資料(百年戦争の概略)
■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■トゥール条約、メーヌ伯領の返還問題、ルーアン奪回、復権裁判、アキテーヌがフランス王の直接統治下に入る、ボルドー陥落、終戦
・イングランドで和平を模索する動きが起こっても、各戦線で戦闘は続いていた。そんな中、1431年にローマ教皇庁でシスマを終結させたマルティヌス5世が死去。新たに選出されたエウゲニウス4世は、東方から迫るオスマン帝国に対抗するため十字軍遠征を計画しており、シャルル7世にそのためにもイングランドとの和平を急いでほしいと伝える使者を派遣した。これを受けて1444年2月、英仏の和平交渉が再開。だが、またしても決裂。2年間の休戦協定(トゥール休戦協定)を結ぶだけで終わった。その後、1445年7月に平和条約の交渉が再開される。そして8月、使節団どうしの交渉がまとまった。だが、この中にあった「ヘンリー6世による西仏メーヌ伯領の返還の口約束」が、後に問題を引き起こす(中公新書223〜230)
・メーヌ伯領。ルマンを中心とする西仏エリアのことで、1425年7月以来、ベドフォード公ジョンが占領下においてきた。だが、ときのアンジュー公家は1434年のルネ継承以来、同地がアンジュー家領であり、弟シャルルのものであると主張してきた。1445年12月、ヘンリー6世はそのメーヌ伯領を翌年4月末までに返還するという書簡をシャルル7世に送った。これは私信だったが、国内の各方面から猛反発を招いた。主戦派の筆頭グロスター公ハンフリーは、フランスへの降伏だと和平派の筆頭サフォーク侯を痛烈に批判。これに対してサフォーク侯は、ハンフリーが国王廃位を目論んでいるとして、反逆罪で弾劾裁判にかけて主戦派の弱体派を狙った。結局、ハンフリーは1447年2月に逮捕され、まもなく死去したが、メーヌ伯領に駐在する隊長たちは、現地に持つ領地や収入を失うのそ恐れ、説得とアンジュー家への引き渡し調整で訪れた王の委任官の受け入れを拒否するなど、事態は泥沼化していった。現地隊長たちはフランス側との話し合いに応じつつも、ノルマンディーとブルターニュの境界付近に兵士を集めた。だが、ブルターニュ公フランソワ1世が、これをトゥール条約に違反すると非難。シャルル7世はこれをきっかけにメーヌへ進軍。1448年3月にルマンを奪還した。イギリスはメーヌを失った。これがイングランド国内に知らされると、メーヌ返還を推進してきたサフォーク侯たち和平派が勢いを失い、これ以降、主戦派の暴走に歯止めがかからなくなっていった(中公新書231〜235)
・1449年3月、イングランドの守備隊長がフランス北西部のフジェールを攻撃。シャルル7世は7月に国王顧問会を開き、戦争再開を決定。ついにノルマンディーへの総攻撃を開始した。イングランドの守備隊長たちは次々と撤退し、名将トールボットとともにノルマンディーの中心地ルーアンに結集した。ここへフランス軍が進軍して開戦。トールボットのもと堅い守りで抵抗していたイングランド側だったが、1449年11月についに陥落。シャルル7世はルーアン入城を果たした。その後、1450年3月から8月にかけて、サン=ソーヴール=ル=ヴィコント、カーン、ファレーズなどを陥落させ、8月12日のシェルブール陥落をもって、1417年以来のノルマンディー完全奪回となった(中公新書235〜239)
・1450年初頭、フランスはジャンヌ・ダルクに言い渡された異端宣告を葬り去ろうと動き出す。シャルル7世は異端の女性によって即位させられたという見方を排除するためである。1450年2月、顧問官ギヨーム・ブイエに調査が指示される(中公新書237)
・ノルマンディーを失ったイングランドはパニックに陥った。その原因をメーヌ返還に求めた同国は、これを推進したサフォーク侯ウィリアムを議会において弾劾。国外追放とした(その直後、彼は海賊に襲われて死去)。その後、戦地はアキテーヌへ移った。1450年9月、フランス軍はアキテーヌの中心地・ボルドーへ押し寄せた。市民はフランス軍との降伏交渉を決意。1451年6月に降伏文書が交わされた。財産の保障や新たな税の免除などが約束された。これによって、アキテーヌは史上初めてフランス王の直接統治下に入った(アキテーヌは約300年、イングランドの遠隔統治下にあり、フランス王領ではなかった)。この時点で、イングランドの大陸領はカレーだけとなった(中公新書238〜243)
・しかし、戦争は終わらなかった。1452年6月、イングランドはカレーおよびノルマンディー防衛のため兵士を召集。この情報を掴んだシャルル7世は、大西洋岸の防衛を固めるため、ボルドー市民に人頭税を課した。だが、これは明らかな降伏文書への違反だった。市民は王を説得するためブールジュを訪れたが、王は耳を貸さなかった。市民は密かにヘンリー6世と連絡をとって蜂起を決行。10月にトールボット率いるイングランド軍も町へ入り、ボルドー奪回に成功した。だが、1453年7月に奪回のため進軍したフランス軍とイングランド軍がボルドーから40kmほどの地点・カスティヨンで激突。ワインを飲みすぎたトールボットの独断による作戦が失敗したイングランド側があっさり敗北した。カスティヨンはフランス軍に降伏した。この知らせを受けたヘンリー6世はショックを受けたのか、1453年8月に精神疾患を発症した(中公新書243〜245)
・1453年9月、フランス軍とボルドーの間で再び降伏交渉が始まった。だが、シャルル7世に先の裏切りを許す気などなかった。降伏は大前提であり、謝罪と賠償の内容を決める交渉となった。結果、地方の自立の象徴である同地の高等法院の廃止や王税への服従などが決められる。結果、商人は次々とイングランドへ渡り、同地の経済は大打撃を受けた。通常、このボルドー陥落をもって、百年戦争の終焉と考えられることが多い(中公新書245〜246)
(余談)
・なお、イングランドではシェークスピアが同時代の国王たちを美化したためか、いまでも百年戦争はイングランドの勝利で終結したというねじまがった歴史認識が一般的である(学者などは除く/集英社13〜14)
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■トゥール条約、メーヌ伯領の返還問題、ルーアン奪回、復権裁判、アキテーヌがフランス王の直接統治下に入る、ボルドー陥落、終戦
・イングランドで和平を模索する動きが起こっても、各戦線で戦闘は続いていた。そんな中、1431年にローマ教皇庁でシスマを終結させたマルティヌス5世が死去。新たに選出されたエウゲニウス4世は、東方から迫るオスマン帝国に対抗するため十字軍遠征を計画しており、シャルル7世にそのためにもイングランドとの和平を急いでほしいと伝える使者を派遣した。これを受けて1444年2月、英仏の和平交渉が再開。だが、またしても決裂。2年間の休戦協定(トゥール休戦協定)を結ぶだけで終わった。その後、1445年7月に平和条約の交渉が再開される。そして8月、使節団どうしの交渉がまとまった。だが、この中にあった「ヘンリー6世による西仏メーヌ伯領の返還の口約束」が、後に問題を引き起こす(中公新書223〜230)
・メーヌ伯領。ルマンを中心とする西仏エリアのことで、1425年7月以来、ベドフォード公ジョンが占領下においてきた。だが、ときのアンジュー公家は1434年のルネ継承以来、同地がアンジュー家領であり、弟シャルルのものであると主張してきた。1445年12月、ヘンリー6世はそのメーヌ伯領を翌年4月末までに返還するという書簡をシャルル7世に送った。これは私信だったが、国内の各方面から猛反発を招いた。主戦派の筆頭グロスター公ハンフリーは、フランスへの降伏だと和平派の筆頭サフォーク侯を痛烈に批判。これに対してサフォーク侯は、ハンフリーが国王廃位を目論んでいるとして、反逆罪で弾劾裁判にかけて主戦派の弱体派を狙った。結局、ハンフリーは1447年2月に逮捕され、まもなく死去したが、メーヌ伯領に駐在する隊長たちは、現地に持つ領地や収入を失うのそ恐れ、説得とアンジュー家への引き渡し調整で訪れた王の委任官の受け入れを拒否するなど、事態は泥沼化していった。現地隊長たちはフランス側との話し合いに応じつつも、ノルマンディーとブルターニュの境界付近に兵士を集めた。だが、ブルターニュ公フランソワ1世が、これをトゥール条約に違反すると非難。シャルル7世はこれをきっかけにメーヌへ進軍。1448年3月にルマンを奪還した。イギリスはメーヌを失った。これがイングランド国内に知らされると、メーヌ返還を推進してきたサフォーク侯たち和平派が勢いを失い、これ以降、主戦派の暴走に歯止めがかからなくなっていった(中公新書231〜235)
・1449年3月、イングランドの守備隊長がフランス北西部のフジェールを攻撃。シャルル7世は7月に国王顧問会を開き、戦争再開を決定。ついにノルマンディーへの総攻撃を開始した。イングランドの守備隊長たちは次々と撤退し、名将トールボットとともにノルマンディーの中心地ルーアンに結集した。ここへフランス軍が進軍して開戦。トールボットのもと堅い守りで抵抗していたイングランド側だったが、1449年11月についに陥落。シャルル7世はルーアン入城を果たした。その後、1450年3月から8月にかけて、サン=ソーヴール=ル=ヴィコント、カーン、ファレーズなどを陥落させ、8月12日のシェルブール陥落をもって、1417年以来のノルマンディー完全奪回となった(中公新書235〜239)
・1450年初頭、フランスはジャンヌ・ダルクに言い渡された異端宣告を葬り去ろうと動き出す。シャルル7世は異端の女性によって即位させられたという見方を排除するためである。1450年2月、顧問官ギヨーム・ブイエに調査が指示される(中公新書237)
・ノルマンディーを失ったイングランドはパニックに陥った。その原因をメーヌ返還に求めた同国は、これを推進したサフォーク侯ウィリアムを議会において弾劾。国外追放とした(その直後、彼は海賊に襲われて死去)。その後、戦地はアキテーヌへ移った。1450年9月、フランス軍はアキテーヌの中心地・ボルドーへ押し寄せた。市民はフランス軍との降伏交渉を決意。1451年6月に降伏文書が交わされた。財産の保障や新たな税の免除などが約束された。これによって、アキテーヌは史上初めてフランス王の直接統治下に入った(アキテーヌは約300年、イングランドの遠隔統治下にあり、フランス王領ではなかった)。この時点で、イングランドの大陸領はカレーだけとなった(中公新書238〜243)
・しかし、戦争は終わらなかった。1452年6月、イングランドはカレーおよびノルマンディー防衛のため兵士を召集。この情報を掴んだシャルル7世は、大西洋岸の防衛を固めるため、ボルドー市民に人頭税を課した。だが、これは明らかな降伏文書への違反だった。市民は王を説得するためブールジュを訪れたが、王は耳を貸さなかった。市民は密かにヘンリー6世と連絡をとって蜂起を決行。10月にトールボット率いるイングランド軍も町へ入り、ボルドー奪回に成功した。だが、1453年7月に奪回のため進軍したフランス軍とイングランド軍がボルドーから40kmほどの地点・カスティヨンで激突。ワインを飲みすぎたトールボットの独断による作戦が失敗したイングランド側があっさり敗北した。カスティヨンはフランス軍に降伏した。この知らせを受けたヘンリー6世はショックを受けたのか、1453年8月に精神疾患を発症した(中公新書243〜245)
・1453年9月、フランス軍とボルドーの間で再び降伏交渉が始まった。だが、シャルル7世に先の裏切りを許す気などなかった。降伏は大前提であり、謝罪と賠償の内容を決める交渉となった。結果、地方の自立の象徴である同地の高等法院の廃止や王税への服従などが決められる。結果、商人は次々とイングランドへ渡り、同地の経済は大打撃を受けた。通常、このボルドー陥落をもって、百年戦争の終焉と考えられることが多い(中公新書245〜246)
(余談)
・なお、イングランドではシェークスピアが同時代の国王たちを美化したためか、いまでも百年戦争はイングランドの勝利で終結したというねじまがった歴史認識が一般的である(学者などは除く/集英社13〜14)