本編

 ジャネットの姉は、名をカトリーヌといった。一家の長女として生まれ、ジャネットとは仲睦まじく、どこへ行くにも手をつないで連れ立つほどだった。
 土曜になると、二人は必ず一緒に、少し離れたベルモンのノートルダム教会堂へ祈りを捧げにいった。

「ほら早く! おいてっちゃうわよ!」
「ま、まってください、姉しゃぁみゃぃっ!」
「あぁ、ほら、また転んで。大丈夫?」
「ね、姉様が引っ張るからですよぉ……」

 カトリーヌが強引とも思えるほどジャネットの手を引いて走り、転んでしまった彼女に手を差し伸べる。それが村ではお馴染みの微笑ましい光景だった。
 年を経ても言動の幼さが色濃く残ったジャネットに対して、カトリーヌは早くから大人びた振る舞いで衆目を集めた。妹と同じ栗色の髪は短く、性格は快活でややお転婆。その一方、時に垣間見せる自然で艶やかな仕草が、性別や年齢を問わず、周りの心を大いに乱した。

「カトリーヌさんって、本当に素敵よね!」
「うん。私も将来、あんな人になりたいなぁ……」

 2人の友人であるオメットやマンジェットも常々、カトリーヌに対する憧れを口にしては、惚れ惚れと顔を赤くしていた。そんな2人を目にするたび、いつもカトリーヌに振り回されていたジャネットが不思議そうに首を傾げ、その反応に悪戯っぽく怒ったカトリーヌがジャネットの頬を引っ張る。それが日常茶飯事だった。
 誰よりも活力にあふれ、誰よりも笑顔を絶やさず、誰もが憧れたカトリーヌ。
 そんな彼女が誰よりも早く世を去るなど、村の誰一人、考えもしなかっただろう。もちろん彼女自身も。

 ―――全てが始まったのは、1425年。

 ある日、カトリーヌはジャネットとオメット、マンジェットを誘ってヴォージュの森へ遊びにやってきた。野武士の襲撃から少し経った頃、村の立て直しも少し落ち着き、久しぶりに戻った穏やかな日のことだ。
 カトリーヌは、3人が森の動物たちと戯れているのを、木漏れ日あふれる木陰から眺めていた。いつもなら真っ先に遊び出す彼女が腰を落ち着けていたのには理由があった。
 野武士の襲撃に遭ってから、ジャネットの様子が妙だとカトリーヌは感じていた。その原因を確かめるためだ。
 事件以降、ジャネットはしきりに、落ち着かない様子で森を気にするようになった。
 妹は誰よりも優しく感情的な子だ。だから、事件で犠牲になった家畜や森の動物たちを守れなかった後悔、悲しみがいつまでも癒えないのだろう……。最初はそう考えていた。
 だが、いつまで経っても、ジャネットの様子は変わらなかった。
 妹の異変に絡む《なにか》が森にある……そう悟ったカトリーヌは、ジャネットを森へ遊びに誘い出し、彼女の視線が追う《なにか》の正体を知ろうとした。
 そのカトリーヌの狙いは、すぐに功を奏する。
 遊んでいる最中、ふとジャネットが目をやった森の奥を、彼女もそれとなく見た。
 薄っすら人のものと思しき影が揺れたのだ。

(……《妖精の樹》の方角ね)

 やがて陽が落ち、皆が眠りについた頃、カトリーヌは家を抜け出して《妖精の樹》へ向かった。相手の得体が知れないため恐怖はあったが、それ以上に妹を《なにか》から解放したい気持ちが強かった。
 月明かりを浴びたヴォージュの森は蒼白く幻想的に輝き、擦れ合う木々の囁くような音がさながら超常の訪れを告げる予兆のように神々しく響く。
 足元と周囲に注意を向けながら慎重に奥へ進むカトリーヌ。その足が止まったのは、間もなく《妖精の樹》に辿り着く直前。樹々の隙間からその姿を認められる距離まで近づいた時だ。

(……え、人?)

 薄暗い森の奥で見惚れるほど美しい煌めきを放つ《なにか》。それが人の纏う光だと理解してカトリーヌが驚いていると、

「―――恐れは不要です。あなたに危害を加えるつもりはありません」

 疾うにカトリーヌに気づいていた《なにか》が、彼女に話しかけた。

「……え、あ、え……っ、と……」
「妹の異変の原因を探りにきたのでしょう?」
「あ、その……はい……」

 全てを見抜かれていると観念したカトリーヌは、相手の前に姿を晒し、恐る恐る彼女に歩み寄る。―――そして、彼の者の声と名前を聞く。

「私は福女カタリナ。生前はシエナに生まれ、ドミニコ会の第三会に所属した者です」
「シ、シエナのカタリナ、様……ッ!?」

 明かされた正体の偉大さに、カトリーヌは咄嗟に膝をつき、深々と頭を垂れた。

「も、申し訳ありません! 御身の素性を探るような大変なご無礼を……ッ!」
「気に病むことはありません。家族を思うその心、《主》はお喜びになることでしょう」

 答えつつ歩み寄り、カトリーヌの前に同じく膝をつくカタリナ。その神々しい姿に、畏れ多い振る舞いに、カトリーヌは堪らず顔を伏せる。

「顔を上げてください。貴方には伝えなければならないことがあります」
「え……?」

 カタリナの言葉のまま、面を上げるカトリーヌ。その頬にカタリナが優しく触れると、カトリーヌの顔が思わず紅潮する。

「―――私は今、貴方の妹に《主》の使命を授けようとしています。それはとても過酷で、とても危険な、フランスを揺るがすほどの使命です」
「し、使命……?」
「はい。そして今、彼女は使命を前に迷っています」

 唐突に聞かされた驚愕の事実に、堪らず言葉を失うカトリーヌ。まさか妹が《主》から使命を託されていたとは、さすがに欠片も想像していなかったのだろう。
 カトリーヌが絶句していると、カタリナが謝意を示すように頭を下げ、その額をカトリーヌの額に合わせた。

「―――私は貴方たちの絆を断ち切ろうとしています。あるいは、彼女は《主》の大義に殉ずる運命を迎えるかもしれません。赦してくださいなどとは言えませんし、恨んでいただいてかまいません。ただ、もし彼女が《主》の使命に身を投じる意志を固めたら、せめてその決意を見守ってあげてください」
「……は、はい」

 気がつけば呟いていた一言を最後に、カトリーヌの記憶はそこで途切れる。次に意識が戻った時、彼女は自宅の寝台に茫然と腰を下ろしていた。夜はすっかり明けていた。
 この一件以来、今度はカトリーヌの心が落ち着かなくなった。家事や糸紡ぎの仕事も手につかなくなり、らしくない失念や失敗を頻発。次第に周りも不安を覚えはじめる。

「カトリーヌさん、最近どうしたのかしら……?」
「心配よね……。でも、いろいろ悩みとかあるんじゃない? 結婚も近いし」

 大半の村人は、結婚式を前に思うところがあるのではと考えていた。彼女は少し離れたグルー村の長の息子コランと婚約しており、まもなく結婚という時期だった。
 だが、カトリーヌの不調の原因は、もちろんそこではない。
 妹は今、なにを思うのか。どんな決断を下すのか。妹が使命に身を投じる意志を固めた時、自分はそれを尊重できるのか……。
 カトリーヌの悩みは、いつまでも消えなかった。



 ……そして。
 時は2年を経て、運命の訪れを告げる―――。
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