本編

◯1415年 フランス アザンクール

 ―――後世、英仏百年戦争と呼ばれる戦乱があった。
 戦端が開かれたのは1337年。フランス王フィリップ6世がイングランド王エドワード3世に対して、イングランドが所有するフランス南西部のアキテーヌ領、英名ガスコーニュの没収を通告したのがきっかけだった。
 通告の原因は、イングランドが匿ったフランス政治犯の返還を拒否したためだ。しかし、両者の対立はそれ以前から根深い。スコットランドの王位継承問題に、一大商業地フランドルの権益をめぐる問題。その裏で燻り続けていた不満も、このとき併せて引き金となった。
 フランスの通告に対して、エドワード3世は「ガスコーニュは《主》より賜った土地」と反論して宣戦を布告。1340年にフランス王家のカペー家が断絶すると、後継のヴァロワ家に対して、実母がフランス王家の血縁であることを根拠にフランス王位継承権も主張。両者の対立はさらに激しさを増す。
 戦争は当初、イングランドが圧倒した。フランスはイングランドの数倍の領土と戦力を有していたにもかかわらず連戦連敗。イングランド軍の画期的な戦術に加え、当時のフランス貴族が自身の権利と自領の拡大を第一に、寝返りや反乱を繰り返したのも劣勢を加速させた。
 だが14世紀後半、戦争を牽引していたフランス王シャルル5世と同軍の英雄ベルトラン・デュ・ゲクラン、イングランド王エドワード3世と同軍の英雄エドワード黒太子が相次いで死去。両者とも戦意が萎んだ結果、1396年に28年間の休戦協定がパリで締結される。
 こうして訪れた、久しく忘れていた束の間の平穏。
 このまま和平の気運が高まり、やがては真の平穏が訪れる……。戦禍に嫌気が差していた民は、誰しもがそう願っていた。
 しかし1399年。イングランドで内乱が発生し、王朝が転覆。新たにランカスター朝が誕生すると、初代ヘンリー4世と2代目ヘンリー5世はいずれも対仏強硬路線を主張した。一方、フランスでも二大政治勢力の片翼・アルマニャック派が、武力によって誕生したランカスター朝の正統性を非難。両者の対立が再燃し、世は再び戦乱の坩堝と化す。
 戦が続けば、戦費のための課税や物価の上昇も止まらない。市井の人々の心身は休まる間もなく、もはや限界を迎えつつあった。
 そして迎えた、1415年。
 時代は新たな、そして大きな転換の訪れを告げる……。


 荒れ果てた大地には、大量の骸が転がっていた。
 東西を広大な森に挟まれた泥濘の隘路、その至るところに打ち捨てられた死体の数は、およそ2000。大半は体中に矢を生やしており、転がる剣の柄には、金色に輝く二輪の百合が刻まれている。フランス王家の始祖クローヴィスが天使より授けられた軍旗に由来するフランスの紋章だ。
 ―――アザンクールの戦い。
 1415年、イングランドとフランスの間で勃発した一戦は、フランスが圧倒的な数的優位を築いたにもかかわらず、歴史的な大敗を喫した。弩を中心としたフランスの鈍重な戦術は、イングランドの長弓を軸とした巧みな戦術によって尽く潰された。
 一帯には兵士の死体だけでなく、軍馬の亡骸、剣や弓、斧や鎧の残骸、滲んだ血痕など、多くの遺物が散乱していた。だが、人の姿は見渡す限りどこにも見られない。
 ……ただ一人を除いては。
 戦場の跡地に、女の姿があった。神々しさすら感じさせる近寄りがたい雰囲気を纏った一人の女。幻想的なほど美しい金色の短い髪、その上に巻かれた細く白いカーチフには、麗しい外見には似つかわしくない痛々しい茨の冠が巻かれている。装束は修道服とも民族衣装とも取れる白いローブ。その上に羽を広げた蝙蝠のような古びた黒い外套を羽織っていた。
 およそ戦地にそぐわない整った身なり。だが、彼女の異様さを何より際立たせているのは、その振る舞いだ。泥濘んだ大地に膝をつき、両腕で戦死者の切り落とされた頭部を抱き締めている。その表情はどこか悲しげで、愛おしげで、恍惚とした風でもあり……。時おり虚ろに瞬く鋭くもどこか優しげな碧眼は、透徹とした美しさを湛える一方、官能的な狂気を思わせる妖しい輝きも放っていた。
 首は、まだ青年だった。
 年の頃は15くらいか。切り離された体は細く、白い腕は剣よりもペンが似合っただろう。木漏れ日あふれる窓際、湖畔を眺めながら詩でも綴れば、さぞや画になったに違いない。
 将来は何をしたかったのだろうか。もはや知ることは叶わない。だが、首だけになり、泥に塗れて朽ち果てるなどという無残な最期は、流石にあまりではないか……。
 最期の表情は、目を瞑り、口を静かに閉じていた。穏やかな寝顔のように。おそらく痛みを感じる間もなく、その時を迎えたのだろう。臨終に苦しまなかったのが、せめてもの救いか。
 願わくば、死後は安らかなひと時を……。女は名も知らぬ青年を憐れみ、その首を愛しき我が子を慰めるように抱き締める。

「天上に入った後も、生前と変わらないわね、カタリナ」

 いつの間に現れたのか、彼女の後ろに一人の女が立っていた。臙脂色の長い髪を髪留めで後ろでまとめ、司祭服を思わせる高尚な白装束に身を包んだ女。その手には白銀に輝く身の丈以上の十字杖が握られており、纏う雰囲気は高貴な聖職者を思わせる。

「……およそ人の戦の跡地とは思えない荒れ様ですね。いつからフランスとイングランドの騎士は蛮族と化したのですか……? 聖女マルグリット」

 呼びかけられた女―――カタリナは、戦死者の頭部を抱いたまま、振り返ることもなく背後の女の呼びかけに応える。言葉こそ手厳しいが、その口調は皮肉ではなく、真に憂う響きを宿し、その表情は痛々しい光景に心を痛める聖母さながらだった。

「それだけ憎しみが深いのよ。あなたが亡くなった頃、両王家の世代交代があったけど、即位したのはどちらも幼王だった。そこに大シスマも重なって戦は長らく休戦。でも、その間も派閥間抗争の鬱憤や戦費調達で繰り返された課税に対する不満で、両陣営は市井を含めて大荒れでね。そのすべてがヘンリー5世のフランス遠征をきっかけに噴出したのよ」

 一帯を見回しながら語る女―――マルグリット。
 だが、その答えに納得できないのか、カタリナは黙ったまま、首と見つめ合う。
 ……確かに戦争は醜い。だが、少なからず守るべき模範や規律、即ち騎士道精神がある。弓は騎士道に反する武器であり、相手の首を落として遺棄するなど許される行為ではない。
 騎士道を外れた人ならざる蛮行。その理由として、マルグリットの説明は確かに弱すぎた。
 そんなカタリナの疑問を察してか、マルグリットは「……というのが表の理由」と続けた。

「……どういうことですか?」
「この戦には裏がある。それが今回、あなたに下界まで来てもらった理由でもある」
「裏……」
「あなたも知っての通り、この戦争は当初、フランス王とイングランド王の個人的な諍いとして始まった。でも、イングランドがフランス王位継承権を主張したり、大陸領における臣従礼の清算を持ち出したり、フランスが政治犯の引き渡しを要求したり、いつからか政治闘争に様変わりして、気がつけばもう80年近く臣民を巻き込んで続いている。これほど複雑化した戦争は人類史上、他に類を見ないわ」

 人類史上、類を見ない……その一言で、カタリナはマルグリットの含みを察した。

「……聖女は、人ならざる存在の関与を疑っているのですか?」
「ええ。実際それらしい傍証が数多くあるわ。フランス側でいえば、ブルゴーニュ公ジャン・サン・プールは100人を超える魔女と関わりがあるとされているし、政敵のオルレアン公ルイの殺害で悪魔に助力を求めた手紙も確認された。イングランド側にも怪しい動きが見られるし、下界を乱そうとする何者かが関与しているのは間違いないわ。そうであれば、この凄惨な戦の有様も納得はできない?」
「……つまり、その人ならざる者を探し出して排除するのが今回の務め、ですか」
「そう。悪魔か、悪魔の息がかかった黒魔術師か、あるいは別の何者か……いずれにしても、人ならざる者は人の世に関与してはならない。人の世を導くのは、あくまでも人意と人為。野放しにしておくわけにはいかないわ」

 マルグリットの言葉に、カタリナは首を優しく抱いたまま、ゆっくり立ち上がる。

「分かりました。私は《主》の御心のままに動くだけです」
「相変わらず堅いわね……。まぁだからこそ、死後わずか30年で福女として再誕できたわけだけど」
「ご用命は以上ですか? でしたら、すぐにでも《依り代》を探しにいきます」
「ああ。それについては、すでに見つけてあるわ」

 早くもマルグリットに背中を向けたカタリナの足が止まる。

「場所はバール公領。ロレーヌとシャンパーニュの間にあるムーズ川沿いの小さな村よ。そこの名士の娘を見極めなさい。まだ幼いから少し時間はかかるでしょうけど、おそらく彼女以上の《依り代》はいないわ」
「……その娘の名は?」

 後ろを振り返るカタリナ。

「ジャネット」

 マルグリットの姿は、もう消えていた。



 これが、カタリナと少女ジャネットの歴史が、初めて交わった瞬間。
 ―――後世、ジャンヌ・ダルクと呼ばれる少女と紡ぐ物語のはじまりだった。
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