本編
1427年。
パリの支配者であるイングランドの代官ベドフォード公が本国へ帰還した影響で、戦争は一時停戦中。フランスはいつか再び訪れる戦禍に怯えながらも、束の間の平穏を享受していた。
そんな中、訪れた春。カトリーヌは子どもを宿した。
周囲は大いに喜んだ。家族も、友人たちも。ジャネットも新たな生命の誕生に心からの笑顔を見せ、「姉様、名前はもう決めたんですか?」と、嬉しそうに何度も尋ねてきた。
福女カタリナとの邂逅から2年。ジャネットは表向き普段の彼女に戻っていた。森を気にする様子を見せなくなり、あるいは使命への協力を拒んだのだろうか……。
だが、ジャネットが誰よりも敬虔なのを知るカトリーヌは、その可能性に懐疑的だった。
あれほど《主》を思う彼女が……自身とは違い、親にも主任司祭にも内緒で《主》のために純血を守る誓いを立て、厳格な父の決めた婚約にも毅然と反対して処女を貫く彼女が、《主》の使命を断るなどありえるのか、と。
しかし、婚約に伴う慌ただしさから、この頃のカトリーヌは次第に、無意識に、妹を気にかける余裕を失っていった。
……事件が起きたのは、その矢先だった。
夏も半ばを過ぎた頃。カトリーヌは聖女マルグリットに安産を祈願するため、夫のコランとベルモンのノートルダム教会堂を訪れていた。当時は産褥で亡くなる女性が多く、この頃はさらに増えていた。出産は文字通り命懸けだったのだ。
―――だが。
「……ん?」
不幸にも、出産より前にカトリーヌを危機が襲う。
最初に異変に気づいたのは、コランだった。
「どうしたの?」
「なんだか外が騒がしいような……」
2人が教会堂を出ると、眼下で街の人々が慌てふためいていた。家財を荷車に乗せて足早にどこかへ急ぐ者、共有牧場の家畜を必死に引っ張る者。誰もが己の衝動のまま散り散りに逃げ惑っており、その表情は皆、等しく恐怖に染まっている。
「な、なに、これ……? いったい、なにが……」
答えはすぐに、息を切らして駆け寄ってきた教会堂の管理者からもたらされた。
「お、おふたりとも、すぐに村へ戻られたほうがよろしいかと……!」
「い、いったいなにがあったんですか?」
「ヴォークールールをシャンパーニュの軍勢が包囲したそうです! いまうちも避難を急いでいます!」
「……っ!? そ、そんな……っ!」
シャンパーニュ。ベドフォード公の一派である総督アントワーヌ・ド・ヴェルジーが統治するフランス北東の州だ。ヴォークールールはドンレミの北およそ10キロ、目と鼻の先にある街で、一帯がブルゴーニュ派すなわちイングランドに与する土地にあって、長らくフランス王太子シャルルを支持する王党派の飛び地として存在している。
ベルモンの人々が慌てているのは、両者の戦火が及ぶ前に避難するためだったのだ。
「カトリーヌ、急いで戻ろう!」
「え、ええ……!」
2人も急いで自身の家へ戻った。だが、幸い全員すでに避難した後だったため、カトリーヌも有事の避難先である20キロほど南のヌフシャトーへ移動。そこで村人と合流した。
「姉様!」
「ジャネット! よかった、無事で……!」
我先に駆け寄ってくる家族や友人たち。その中にはジャネットの姿もあった。
ドンレミの人々は、しばらくヌフシャトーに滞在することになった。カトリーヌやジャネットも街で旅籠を営むルッス家に滞在。いち早い戦禍の収束を祈りながら仕事を手伝いつつ、しばし平穏な時を過ごす。
しかし、街の静かな雰囲気とは裏腹に、カトリーヌの胸中には一抹の不安があった。
理由はジャネットだ。彼女は有事になると、いつも「家畜を残していけないから村に残る」と言い張って父と揉めてしまう。父が無理やり引きずって避難させることもあったほどその意志は固く、避難先ではいつも皆が寝静まった後に抜け出すのではと誰もが怯えたほどだ。
だからこそカトリーヌは毎夜、必ずジャネットと一緒に寝台へ入り、彼女が眠ったのを確認するまで起きていた。彼女が一人隠れてドンレミへ戻ることがないように。
……だが、いつ戦禍が及ぶとも知れない緊張した生活の中、そのような無理が長く続くわけもなかった。
避難から1週間後。カトリーヌは、ジャネットより先に眠りに落ちてしまった。
次に目を覚ました時、カトリーヌは寝ぼける暇もなく咄嗟に自らの不手際を察し、慌てて隣を見た。
―――ジャネットの姿は、なかった。
(しまっ……ッ!)
すぐに外へ飛び出し、北へ向けて駆け出すカトリーヌ。あの子は間違いなくドンレミへ向かった。今すぐ止めなければ―――。
まだ身重でなかったとはいえ、20キロの道のりを夜通し走り続けるのは、もちろん楽ではない。それでも、ただ妹の身を案じる思い一つが、今にも音を上げそうな肺や両足にひたすら鞭を入れて動かし続けた。
やがて宵時を迎えた頃。ドンレミの近くにある、禍々しい樫の木が立つ四辻が見えてきた。太古より悪霊が巣食い、闇が深まると近づいた者の魂を食らうと伝わる木だ。カトリーヌも父から「鶏が鳴くまで、あの四辻には近づくな」と厳しく言い含められていた。
そこで、カトリーヌの足が突然、止まった。
だが、伝承の恐怖ゆえではなかった。
(む、村が……)
遠くに見えるは、彼女の生まれ故郷、ドンレミ。
その全容が闇夜にあって、赤々と輝いていたのだ。
―――村が、燃えている。
そう悟るよりも早く、カトリーヌの足は動いていた。
慎重に、しかし急いで村の共有牧場をめざす。
村に人はいない。残されたのは家畜たちだ。ジャネットは間違いなく家畜を助けに動いた。
(ジャネット……ッ!)
村へ近づくにつれ、何かが燃える音、崩れる音、狂騒めいた声、獰猛な唸り声などが次々と聞こえてきた。略奪に興じる軍勢によるものだ。
極度の恐怖がカトリーヌの心臓を潰しにかかる。見つかったが最後、間違いなく命はない。自分も。ジャネットも。
もはや一刻の猶予もない。闇雲に探していては死が迫るだけだ。
だが幸運にも、牧場が見えたと同時に彼女の探し人は見つかった。
(ジャネット!)
彼方の牧場には家畜たちを必死にムーズ川のほうへ導いているジャネットの姿があった。
最愛の妹を目にして僅かな、しかし確かな安堵を覚えるカトリーヌ。疲労は疾うに限界だったが、微かに戻った気力を振り絞り牧場めがけて足を速める。
「―――ッ!?」
だが、そんな彼女の希望を打ち砕かんとする襲撃者が突如、視界の左に現れた。
西に広がる、月光を欠片も寄せつけない漆黒のヴォージュの森。その奥から黒き獣の群れが飛び出してきたのだ。
狼か? だが闇夜に溶けるほど黒一色の狼など聞いたことがない。
しかしそんなことを考えている場合ではなかった。獣たちは迷いなく牧場へ向かっている。
「ジャネットッ!」
喉が張り裂けんばかりに妹の名を叫ぶカトリーヌ。だがジャネットは彼女の声にも狼にも気づいていない。
牧場へ見る見る迫る黒き獣。恐ろしいほど素早く音もなく。
必死に牧場めざして駆けるカトリーヌ。
距離は自分のほうが近い。だが速さは向こうが遥かに上だ。このままでは。
(―――ッ!)
一瞬だが確かに過ぎった弱気を歯を食いしばって噛み潰すカトリーヌ。
なにを考えている。諦めるなどあり得ない。
胸が痛い。喉が枯れる。足が回らない。頭が割れそうだ。
それでもなけなしの体力を振り絞り、走り続けるカトリーヌ。ただ、妹を救うために。
そのジャネットが獣に気づいた。そして案の定、
(ダメ! 逃げてジャネット!)
彼女は羊を庇うように震える両手を広げて獣たちに立ちはだかる。
そして、獣の一頭がついにジャネットめがけて飛びかかった。
その獰猛な爪が今まさに妹を引き裂かんと襲いかかる。
(ま、に……あえぇぇえぇええぇッッッッッ!)
―――だが寸前、カトリーヌが横から獣に突進。その身もろとも横に吹き飛ばし、間一髪ジャネットを獣の脅威から救い出した。
「ね、姉様!?」
「逃げてジャネット! 早くッ!」
藻掻く獣を抑え込みつつ必死で叫ぶカトリーヌ。
しかし姉を置いてはいけないのか、ジャネットは狼狽したままその場を動けない。その隙にカトリーヌの願い虚しく後方の獣たちが襲来。次々とジャネットめがけて飛びかかった。
―――だが、届かなかった。
その牙、その爪が今にもジャネットを切り裂かんとした瞬間……獣たちが突如、激しく金色に燃え上がった。その様はあまりにも突然で、神の逆鱗に触れたかのような神々しさすら感じさせた。
一帯に燃え盛ったのは―――あまりにも美しい黄金の炎。
いつの間にか2人の周りを炎が囲い、激しく迸る燐光と共に嵐の如き勢いで奔っていた。2人を守るように。獣たちを焼き尽くすように。
「動かないでください」
続けて聞き覚えのある声と共に、カトリーヌが抑え込んでいた獣の首が落ちる。獣はあまりにも呆気なく息絶え、微動だにしなくなった。
炎と共に現れたのは、福女のカタリナだった。その右手には炎と同じく、陽光を固めたかのような輝かしい黄金の剣が握られていた。
「カ、カタリナ、様……?」
「話さないでください。すぐに傷を治療します」
獣の群れが獰猛な雄叫びと共に次々と燃え上がる中、カタリナはカトリーヌの傍らに膝をつき、急いで彼女の右足の太腿に手を当てる。直後、カタリナの手から放たれた淡い光が傷を優しく包み、ゆっくりと塞いでいく。
妹を救おうと必死だったカトリーヌは、抑え込んだ獣が暴れたことで深い傷を負っていたことに全く気づいていなかった。その傷はあまりにも致命的で、負傷に気づいた後もその痛みを自覚できないほど、カトリーヌは出血で酷く憔悴しきっていた。
すべてが落ち着いた直後、張っていた気が抜けたからか、カトリーヌの顔色は驚くほど一気に青白くなった。
「姉様ッ!」
ジャネットもカトリーヌの一大事に気づいたのか、現れたカタリナには一瞥もくれず急いで姉に駆け寄る。
「ジャネット……無事?」
「私は大丈夫です……それより姉様……姉様、が……ごめん、なさ、い……ご、め……な、さい……」
姉の傍らで突然、ジャネットは涙を流し始めた。自分が勝手に飛び出した結果、姉に取り返しがつかない重傷を負わせてしまった……そんな後悔が過ぎった故だろうか。
「そう……よかった……」
それでもカトリーヌの表情は晴れやかだった。妹の無事、その事実と引き換えであれば、我が身がどうなろうとも後悔などない……さながらそう語るかのような笑顔で安堵を漏らす。
直後、治療を終えたカタリナがジャネットに尋ねる。
「これで傷はふさがりました。ですが、体力の消耗が激しいので、すぐに休ませないと危険です。いまはどちらに投宿を?」
「ヌ、ヌフシャトーです、ここから南の……」
「急ぎましょう」
カタリナがカトリーヌを抱え上げ、3人は何度か休憩を挟みながら、日が昇る前にヌフシャトーへ戻った。
結局、ジャネットが夜中に抜け出した一件は、家族や知人には知られなかった。
姉を傷つけてしまった過ちから、ジャネットは事実を包み隠さず明かそうとしたが、カトリーヌがこれを制止。そして、傷こそ塞がったものの体調が万全でない中、気丈にいつも通り振る舞い、周囲に怪しまれないように努めた。すべては妹を庇うために。
最初こそ無理をしていたカトリーヌだったが、やがて体力も少しずつ戻り、秋口には以前と変わらない程度まで回復した。ジャネットも、ヌフシャトーへ戻った直後は折りに触れて姉の様子を窺わずにはいられず、周囲に事情が筒抜ける恐れもあったが、この頃にはそれまでと変わらない仲睦まじい2人のふれあいが、また見られるようになった。
幸せな時間が、戻った。
場所こそ違えど、2人はドンレミにいた頃と変わらない生活を過ごした。投宿先の旅籠で仕事を手伝いつつ、オメットやマンジェットと一緒に街中を巡ったり、近くの森で動物たちと触れ合ったりして、楽しいひと時を過ごした。
そして、11月。カトリーヌは、出産を迎えた。
誕生したのは、女の子。母親さながら街中に響くほど元気に泣きながら生まれた幼子は、家族や知人、ヌフシャトーの人々など、大勢の祝福を受けてこの世に歓迎された。カトリーヌも泣きじゃくる我が子の顔を見て、駆けつけたコランと共に笑顔で涙した。よく生まれてきてくれたね、がんばったね……まだ娘には届かない感謝を、それでも何度も、何度も口にした。
名前はどうしようか。けっこう大きい子だ。用意した衣服の身丈や裾幅は大丈夫かな……まるで我が子の誕生を迎えたかのように、集まった一同は大いに盛り上がった。その熱気は夜になっても収まらず、避難生活という苦境にあるが故か、喜ばしい出来事に人々の歓喜は高まるばかりだった。
―――夜。
カトリーヌの容態が急変するまでは。
パリの支配者であるイングランドの代官ベドフォード公が本国へ帰還した影響で、戦争は一時停戦中。フランスはいつか再び訪れる戦禍に怯えながらも、束の間の平穏を享受していた。
そんな中、訪れた春。カトリーヌは子どもを宿した。
周囲は大いに喜んだ。家族も、友人たちも。ジャネットも新たな生命の誕生に心からの笑顔を見せ、「姉様、名前はもう決めたんですか?」と、嬉しそうに何度も尋ねてきた。
福女カタリナとの邂逅から2年。ジャネットは表向き普段の彼女に戻っていた。森を気にする様子を見せなくなり、あるいは使命への協力を拒んだのだろうか……。
だが、ジャネットが誰よりも敬虔なのを知るカトリーヌは、その可能性に懐疑的だった。
あれほど《主》を思う彼女が……自身とは違い、親にも主任司祭にも内緒で《主》のために純血を守る誓いを立て、厳格な父の決めた婚約にも毅然と反対して処女を貫く彼女が、《主》の使命を断るなどありえるのか、と。
しかし、婚約に伴う慌ただしさから、この頃のカトリーヌは次第に、無意識に、妹を気にかける余裕を失っていった。
……事件が起きたのは、その矢先だった。
夏も半ばを過ぎた頃。カトリーヌは聖女マルグリットに安産を祈願するため、夫のコランとベルモンのノートルダム教会堂を訪れていた。当時は産褥で亡くなる女性が多く、この頃はさらに増えていた。出産は文字通り命懸けだったのだ。
―――だが。
「……ん?」
不幸にも、出産より前にカトリーヌを危機が襲う。
最初に異変に気づいたのは、コランだった。
「どうしたの?」
「なんだか外が騒がしいような……」
2人が教会堂を出ると、眼下で街の人々が慌てふためいていた。家財を荷車に乗せて足早にどこかへ急ぐ者、共有牧場の家畜を必死に引っ張る者。誰もが己の衝動のまま散り散りに逃げ惑っており、その表情は皆、等しく恐怖に染まっている。
「な、なに、これ……? いったい、なにが……」
答えはすぐに、息を切らして駆け寄ってきた教会堂の管理者からもたらされた。
「お、おふたりとも、すぐに村へ戻られたほうがよろしいかと……!」
「い、いったいなにがあったんですか?」
「ヴォークールールをシャンパーニュの軍勢が包囲したそうです! いまうちも避難を急いでいます!」
「……っ!? そ、そんな……っ!」
シャンパーニュ。ベドフォード公の一派である総督アントワーヌ・ド・ヴェルジーが統治するフランス北東の州だ。ヴォークールールはドンレミの北およそ10キロ、目と鼻の先にある街で、一帯がブルゴーニュ派すなわちイングランドに与する土地にあって、長らくフランス王太子シャルルを支持する王党派の飛び地として存在している。
ベルモンの人々が慌てているのは、両者の戦火が及ぶ前に避難するためだったのだ。
「カトリーヌ、急いで戻ろう!」
「え、ええ……!」
2人も急いで自身の家へ戻った。だが、幸い全員すでに避難した後だったため、カトリーヌも有事の避難先である20キロほど南のヌフシャトーへ移動。そこで村人と合流した。
「姉様!」
「ジャネット! よかった、無事で……!」
我先に駆け寄ってくる家族や友人たち。その中にはジャネットの姿もあった。
ドンレミの人々は、しばらくヌフシャトーに滞在することになった。カトリーヌやジャネットも街で旅籠を営むルッス家に滞在。いち早い戦禍の収束を祈りながら仕事を手伝いつつ、しばし平穏な時を過ごす。
しかし、街の静かな雰囲気とは裏腹に、カトリーヌの胸中には一抹の不安があった。
理由はジャネットだ。彼女は有事になると、いつも「家畜を残していけないから村に残る」と言い張って父と揉めてしまう。父が無理やり引きずって避難させることもあったほどその意志は固く、避難先ではいつも皆が寝静まった後に抜け出すのではと誰もが怯えたほどだ。
だからこそカトリーヌは毎夜、必ずジャネットと一緒に寝台へ入り、彼女が眠ったのを確認するまで起きていた。彼女が一人隠れてドンレミへ戻ることがないように。
……だが、いつ戦禍が及ぶとも知れない緊張した生活の中、そのような無理が長く続くわけもなかった。
避難から1週間後。カトリーヌは、ジャネットより先に眠りに落ちてしまった。
次に目を覚ました時、カトリーヌは寝ぼける暇もなく咄嗟に自らの不手際を察し、慌てて隣を見た。
―――ジャネットの姿は、なかった。
(しまっ……ッ!)
すぐに外へ飛び出し、北へ向けて駆け出すカトリーヌ。あの子は間違いなくドンレミへ向かった。今すぐ止めなければ―――。
まだ身重でなかったとはいえ、20キロの道のりを夜通し走り続けるのは、もちろん楽ではない。それでも、ただ妹の身を案じる思い一つが、今にも音を上げそうな肺や両足にひたすら鞭を入れて動かし続けた。
やがて宵時を迎えた頃。ドンレミの近くにある、禍々しい樫の木が立つ四辻が見えてきた。太古より悪霊が巣食い、闇が深まると近づいた者の魂を食らうと伝わる木だ。カトリーヌも父から「鶏が鳴くまで、あの四辻には近づくな」と厳しく言い含められていた。
そこで、カトリーヌの足が突然、止まった。
だが、伝承の恐怖ゆえではなかった。
(む、村が……)
遠くに見えるは、彼女の生まれ故郷、ドンレミ。
その全容が闇夜にあって、赤々と輝いていたのだ。
―――村が、燃えている。
そう悟るよりも早く、カトリーヌの足は動いていた。
慎重に、しかし急いで村の共有牧場をめざす。
村に人はいない。残されたのは家畜たちだ。ジャネットは間違いなく家畜を助けに動いた。
(ジャネット……ッ!)
村へ近づくにつれ、何かが燃える音、崩れる音、狂騒めいた声、獰猛な唸り声などが次々と聞こえてきた。略奪に興じる軍勢によるものだ。
極度の恐怖がカトリーヌの心臓を潰しにかかる。見つかったが最後、間違いなく命はない。自分も。ジャネットも。
もはや一刻の猶予もない。闇雲に探していては死が迫るだけだ。
だが幸運にも、牧場が見えたと同時に彼女の探し人は見つかった。
(ジャネット!)
彼方の牧場には家畜たちを必死にムーズ川のほうへ導いているジャネットの姿があった。
最愛の妹を目にして僅かな、しかし確かな安堵を覚えるカトリーヌ。疲労は疾うに限界だったが、微かに戻った気力を振り絞り牧場めがけて足を速める。
「―――ッ!?」
だが、そんな彼女の希望を打ち砕かんとする襲撃者が突如、視界の左に現れた。
西に広がる、月光を欠片も寄せつけない漆黒のヴォージュの森。その奥から黒き獣の群れが飛び出してきたのだ。
狼か? だが闇夜に溶けるほど黒一色の狼など聞いたことがない。
しかしそんなことを考えている場合ではなかった。獣たちは迷いなく牧場へ向かっている。
「ジャネットッ!」
喉が張り裂けんばかりに妹の名を叫ぶカトリーヌ。だがジャネットは彼女の声にも狼にも気づいていない。
牧場へ見る見る迫る黒き獣。恐ろしいほど素早く音もなく。
必死に牧場めざして駆けるカトリーヌ。
距離は自分のほうが近い。だが速さは向こうが遥かに上だ。このままでは。
(―――ッ!)
一瞬だが確かに過ぎった弱気を歯を食いしばって噛み潰すカトリーヌ。
なにを考えている。諦めるなどあり得ない。
胸が痛い。喉が枯れる。足が回らない。頭が割れそうだ。
それでもなけなしの体力を振り絞り、走り続けるカトリーヌ。ただ、妹を救うために。
そのジャネットが獣に気づいた。そして案の定、
(ダメ! 逃げてジャネット!)
彼女は羊を庇うように震える両手を広げて獣たちに立ちはだかる。
そして、獣の一頭がついにジャネットめがけて飛びかかった。
その獰猛な爪が今まさに妹を引き裂かんと襲いかかる。
(ま、に……あえぇぇえぇええぇッッッッッ!)
―――だが寸前、カトリーヌが横から獣に突進。その身もろとも横に吹き飛ばし、間一髪ジャネットを獣の脅威から救い出した。
「ね、姉様!?」
「逃げてジャネット! 早くッ!」
藻掻く獣を抑え込みつつ必死で叫ぶカトリーヌ。
しかし姉を置いてはいけないのか、ジャネットは狼狽したままその場を動けない。その隙にカトリーヌの願い虚しく後方の獣たちが襲来。次々とジャネットめがけて飛びかかった。
―――だが、届かなかった。
その牙、その爪が今にもジャネットを切り裂かんとした瞬間……獣たちが突如、激しく金色に燃え上がった。その様はあまりにも突然で、神の逆鱗に触れたかのような神々しさすら感じさせた。
一帯に燃え盛ったのは―――あまりにも美しい黄金の炎。
いつの間にか2人の周りを炎が囲い、激しく迸る燐光と共に嵐の如き勢いで奔っていた。2人を守るように。獣たちを焼き尽くすように。
「動かないでください」
続けて聞き覚えのある声と共に、カトリーヌが抑え込んでいた獣の首が落ちる。獣はあまりにも呆気なく息絶え、微動だにしなくなった。
炎と共に現れたのは、福女のカタリナだった。その右手には炎と同じく、陽光を固めたかのような輝かしい黄金の剣が握られていた。
「カ、カタリナ、様……?」
「話さないでください。すぐに傷を治療します」
獣の群れが獰猛な雄叫びと共に次々と燃え上がる中、カタリナはカトリーヌの傍らに膝をつき、急いで彼女の右足の太腿に手を当てる。直後、カタリナの手から放たれた淡い光が傷を優しく包み、ゆっくりと塞いでいく。
妹を救おうと必死だったカトリーヌは、抑え込んだ獣が暴れたことで深い傷を負っていたことに全く気づいていなかった。その傷はあまりにも致命的で、負傷に気づいた後もその痛みを自覚できないほど、カトリーヌは出血で酷く憔悴しきっていた。
すべてが落ち着いた直後、張っていた気が抜けたからか、カトリーヌの顔色は驚くほど一気に青白くなった。
「姉様ッ!」
ジャネットもカトリーヌの一大事に気づいたのか、現れたカタリナには一瞥もくれず急いで姉に駆け寄る。
「ジャネット……無事?」
「私は大丈夫です……それより姉様……姉様、が……ごめん、なさ、い……ご、め……な、さい……」
姉の傍らで突然、ジャネットは涙を流し始めた。自分が勝手に飛び出した結果、姉に取り返しがつかない重傷を負わせてしまった……そんな後悔が過ぎった故だろうか。
「そう……よかった……」
それでもカトリーヌの表情は晴れやかだった。妹の無事、その事実と引き換えであれば、我が身がどうなろうとも後悔などない……さながらそう語るかのような笑顔で安堵を漏らす。
直後、治療を終えたカタリナがジャネットに尋ねる。
「これで傷はふさがりました。ですが、体力の消耗が激しいので、すぐに休ませないと危険です。いまはどちらに投宿を?」
「ヌ、ヌフシャトーです、ここから南の……」
「急ぎましょう」
カタリナがカトリーヌを抱え上げ、3人は何度か休憩を挟みながら、日が昇る前にヌフシャトーへ戻った。
結局、ジャネットが夜中に抜け出した一件は、家族や知人には知られなかった。
姉を傷つけてしまった過ちから、ジャネットは事実を包み隠さず明かそうとしたが、カトリーヌがこれを制止。そして、傷こそ塞がったものの体調が万全でない中、気丈にいつも通り振る舞い、周囲に怪しまれないように努めた。すべては妹を庇うために。
最初こそ無理をしていたカトリーヌだったが、やがて体力も少しずつ戻り、秋口には以前と変わらない程度まで回復した。ジャネットも、ヌフシャトーへ戻った直後は折りに触れて姉の様子を窺わずにはいられず、周囲に事情が筒抜ける恐れもあったが、この頃にはそれまでと変わらない仲睦まじい2人のふれあいが、また見られるようになった。
幸せな時間が、戻った。
場所こそ違えど、2人はドンレミにいた頃と変わらない生活を過ごした。投宿先の旅籠で仕事を手伝いつつ、オメットやマンジェットと一緒に街中を巡ったり、近くの森で動物たちと触れ合ったりして、楽しいひと時を過ごした。
そして、11月。カトリーヌは、出産を迎えた。
誕生したのは、女の子。母親さながら街中に響くほど元気に泣きながら生まれた幼子は、家族や知人、ヌフシャトーの人々など、大勢の祝福を受けてこの世に歓迎された。カトリーヌも泣きじゃくる我が子の顔を見て、駆けつけたコランと共に笑顔で涙した。よく生まれてきてくれたね、がんばったね……まだ娘には届かない感謝を、それでも何度も、何度も口にした。
名前はどうしようか。けっこう大きい子だ。用意した衣服の身丈や裾幅は大丈夫かな……まるで我が子の誕生を迎えたかのように、集まった一同は大いに盛り上がった。その熱気は夜になっても収まらず、避難生活という苦境にあるが故か、喜ばしい出来事に人々の歓喜は高まるばかりだった。
―――夜。
カトリーヌの容態が急変するまでは。
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