武士にお金を払って保護を買い取らなければなりません……。セルメーズの従兄弟も野武士の略奪で亡くなりました……。《主》は、なぜこのような悲惨な状況を見過ごされるのですか? なぜイスラエルの民に応えたように、フランスに解放者を遣わしてはくださらないのですか……?」
本来なら夢と希望にあふれている幼子が世を憂うほど、今のフランスに未来はない。悲惨な現状からの解放を願う民の声は絶えず、フランス全土はもはや悲鳴の坩堝に等しかった。
すると、ジャネットの背後、木陰に控えていたカタリナが、静かに彼女に歩み寄る。
「《主》を疑ってはいけません」
カタリナがジャネットと初めて言葉を交わしたのは、この時だった。村を見下ろす丘の上、雲一つない蒼く煌めく世界の中で、2人は出会った。
背後から唐突に聞こえた言葉に慄いたジャネットが、咄嗟に振り返る。
「あ、あなた、は……?」
彼女の顔色には明らかに怯えの色があった。当然だろう。野武士の襲撃直後、夜半に茨の冠を戴いた見知らぬ女が歩み寄れば、誰しも恐怖して不思議はない。
「私は福女カタリナ。この身はすでにこの世にあらず、今は《主》の遣いとして、現世の祈願を代行する者です」
「福女の……カタリナ、様……!? あ、あのシエナの……!?」
シエナ。生前のカタリナが生まれたイタリアの街だ。街の染物屋、そこの24番目の末子として彼女は生を享けた。
「ぶ、無礼をお許しください! そ、そのようなつもりは決して……!」
カタリナの素性を知ったジャネットは、反射的に膝と両手を地面について頭を垂れた。
だが、無理もない。生前のカタリナは多くの奇跡を為した偉大なる指導者だ。病に苦しむ市井の民を献身的に看病したり、アヴィニョン幽囚でフランス王の意のままとなっていた教皇をローマへ戻したり、大シスマの時には対応に苦慮した教皇ウルバヌス6世が助言を求めて召喚したりするなど、派閥や階級を超えて多大な影響力を及ぼした。シエナでペストが流行した時には、多くの奇跡を《主》に執り成して大勢の命を救い、その業を悪魔の所業だと非難した者すら、逆に彼女に魅せられて弟子になるほどだった。
もっとも、未だ疑念を抱く者もいる福女の存在を欠片も疑わない篤い信仰心は、やはり《依り代》に相応しい敬虔さだ。
「……故郷を救いたいですか?」
カタリナは子鹿のように震えるジャネットを咎めるのではなく、自らも膝をつき、彼女の頬に手を添えて尋ねた。
「……え?」
唐突な謎めいた問いかけ、そして高貴なる手に触れられた動揺からか、ジャネットはやや上気した表情と虚ろな瞳でカタリナを見つめる。
「《主》は私に語りました。この戦乱の原因を突き止め、排除せよと。そして貴方に、そのための《依り代》として力を借りなさいと」
「……《依り代》?」
「私たち天上の存在は通常、現世に干渉できません。人の世は人が導くが道理。ですが、悪魔や人ならざる存在が現世を乱している場合、その力に対抗すべく、人の体を借りて天上の力を行使します。それが《依り代》です」
10年ばかりジャネットを見てきた中で、素質は十分だと判断はついた。残るは彼女の意志だ。国を救いたいという意思はあれど、国を救おうという意志は、果たしてあるのか。
「そ、そんな……そんな畏れ多い役目、私のような取るに足りない者にはとても……馬にも乗れませんし、ましてや戦なんて……」
ジャネットが伏し目がちに呟いた答えは、しかしカタリナの予想通りでもあった。戦禍に身を投じるなど、いかに敬虔な者であってもそう易々と背負える使命ではない。
「気に病む必要はありません。《主》は迷える仔羊に望まぬ使命を授けるを良しとしません」
だが、その瞳に揺らめく微かな迷いを、カタリナは確かに認めてもいた。彼女はジャネットの頭に右手を乗せ、慰めるでも咎めるでもなく、静かに言葉を続ける。
「もし応える意志が湧いたら、《妖精の樹》の下に来てください。そうでなければ、ヴォージュの柏の枝を手折って泉に投げてください。それを答えとして受け止めましょう」
《妖精の樹》―――ヴォージュの森の外れにある小高い丘に生えた1本の大木。捻じれ曲がった幹に逆さ船を乗せたような、長大な枝葉を大地に垂らして広がる異様の樹だ。
カタリナは最後にそれだけ言い残すと、躊躇いなくジャネットに背を向けて、彼女のもとを去る。そして、いつも彼女を見守っていた泉のほとりへと戻った。
すると、2人の邂逅を見越していたのか、大柏の木陰で1人の女―――聖女マルグリットが腰を下ろして待っていた。
「久しぶり。どうだったかしら?」
「救国の意志はあれど、迷いが拭い切れていないようです。故郷の平和を願ってはいても、イングランド人と戦いたいわけではないのでしょう」
予期せぬ訪問者にも、カタリナはいつものように無表情で、淡々と答える。
「なるほどね。兵も含めて、民は等しく戦禍の犠牲者、といったところかしら」
「おそらくきっかけがあれば、意志が芽吹くでしょう。ただ、見つかるか分かりませんが、念のため他の《依り代》も探します」
「そうね。戦況も予断を許さなくなりつつあるわ。トロワ条約の後、ブルゴーニュ公とブルターニュ公がイングランドと軍事同盟を結んで、王太子一派の要塞が次々と落とされている。今はイングランド側の動きが落ち着いて停戦中だけど、再開したら決着も時間の問題ね」
「何者かの目的は、フランスを落とすことなのでしょうか」
「どうかしら。両者を疲弊させることかもしれないし、この戦乱の裏で何か企んでいるのかもしれない……。未だ影すら掴ませないあたり、かなり厄介ね。ただ少なくとも、この戦争をこのまま決着させるわけにはいかないわ」
「戦況に大きな変化が見られない限り、あと3年だけ待ちます。その前に別の《依り代》が見つかれば、その者に協力を仰ぎます」
「確かにそのくらいが限界ね。分かったわ」
……だが、幸か不幸か、2人の懸念は間もなく解消される。
時は2年後、1427年。
―――ジャネットの姉が、亡くなった。
マルグリットの伝令を受けてカタリナが向かったのは、フランス東部。ロレーヌ地方とシャンパーニュ地方の境界付近に開かれた小さな農村だ。
妖精の子孫を名乗るブールレモン家の末裔、女領主ジャンヌ・ド・ジョワンヴィルが治めるその村は、名をドンレミといった。
暮らす世帯は50ほど。近くにはムーズ川や美しい名もなき泉、ブールレモン家が所領する広大な広葉樹林・ヴォージュの森があり、村のほぼ中央に置かれた教会の近くには3本の小川が流れる。この川を境として、20世帯の自由民が集まる北側はシャンパーニュ領、30世帯のマンモルトに従う村民たちが暮らす南側はバール公領に属していた。
村のほぼ中央に広がる共同耕作地や泉の周りは、常に村人や木の実を食む鳥や豚で賑わう。カタリナはそんな泉のほとりに広がる大柏の森、その大木の根本から件の少女ジャネットを見守る日々を送った。
初めて目にした時、彼女はまだ3歳だった。赤みを帯びた栗色に輝く、首筋に甘えるように緩く波打つ髪。無垢そのものを固めたような同色の円な瞳。まだ幼さが残る、しかし凛と大人びたその目鼻立ちは、遥か彼方の街・ナンシーにまで噂が届くほど愛らしかった。
ジャネットが生まれたのは、村の世話役を担う家系。3人の兄と姉に続く5番目の子どもとして、この世に生を受けた。父はジャック、母はイザベル。特に母は《主》に対して甚く敬虔で知られ、その教えは5人の兄弟姉妹にも強く受け継がれている。
マルグリットが《依り代》として見初めたのも頷けるほど、ジャネットは敬虔だった。父の決めた婚約者に目もくれず処女を固く貫き、祈りの時間を告げる鐘が鳴れば、誰よりも早く教会へ駆け出す。その篤い信仰心は、カタリナも《依り代》として申し分ないと思う。
だが、そんな彼女にカタリナが抱いた第一印象は―――不安だった。
確かに《主》の神子として、福女たる自分の《依り代》となるに相応しいだけの敬虔さ、清らかさを備えてはいる。
だが彼女は、その手を数多の血で汚す宿命を背負うには……あまりにも優しすぎた。
戦禍に巻き込まれた人が村へ避難してきた時には必ず家に招き、自分の寝台を譲って介抱に努め、自身は屋根裏部屋で一夜を過ごした。その隣人愛は種の壁を超えるほどに深く、気の弱い小鳥が恐れも迷いもなく、彼女の手の中の餌を喜んで食べにくるほどだった。
この少女は過酷な務めに耐えられるのか……。カタリナは慎重にジャネットを見極めた。そもそも幼かったため、もとより戦禍へ馳せ参じるに足る年齢まで待つ必要があったが、《依り代》として相応しいか判断を下すのに、かなりの時間を要したのも確かだ。
アザンクール以降の10年で、フランスはさらに混迷を極めていた。イングランドのフランス進攻が加速する中、フランスではブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立が深刻化。1417年に、アルマニャック派がブルゴーニュ公ジャン・サン・プールと関係を深めていた王妃イザボー・ド・バヴィエールをフランス王シャルル6世もろともパリから追放すると、翌年にはブルゴーニュ公がパリを奪還してアルマニャック派を追放した。さらにシャルル6世とイザボーは、アルマニャック派が担いだ実子の王太子シャルルを廃絶。1420年にはイングランドとトロワ条約を締結し、王太子の王位継承権を剥奪するに至る。
ドンレミにも混乱の余波は及んだ。1425年、少し前に始まった停戦交渉などの影響で仕事を失い、野武士と化したアンリ・ドルリーなる傭兵が仲間と村を襲撃。ジャネットたちはブールレモン家が所有するムーズ川中洲の城館に避難し、事件はジャンヌ・ド・ジョワンヴィルの従兄弟の軍勢が解決したが、村は多大な被害を受けた。
事が落ち着くと、ジャネットは誰よりも早く村へ戻った。そして、荒れ果てた家屋や田畑、惨殺された家畜の山を前に膝を折り、ひどく涙し、神である《主》に語りかけた。
「なぜですか……なぜ、このような悲劇が繰り返されるのですか?」
月夜の下、村の全容を見渡せる小高い丘の上、ジャネットの声が震えつつも力強く響く。
「ここ数年、フランスは戦争でひどい荒れ様です。盗賊や野武士による略奪は一向に止みません。今ではドンレミも、野武士にお金を払って保護を買い取らなければなりません……。セルメーズの従兄弟も野武士の略奪で亡くなりました……。《主》は、なぜこのような悲惨な状況を見過ごされるのですか? なぜイスラエルの民に応えたように、フランスに解放者を遣わしてはくださらないのですか……?」
本来なら夢と希望にあふれている幼子が世を憂うほど、今のフランスに未来はない。悲惨な現状からの解放を願う民の声は絶えず、フランス全土はもはや悲鳴の坩堝に等しかった。
すると、ジャネットの背後、木陰に控えていたカタリナが、静かに彼女に歩み寄る。
「《主》を疑ってはいけません」
カタリナがジャネットと初めて言葉を交わしたのは、この時だった。村を見下ろす丘の上、雲一つない蒼く煌めく世界の中で、2人は出会った。
背後から唐突に聞こえた言葉に慄いたジャネットが、咄嗟に振り返る。
「あ、あなた、は……?」
彼女の顔色には明らかに怯えの色があった。当然だろう。野武士の襲撃直後、夜半に茨の冠を戴いた見知らぬ女が歩み寄れば、誰しも恐怖して不思議はない。
「私は福女カタリナ。この身はすでにこの世にあらず、今は《主》の遣いとして、現世の祈願を代行する者です」
「福女の……カタリナ、様……!? あ、あのシエナの……!?」
シエナ。生前のカタリナが生まれたイタリアの街だ。街の染物屋、そこの24番目の末子として彼女は生を享けた。
「ぶ、無礼をお許しください! そ、そのようなつもりは決して……!」
カタリナの素性を知ったジャネットは、反射的に膝と両手を地面について頭を垂れた。
だが、無理もない。生前のカタリナは多くの奇跡を為した偉大なる指導者だ。病に苦しむ市井の民を献身的に看病したり、アヴィニョン幽囚でフランス王の意のままとなっていた教皇をローマへ戻したり、大シスマの時には対応に苦慮した教皇ウルバヌス6世が助言を求めて召喚したりするなど、派閥や階級を超えて多大な影響力を及ぼした。シエナでペストが流行した時には、多くの奇跡を《主》に執り成して大勢の命を救い、その業を悪魔の所業だと非難した者すら、逆に彼女に魅せられて弟子になるほどだった。
もっとも、未だ疑念を抱く者もいる福女の存在を欠片も疑わない篤い信仰心は、やはり《依り代》に相応しい敬虔さだ。
「……故郷を救いたいですか?」
カタリナは子鹿のように震えるジャネットを咎めるのではなく、自らも膝をつき、彼女の頬に手を添えて尋ねた。
「……え?」
唐突な謎めいた問いかけ、そして高貴なる手に触れられた動揺からか、ジャネットはやや上気した表情と虚ろな瞳でカタリナを見つめる。
「《主》は私に語りました。この戦乱の原因を突き止め、排除せよと。そして貴方に、そのための《依り代》として力を借りなさいと」
「……《依り代》?」
「私たち天上の存在は通常、現世に干渉できません。人の世は人が導くが道理。ですが、悪魔や人ならざる存在が現世を乱している場合、その力に対抗すべく、人の体を借りて天上の力を行使します。それが《依り代》です」
10年ばかりジャネットを見てきた中で、素質は十分だと判断はついた。残るは彼女の意志だ。国を救いたいという意思はあれど、国を救おうという意志は、果たしてあるのか。
「そ、そんな……そんな畏れ多い役目、私のような取るに足りない者にはとても……馬にも乗れませんし、ましてや戦なんて……」
ジャネットが伏し目がちに呟いた答えは、しかしカタリナの予想通りでもあった。戦禍に身を投じるなど、いかに敬虔な者であってもそう易々と背負える使命ではない。
「気に病む必要はありません。《主》は迷える仔羊に望まぬ使命を授けるを良しとしません」
だが、その瞳に揺らめく微かな迷いを、カタリナは確かに認めてもいた。彼女はジャネットの頭に右手を乗せ、慰めるでも咎めるでもなく、静かに言葉を続ける。
「もし応える意志が湧いたら、《妖精の樹》の下に来てください。そうでなければ、ヴォージュの柏の枝を手折って泉に投げてください。それを答えとして受け止めましょう」
《妖精の樹》―――ヴォージュの森の外れにある小高い丘に生えた1本の大木。捻じれ曲がった幹に逆さ船を乗せたような、長大な枝葉を大地に垂らして広がる異様の樹だ。
カタリナは最後にそれだけ言い残すと、躊躇いなくジャネットに背を向けて、彼女のもとを去る。そして、いつも彼女を見守っていた泉のほとりへと戻った。
すると、2人の邂逅を見越していたのか、大柏の木陰で1人の女―――聖女マルグリットが腰を下ろして待っていた。
「久しぶり。どうだったかしら?」
「救国の意志はあれど、迷いが拭い切れていないようです。故郷の平和を願ってはいても、イングランド人と戦いたいわけではないのでしょう」
予期せぬ訪問者にも、カタリナはいつものように無表情で、淡々と答える。
「なるほどね。兵も含めて、民は等しく戦禍の犠牲者、といったところかしら」
「おそらくきっかけがあれば、意志が芽吹くでしょう。ただ、見つかるか分かりませんが、念のため他の《依り代》も探します」
「そうね。戦況も予断を許さなくなりつつあるわ。トロワ条約の後、ブルゴーニュ公とブルターニュ公がイングランドと軍事同盟を結んで、王太子一派の要塞が次々と落とされている。今はイングランド側の動きが落ち着いて停戦中だけど、再開したら決着も時間の問題ね」
「何者かの目的は、フランスを落とすことなのでしょうか」
「どうかしら。両者を疲弊させることかもしれないし、この戦乱の裏で何か企んでいるのかもしれない……。未だ影すら掴ませないあたり、かなり厄介ね。ただ少なくとも、この戦争をこのまま決着させるわけにはいかないわ」
「戦況に大きな変化が見られない限り、あと3年だけ待ちます。その前に別の《依り代》が見つかれば、その者に協力を仰ぎます」
「確かにそのくらいが限界ね。分かったわ」
……だが、幸か不幸か、2人の懸念は間もなく解消される。
時は2年後、1427年。
―――ジャネットの姉が、亡くなった。