資料(百年戦争の概略)

■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1

■ヘンリー5世即位、アザンクールの戦い、トロワ条約
・1413年3月、ヘンリー4世が死去し、息子のヘンリー5世が即位。フランスではアルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦が続いており、どちらも再びイングランドとの軍事同盟を模索。ヘンリー5世はそこにつけこんで、要求をエスカレートさせていった。1414年11月、イングランド議会でフランスにおける権利回復を決定し、事実上の戦争再開を宣言。1415年6月、アルマニャック派は父のヘンリー4世による王位簒奪のクーデターを持ち出して、ランカスター家の王位の正統性に疑問を呈した。これにヘンリー5世が激怒し、1415年8月にフランスへ遠征。後に3回にわたるフランス遠征の第1回が開始された(中公新書173〜174)
・1415年8月、イングランド軍はまずセーヌ川河口のアルフルールの街を攻囲。食糧不足やキャンプでの赤痢蔓延など苦境に陥るも、これをなんとか落とす。続けてヘンリー5世は、周囲の反対を押し切ってカレーめざして北上。フランス軍=アルマニャック派の兵士たちがこれを追い(対立しているブルゴーニュ派は動かず)、カレーの50キロほど手前、アザンクールの平原で追いつき、10月に戦闘開始(アザンクールの戦い)。結果はフランス軍の惨敗で終わった。アランソン公ジャン1世などが死去。オルレアン公シャルルやブルボン公ジャン1世が捕虜となった(中公新書175〜177)
・このころ、ハンガリー王ジギスムントが英仏の調停に乗り出したが、フランス国内の足並みがそろわずに瓦解(フランスは大元帥のアルマニャック伯ベルナールが戦争継続を求めていた)。1416年8月、ジギスムントはヘンリー5世と対仏援助相互同盟を締結した。ヘンリーはこれを後ろ盾に1417年7月、第2回フランス遠征を実施。第1回目は戦利品や身代金などが主な目的だったが、第2回目はそれらではなく、明確に「フランスの征服」をめざしていたのが特徴だった。1419年1月に、イングランド軍はルーアンを征服。そんな中でも、フランスは相変わらず内戦を続けていた。1417年4月、アルマニャック派はパリから王妃イザボーを追放(このとき夫であるシャルル6世を連れて行っている。なお、シャルル6世は病身とはいえ、当然このときも聖別された正統な王だった)。イザボーはシャンパーニュ地方のトロワに臨時政府を開いた。そこへブルゴーニュ公ジャンが合流。1418年5月、今度はブルゴーニュ公がパリを奪還した。アルマニャック派の首領であるアルマニャック伯ベルナールは、このとき命を落とす。アルマニャック派は、パリを脱出する際にシャルル6世の息子で5番目の男子・王太子シャルル(後のシャルル7世)を連れ出していた(なお長男から4男までは前年までに死去している)。王太子一行はブールジュに落ち着く(中公新書177〜179)
・1417年、大シスマが終結した。同年に選出された新教皇マルティヌス5世は、すぐに英仏の和平交渉の仲介を再開。1419年9月、パリ南東のモントローの橋で、ジャン・サン・プールと王太子シャルルによる会見が行われたが、ここで事態が急変。王太子シャルルがジャン・サン・プールを殺害したのだ。10日後、イザボーはヘンリー5世に内戦終結の協力を要請する書簡を送付。ブルゴーニュはジャンの長子フィリップが継いだ。後に「善良公」と呼ばれる人物で、パリは父のジャンと同様、フィリップに忠誠を誓った。1419年10月、フィリップはヘンリー5世との和平交渉を急ぐ。ヘンリー5世はフランス王女カトリーヌとの結婚、そしてフランス王位継承権を要求してきた。当時、正統な王であるシャルル6世は存命だったため、この要求を飲むことは王に対する明確な反逆行為となる可能性があったが(その点についてブルゴーニュ公の顧問の法律家は徹底的に議論した)、最終的に要求を受け入れ、12月にルーアンで対シャルルの攻守同盟を結成した。なお、ブルゴーニュ派の交渉と並行してアルマニャック派も交渉していたが、ヘンリーは見返りの領土の重要性からブルゴーニュ派を選んだ(中公新書179〜181)
・1420年1月、国王シャルル6世の名のもとに、パリの住民に対して「王国の摂政を自称する」王太子シャルルに対する不服従と断交が命じられた。この手紙はシャルル6世がいるトロワから発せられており、王妃イザボーが一枚噛んでいた。言い換えれば、イザボーが息子の王太子シャルルを葬り去ろうとしたわけである。そして1420年3月、ブルゴーニュ公フィリップが、5月にヘンリー5世がトロワへ入り、1420年5月21日、シャルル6世とヘンリー5世がトロワ条約に調印した。シャルルの死後、ヘンリー5世ないしその相続人がフランス王位を継承することなどが取り決められ、王太子シャルルは王位継承権を失った。なお、後世の研究では、条約には不備が多い点や、シャルル6世の精神が健全ではない状況で調印された点などを問題視する見解が優勢である(中公新書181〜185)
・1420年12月、ラングドイル(北仏語圏)全国三部会は条約を承認。ブルゴーニュ派のロワール以北の諸都市も大部分が承認。もっともその背後には、少なくない買収工作などがあったことも忘れてはならない。一方、ロワール川以南の諸都市は王太子シャルルの勢力下にあったので承認しなかった。もっとも、こちらもラングドック(南仏語圏)の支持を得るために買収工作があった。最も大きいのは、ロワール以南の中心都市トゥールーズに高等法院を設置したことだ。ラングドックの民衆は、これで重要な訴訟について、パリ高等法院に持ち込む必要がなくなった。また教皇庁がアヴィニョンを去ったことで職にあぶれたラングドックの大勢の法律家に仕事を与えることにもなった。また統一後まもないローマ教皇庁もトロワ条約には否定的だった(中公新書186〜187)
・なお、1420年代に入ると、それまで戦争に積極的だった両国の雰囲気が変わってくる。人々は戦争に対する嫌悪感をあらわにしはじめ、厭世観が漂い始めた(中公新書203〜204)
・またトロワ条約締結後も、ブルゴーニュ公フィリップは完全にイングランド寄りだったわけではない。ヘンリー5世が死去した1422年から対仏和平交渉を再開している(中公新書208)
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