資料(百年戦争の概略)
■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■ヘンリー5世とシャルル6世死去、ヨランド・ダラゴン、オルレアン侵攻、ニシンの戦い
・トロワ条約締結後、ヘンリーはいったんイングランドへ戻り、1421年6月に第3回フランス遠征を実施。だが、1422年5月に遠征先で赤痢にかかり、8月に死去。生後9ヵ月の長子ヘンリー6世が即位した。また2ヵ月の10月、今度はシャルル6世が死去。トロワ条約にもとづき、ヘンリー6世がフランス王アンリ2世として即位し、イングランド・フランス連合王国が誕生した。連合王国の摂政にはベドフォード公ジョン、後見人にはジョンの弟であるグロスター公ハンフリーがついた。一方、王太子シャルルは父の死後、すぐにフランス国王即位を宣言。シャルル7世を名乗った。ただし、この時点でヘンリー6世=アンリ2世もシャルル7世も、ランスで聖別されていない。よって、どちらもまだ正統なフランス王ではなかった(中公新書189〜191)
・ベドフォード公は1423年、反ヴァロワの筆頭格であるブルゴーニュ公フィリップ、ブルターニュ公ジャン5世と軍事同盟を締結。1424年にかけて、王太子軍との戦闘で連戦連勝した。これに焦った王太子=アルマニャック派では、徹底抗戦を主張する従来の保守派に対して、和解を模索する一派が現れた。主導者はヨランド・ダラゴン。アラゴン王家からアンジュー公家に嫁いだ人物で、1413年に家紋戦略の一環として娘マリーをヴァロワ王家3男(5番目の男子)のシャルル(王太子シャルル、シャルル7世)に嫁がせていた(家系図は中公新書154)。彼女の影響力により、1424年10月以降、ブルターニュ公ジャン5世との和平交渉を開始。1425年1月にはブルゴーニュ公を交えた三者交渉へ発展するが、成果は生まなかった。8月、ベドフォード公がいったんイングランドへ帰国したため、戦況はここで一時的に硬直する。再び動き出すのは1428年。ソールズベリ伯トマス・モンタギュー率いる軍隊がカレーに上陸。連合王国の都パリからブールジュへの最短経路を進むことになった。この経路とロワール川のぶつかる要衝にあった街こそ、ブールジュから北に100キロほどの地点にあるオルレアンだった(フランスはロワール川で以北と以南に二分され、前者が連合王国やブルゴーニュ派、後者が王太子派と大雑把に分かれていた。相手陣営に攻め込む場合、このロワール川の渡河をどうするかが重要な課題だった)。そして1428年10月、ソールズベリ伯の軍隊はオルレアン手前に到着。トゥーレルへの攻撃を開始した。なお、町の領主であるオルレアン公シャルルは、アザンクールの戦いで捕虜となっていた。当時、領主不在の町を攻撃するのは騎士道精神に反するとされていたが、フランス側もシャルル5世の時代、イングランド軍の寝込みを襲った過去があり、お互い様だった(中公新書192〜195)
・1428年10月、王太子シャルルはシノンで全国三部会を開催。スコットランドとの同盟の更新と課税の承認を得た。そして年明け、オルレアンに先代オルレアン公の庶子ジャン(後のオルレアンの私生児)を送った。そして1429年2月、イギリス軍の食料補給隊が到着し、戦闘が始まった。ニシンの戦いと呼ばれたそれは、イギリス軍の勝利で終了。その後、フランス軍には後のジャンヌ・ダルクの盟友であるラ・イールやラウール・ド・ゴークールが合流した(中公新書197)
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■ヘンリー5世とシャルル6世死去、ヨランド・ダラゴン、オルレアン侵攻、ニシンの戦い
・トロワ条約締結後、ヘンリーはいったんイングランドへ戻り、1421年6月に第3回フランス遠征を実施。だが、1422年5月に遠征先で赤痢にかかり、8月に死去。生後9ヵ月の長子ヘンリー6世が即位した。また2ヵ月の10月、今度はシャルル6世が死去。トロワ条約にもとづき、ヘンリー6世がフランス王アンリ2世として即位し、イングランド・フランス連合王国が誕生した。連合王国の摂政にはベドフォード公ジョン、後見人にはジョンの弟であるグロスター公ハンフリーがついた。一方、王太子シャルルは父の死後、すぐにフランス国王即位を宣言。シャルル7世を名乗った。ただし、この時点でヘンリー6世=アンリ2世もシャルル7世も、ランスで聖別されていない。よって、どちらもまだ正統なフランス王ではなかった(中公新書189〜191)
・ベドフォード公は1423年、反ヴァロワの筆頭格であるブルゴーニュ公フィリップ、ブルターニュ公ジャン5世と軍事同盟を締結。1424年にかけて、王太子軍との戦闘で連戦連勝した。これに焦った王太子=アルマニャック派では、徹底抗戦を主張する従来の保守派に対して、和解を模索する一派が現れた。主導者はヨランド・ダラゴン。アラゴン王家からアンジュー公家に嫁いだ人物で、1413年に家紋戦略の一環として娘マリーをヴァロワ王家3男(5番目の男子)のシャルル(王太子シャルル、シャルル7世)に嫁がせていた(家系図は中公新書154)。彼女の影響力により、1424年10月以降、ブルターニュ公ジャン5世との和平交渉を開始。1425年1月にはブルゴーニュ公を交えた三者交渉へ発展するが、成果は生まなかった。8月、ベドフォード公がいったんイングランドへ帰国したため、戦況はここで一時的に硬直する。再び動き出すのは1428年。ソールズベリ伯トマス・モンタギュー率いる軍隊がカレーに上陸。連合王国の都パリからブールジュへの最短経路を進むことになった。この経路とロワール川のぶつかる要衝にあった街こそ、ブールジュから北に100キロほどの地点にあるオルレアンだった(フランスはロワール川で以北と以南に二分され、前者が連合王国やブルゴーニュ派、後者が王太子派と大雑把に分かれていた。相手陣営に攻め込む場合、このロワール川の渡河をどうするかが重要な課題だった)。そして1428年10月、ソールズベリ伯の軍隊はオルレアン手前に到着。トゥーレルへの攻撃を開始した。なお、町の領主であるオルレアン公シャルルは、アザンクールの戦いで捕虜となっていた。当時、領主不在の町を攻撃するのは騎士道精神に反するとされていたが、フランス側もシャルル5世の時代、イングランド軍の寝込みを襲った過去があり、お互い様だった(中公新書192〜195)
・1428年10月、王太子シャルルはシノンで全国三部会を開催。スコットランドとの同盟の更新と課税の承認を得た。そして年明け、オルレアンに先代オルレアン公の庶子ジャン(後のオルレアンの私生児)を送った。そして1429年2月、イギリス軍の食料補給隊が到着し、戦闘が始まった。ニシンの戦いと呼ばれたそれは、イギリス軍の勝利で終了。その後、フランス軍には後のジャンヌ・ダルクの盟友であるラ・イールやラウール・ド・ゴークールが合流した(中公新書197)