資料(百年戦争の概略)
■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■パリ奪回、皮剥団をめぐる軍政改革と反発、オルレアンとブルゴーニュの争い終結
・1436年1月、国内統一を取り戻したシャルル7世はポワティエで全国三部会を召集。4年間で12万リーヴルという多額の課税の承認をとりつける。これを軍資金として、アルテュール・ド・リッシュモン大元帥の率いるフランス軍がパリへ迫った。パリの住民は密かにフランス軍降伏交渉を進めた。その後、イングランドから援軍が来たが、フランス軍はこれをサン=ドニで撃退した。4月13日、フランス軍によるパリ総攻撃が始まった。復活祭期間中だった(本来は戦闘禁止)。フランス軍が勝利し、パリは約18年ぶりにヴァロワ王家のもとに戻った。この年、フランスはアルフルールとディエップという、イングランドの大陸上陸拠点となっていた2つの町も奪回。だが、ブルゴーニュ公フィリップが狙ったカレー奪回は失敗に終わった。カレーはその後、1558年までイングランド占領下となる(中公新書212〜214)
・あらす平和条約後、案の定、フランスおよびブルゴーニュの正規軍との雇用を解かれた兵士たちがパリ周辺で略奪に走った。彼らは人の資産どころか皮まで剥ぐことから「皮剥団」と呼ばれた。しかし、シャルル7世は奪還したパリには戻らず、それどころかモントロー奪還のための軍資金をパリに要求した。パリの一市民は日記に「イングランド王統治下のほうがましだった」と書き残している。だが、パリに続いて北仏の諸都市の奪還を進めるシャルル7世にとって、皮剥団はなんとかしなければならない存在だった。そんな中、1439年10月にオルレアンでラングドイル(北仏語圏)全国三部会が招集され、そこで皮剥団の対処を求められたシャルルは、1439年11月2日付で王令を発した。貴族の抱えている兵士が休戦になると悪事を働くとして、今後は貴族の軍隊保持と徴税を禁止し、かわりにあぶれた兵士は国王軍で雇用。そのため以後の課税と徴税は王が独占的に行うことが発せられた(なお、シャルルはこのころから、三部会の同意を必要としない課税を目論んでいた節がある)。しかし、この軍政改革には反発が多かった。戦争となれば、国王のもとで自領の兵士を招集してこれを指揮したり、王が課税を求めたときにはその是非を率先して話し合ったりしてきた彼らにとって、シャルルの王令は彼らの存在意義を消滅させるに等しい内容だったためだ(中公新書217〜219)
・1440年2月、ブルボン公シャルルが反乱を起こした。そこにはジャンヌの盟友アランソン公ジャン2世や、オルレアンの私生児(1439年にデュノワ伯に昇進していた)、彼らにそそのかされた王太子ルイ(後のフランス国王ルイ11世)もいた。この反乱は「プラグリー」と呼ばれた。
・ブルゴーニュという大陸の同盟者を失ったイングランドにとって、このプラグリーは好機到来となる可能性があった。しかし、このときイングランドは1440年4月末にアルフルールの奪還を試みただけで、大きな動きは起こさなかった。これは大陸駐留軍の維持費ゆえだった。このころイングランド本国議会は、莫大な維持費を渋るようになっていた。やがて国内は主戦派と和平派に分かれ、戦争の是非をめぐる議論も起こった。1437年にヘンリー6世が親政を開始すると、和平派が力を持つようになった。彼らはアザンクールの戦いで捕虜にとったオルレアン公シャルルの釈放をとっかかりにフランスとの和平交渉を進めようとした。そして1439年6月、グラヴリーヌおよびオタワで和平交渉がスタート。そこでは王位継承権、イングランド所領の領有・返還問題および返還後のイングランド人入植者への補償問題などが議論された。だが、交渉は決裂。1440年の初頭、ヘンリー6世の顧問団は和平をめざす声明を発表。1440年7月、オルレアン公シャルルの釈放が合意された。10月に釈放され、11月にはカレーに到着し、同月にブルゴーニュ公の姪マリーと結婚。ここにオルレアン公ルイ殺害以来の両家の争いが終結した(中公新書219〜223)
・その後、軍政改革はいったん停止するが、1445年5月26日付の王令で再始動。休戦に入ると暴動を起こす兵士たちに給料を与え、常備軍として雇った。これは「王令部隊」と呼ばれた。1446年以降、この部隊を維持するため、王による人頭税徴収が常態化した(中公新書233)
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■パリ奪回、皮剥団をめぐる軍政改革と反発、オルレアンとブルゴーニュの争い終結
・1436年1月、国内統一を取り戻したシャルル7世はポワティエで全国三部会を召集。4年間で12万リーヴルという多額の課税の承認をとりつける。これを軍資金として、アルテュール・ド・リッシュモン大元帥の率いるフランス軍がパリへ迫った。パリの住民は密かにフランス軍降伏交渉を進めた。その後、イングランドから援軍が来たが、フランス軍はこれをサン=ドニで撃退した。4月13日、フランス軍によるパリ総攻撃が始まった。復活祭期間中だった(本来は戦闘禁止)。フランス軍が勝利し、パリは約18年ぶりにヴァロワ王家のもとに戻った。この年、フランスはアルフルールとディエップという、イングランドの大陸上陸拠点となっていた2つの町も奪回。だが、ブルゴーニュ公フィリップが狙ったカレー奪回は失敗に終わった。カレーはその後、1558年までイングランド占領下となる(中公新書212〜214)
・あらす平和条約後、案の定、フランスおよびブルゴーニュの正規軍との雇用を解かれた兵士たちがパリ周辺で略奪に走った。彼らは人の資産どころか皮まで剥ぐことから「皮剥団」と呼ばれた。しかし、シャルル7世は奪還したパリには戻らず、それどころかモントロー奪還のための軍資金をパリに要求した。パリの一市民は日記に「イングランド王統治下のほうがましだった」と書き残している。だが、パリに続いて北仏の諸都市の奪還を進めるシャルル7世にとって、皮剥団はなんとかしなければならない存在だった。そんな中、1439年10月にオルレアンでラングドイル(北仏語圏)全国三部会が招集され、そこで皮剥団の対処を求められたシャルルは、1439年11月2日付で王令を発した。貴族の抱えている兵士が休戦になると悪事を働くとして、今後は貴族の軍隊保持と徴税を禁止し、かわりにあぶれた兵士は国王軍で雇用。そのため以後の課税と徴税は王が独占的に行うことが発せられた(なお、シャルルはこのころから、三部会の同意を必要としない課税を目論んでいた節がある)。しかし、この軍政改革には反発が多かった。戦争となれば、国王のもとで自領の兵士を招集してこれを指揮したり、王が課税を求めたときにはその是非を率先して話し合ったりしてきた彼らにとって、シャルルの王令は彼らの存在意義を消滅させるに等しい内容だったためだ(中公新書217〜219)
・1440年2月、ブルボン公シャルルが反乱を起こした。そこにはジャンヌの盟友アランソン公ジャン2世や、オルレアンの私生児(1439年にデュノワ伯に昇進していた)、彼らにそそのかされた王太子ルイ(後のフランス国王ルイ11世)もいた。この反乱は「プラグリー」と呼ばれた。
・ブルゴーニュという大陸の同盟者を失ったイングランドにとって、このプラグリーは好機到来となる可能性があった。しかし、このときイングランドは1440年4月末にアルフルールの奪還を試みただけで、大きな動きは起こさなかった。これは大陸駐留軍の維持費ゆえだった。このころイングランド本国議会は、莫大な維持費を渋るようになっていた。やがて国内は主戦派と和平派に分かれ、戦争の是非をめぐる議論も起こった。1437年にヘンリー6世が親政を開始すると、和平派が力を持つようになった。彼らはアザンクールの戦いで捕虜にとったオルレアン公シャルルの釈放をとっかかりにフランスとの和平交渉を進めようとした。そして1439年6月、グラヴリーヌおよびオタワで和平交渉がスタート。そこでは王位継承権、イングランド所領の領有・返還問題および返還後のイングランド人入植者への補償問題などが議論された。だが、交渉は決裂。1440年の初頭、ヘンリー6世の顧問団は和平をめざす声明を発表。1440年7月、オルレアン公シャルルの釈放が合意された。10月に釈放され、11月にはカレーに到着し、同月にブルゴーニュ公の姪マリーと結婚。ここにオルレアン公ルイ殺害以来の両家の争いが終結した(中公新書219〜223)
・その後、軍政改革はいったん停止するが、1445年5月26日付の王令で再始動。休戦に入ると暴動を起こす兵士たちに給料を与え、常備軍として雇った。これは「王令部隊」と呼ばれた。1446年以降、この部隊を維持するため、王による人頭税徴収が常態化した(中公新書233)