資料(百年戦争の概略)
■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■戴冠式をめざすベドフォード公、ジャンヌ・ダルク処刑、イングランドとブルゴーニュ公の関係悪化、アラス平和条約
・1429年5月、オルレアンが解放されると、イギリス軍の首脳部はあわてはじめた。それを受けてベドフォード公ジョンは、状況打開をめざしてヘンリー6世のランスでの戴冠式の挙行をめざす。このとき、シャルル7世は前年に、もうランスでの戴冠式を強行していた。ヘンリーは1429年7月、ルーアンに到着。1431年5月、ジャンヌ・ダルクが同地で処刑される。ヘンリー(当時8〜9歳)はそれを見届けると、12月にヴァロワ勢力下にあったランスではなく、パリのノートルダム大聖堂で戴冠式を挙行した。だが、戴冠式後にパリの市民に振る舞われた料理の味は不評で、また戴冠式の恒例行事がなかったこと、貧者や捕虜に施しがなかったことにも不満が強かった。当時からイングランドに対する反発は強かったのか、1432年になると英国統治に対する明確な抵抗が始まる。まず1432年春に「ブリガン(盗賊)」と呼ばれた集団が現れる。その正体は不明で神出鬼没。「日頃は森の中に潜み、機を見ては出没し、英占領下の人々を襲撃した」。そして1433年にかけてカレー、パリ、ノルマンディーなどイギリス占領下で次々と蜂起が勃発。1434年9月、ベドフォード公は対策のためにノルマンディーで地方三部会を召集し、課税の承認を得るも、その年の冬になると民衆蜂起はますます激しくなっていく(中公新書205〜206)
・またこのころ、ブルゴーニュ公フィリップとイギリスの関係が悪化しはじめる。フィリップは1430年11月付でヘンリー6世に手紙を送っているが、その中で「軍事同盟を締結しているにもかかわらず、イングランドは(ブルゴーニュ公が軍隊を展開する)北仏やフランドルに兵を送ってくれない」「ベドフォード公からガーター騎士団の入団を提案されているが、これは拒否する」旨を通達した。後者について、このころは他国の君主を自国の騎士団に入団させる動きが多かったが、これは友好関係を目に見える形で示すためである。これを拒否されたというのは、イングランド側にとって一大事だった(ほかにも領土問題は経済事情なども影響していた。詳細は中公新書207〜208)。1432年11月には、ベドフォード公妃アンヌ・ド・ブルゴーニュが死去し、両者の関係を現す徴がまた一つ失われた。なお、ヘンリー6世が即位した際、摂政にベドフォード公が選ばれたが、ブルゴーニュ公が摂政を望んでいた旨を示す遺言をヘンリー5世が残している。あるいはそのあたりも関係悪化の一因かもしれない(中公新書206〜208)
・また1430年代に入ると、ローマ教皇庁の使節派遣も再開され、1433年には神聖ローマ皇帝にジギスムントが即位。低地地方の帝国領に迫ろうとするブルゴーニュ公を警戒する彼は、1434年5月にシャルル7世と同盟を結び、1435年初頭にはフィリップに挑戦状を送った。風向きは徐々にヴァロワ家へ優勢な方向へ変わっていた。そして1435年1月から、フランスとブルゴーニュによる会談が行われ、イギリスを交えた講和会議を7月に開催すること、それにはブルゴーニュとイギリスの同盟破棄が前提であること、破棄による賠償をイギリスがブルゴーニュに求めた場合、それはシャルル7世が補償することなどが決められた(中公新書208〜210)
・1435年、フランス、イングランド、ブルゴーニュ、ローマ教皇使節団がアラスに集い、会談が始まった。英仏はフランス王位や領土割譲に関する提案を提示。フランスは武力的優位を盾に強気な交渉を続け、イングランドは一時的な休戦協定の締結をめざし、そのあいだに武力的不利を解消したい考えだった。フランスは平和条約を、イングランドは休戦条約の締結を提案した。最終的には、9月にフランスの提案を本国へ持ち帰ったイングランド代表団が、そのまま戻らなかったことで決裂。会議の焦点は、フランスとブルゴーニュの単独講和へ移っていった。ブルゴーニュは当時、いまだにトロワ平和条約を遵守する立場にあったが、教会法学者たちは、イングランドは平和条約の提案を受け入れなかったため、フィリップも先のトロワ平和条約を遵守する義務はないと助言。会議中の9月14日、ベドフォード公ジョンが死去して講和の障害もなくなり、9月21日、フランスとブルゴーニュの間でアラス平和条約が締結された。内容は全43条項。ジャン・サン・プール殺害への謝罪(1条)、フランス北部の諸領土のブルゴーニュ公への授与(11〜26条)、フランス王への臣従礼の免除(28条)、各種条件のもとでフィリップはシャルルのフランス王位を承認する(29条)ことなどが定められた(中公新書210〜212)
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■戴冠式をめざすベドフォード公、ジャンヌ・ダルク処刑、イングランドとブルゴーニュ公の関係悪化、アラス平和条約
・1429年5月、オルレアンが解放されると、イギリス軍の首脳部はあわてはじめた。それを受けてベドフォード公ジョンは、状況打開をめざしてヘンリー6世のランスでの戴冠式の挙行をめざす。このとき、シャルル7世は前年に、もうランスでの戴冠式を強行していた。ヘンリーは1429年7月、ルーアンに到着。1431年5月、ジャンヌ・ダルクが同地で処刑される。ヘンリー(当時8〜9歳)はそれを見届けると、12月にヴァロワ勢力下にあったランスではなく、パリのノートルダム大聖堂で戴冠式を挙行した。だが、戴冠式後にパリの市民に振る舞われた料理の味は不評で、また戴冠式の恒例行事がなかったこと、貧者や捕虜に施しがなかったことにも不満が強かった。当時からイングランドに対する反発は強かったのか、1432年になると英国統治に対する明確な抵抗が始まる。まず1432年春に「ブリガン(盗賊)」と呼ばれた集団が現れる。その正体は不明で神出鬼没。「日頃は森の中に潜み、機を見ては出没し、英占領下の人々を襲撃した」。そして1433年にかけてカレー、パリ、ノルマンディーなどイギリス占領下で次々と蜂起が勃発。1434年9月、ベドフォード公は対策のためにノルマンディーで地方三部会を召集し、課税の承認を得るも、その年の冬になると民衆蜂起はますます激しくなっていく(中公新書205〜206)
・またこのころ、ブルゴーニュ公フィリップとイギリスの関係が悪化しはじめる。フィリップは1430年11月付でヘンリー6世に手紙を送っているが、その中で「軍事同盟を締結しているにもかかわらず、イングランドは(ブルゴーニュ公が軍隊を展開する)北仏やフランドルに兵を送ってくれない」「ベドフォード公からガーター騎士団の入団を提案されているが、これは拒否する」旨を通達した。後者について、このころは他国の君主を自国の騎士団に入団させる動きが多かったが、これは友好関係を目に見える形で示すためである。これを拒否されたというのは、イングランド側にとって一大事だった(ほかにも領土問題は経済事情なども影響していた。詳細は中公新書207〜208)。1432年11月には、ベドフォード公妃アンヌ・ド・ブルゴーニュが死去し、両者の関係を現す徴がまた一つ失われた。なお、ヘンリー6世が即位した際、摂政にベドフォード公が選ばれたが、ブルゴーニュ公が摂政を望んでいた旨を示す遺言をヘンリー5世が残している。あるいはそのあたりも関係悪化の一因かもしれない(中公新書206〜208)
・また1430年代に入ると、ローマ教皇庁の使節派遣も再開され、1433年には神聖ローマ皇帝にジギスムントが即位。低地地方の帝国領に迫ろうとするブルゴーニュ公を警戒する彼は、1434年5月にシャルル7世と同盟を結び、1435年初頭にはフィリップに挑戦状を送った。風向きは徐々にヴァロワ家へ優勢な方向へ変わっていた。そして1435年1月から、フランスとブルゴーニュによる会談が行われ、イギリスを交えた講和会議を7月に開催すること、それにはブルゴーニュとイギリスの同盟破棄が前提であること、破棄による賠償をイギリスがブルゴーニュに求めた場合、それはシャルル7世が補償することなどが決められた(中公新書208〜210)
・1435年、フランス、イングランド、ブルゴーニュ、ローマ教皇使節団がアラスに集い、会談が始まった。英仏はフランス王位や領土割譲に関する提案を提示。フランスは武力的優位を盾に強気な交渉を続け、イングランドは一時的な休戦協定の締結をめざし、そのあいだに武力的不利を解消したい考えだった。フランスは平和条約を、イングランドは休戦条約の締結を提案した。最終的には、9月にフランスの提案を本国へ持ち帰ったイングランド代表団が、そのまま戻らなかったことで決裂。会議の焦点は、フランスとブルゴーニュの単独講和へ移っていった。ブルゴーニュは当時、いまだにトロワ平和条約を遵守する立場にあったが、教会法学者たちは、イングランドは平和条約の提案を受け入れなかったため、フィリップも先のトロワ平和条約を遵守する義務はないと助言。会議中の9月14日、ベドフォード公ジョンが死去して講和の障害もなくなり、9月21日、フランスとブルゴーニュの間でアラス平和条約が締結された。内容は全43条項。ジャン・サン・プール殺害への謝罪(1条)、フランス北部の諸領土のブルゴーニュ公への授与(11〜26条)、フランス王への臣従礼の免除(28条)、各種条件のもとでフィリップはシャルルのフランス王位を承認する(29条)ことなどが定められた(中公新書210〜212)