資料(百年戦争の概略)
■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■シャルル6世の精神錯乱、ジャン・サン・プール登場、オルレアン公ルイ殺害
・シャルル6世は即位時、11歳だった。そのため政治は4人のおじが担った。シャルル5世の弟アンジュー公ルイ、ベリー公ジャン、ブルゴーニュ公フィリップ、母ジャンヌの弟ブルボン公ルイ2世である。彼が親政を開始するのは1388年、19歳になってからである(中公新書154)
・この頃、パリの王政府では、王であるシャルル6世の叔父(父親の弟)であるブルゴーニュ公フィリップと、王の弟であるオルレアン公ルイの党派対立が激化していた。1380〜90年代はブルゴーニュ公、1400年以降は台頭したオルレアン公とブルゴーニュ公の抗争、1410年以降は両者の系統を引くブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦状態となっていく(中公新書154〜156)
・1392年8月、逆臣ブルターニュ公に対する遠征途上、ルマン近郊で鉄や鋼がぶつかり合う音に異常なまでの恐怖を覚え、周囲の者に襲いかかった。以後、正気に戻ることもあったが、王はしばしば精神錯乱に襲われた。以来、治世42年間、その苦しみからは解放されなかった。彼は自分の王妃の名も、子どもの名も覚えていなかった。だが、性格は優しく「誰からも愛された」王だった。王国で徴発が乱用されていると聞くと「貧民の苦しみで調理されたパンのかけらを食べようとしなかった」。また父とは逆に武芸が達者だった(中公新書154〜155)
・1396年3月9日、パリで28年間の休戦協定が結ばれた。平和条約の締結にはまたしても至らなかったが、休戦の証として、ルクセンブルク王家のアンナと死別していたリチャード2世とフランス王女イザベルの結婚が取り決められた(中公新書159)
・1390年代、休戦協定が繰り返し更新されると、両国とも和平への気運が高まった。もっとも、それは戦争に専念できない理由の半分にすぎない。もう半分は、そもそも専念できない事情があった。たとえば、当時のフランス使節団の代表であるブルゴーニュ公フィリップは、フランドル伯領を継承されたため、イギリスとの対立を避けたかった。これはもちろん、羊毛取引と毛織物生産をめぐる対立を煽らないためである(中公新書158)
・だが、この長期の休戦協定は、前述のリチャード2世の廃位によって中断された(中公新書161)。新国王ヘンリー4世は対仏強硬路線を主張する人物だった。しかし、ヘンリー4世は国内の反ランカスター勢力を抑えるので手一杯だったため、結局1400年5月、先の28年間のパリ休戦協定が再確認された。フランス側の代表は、王の叔父ベリー公ジャンとブルゴーニュ公フィリップだった。これに対して、オルレアン公ルイは戦争再開を主張(動機はリチャードの廃位とその妻イザベルへの酷い仕打ちに対する復讐)。なお、このころ叔父たちは60代だったのに対して、ルイは30代だった(中公新書163〜164)
・1404年4月、ブルゴーニュ公フィリップが死去し、ジャンが後を継いだ。後に「無畏公(ジャン・サン・プール)」と呼ばれる、このときルイと同じく30代。2人は父たち以上に激しく対立した。フィリップ死去の隙に対英軍事政策を進めるルイは、同時にブルゴーニュ公への定期金支給額を削減し、ノルマンディーの統治権を要求。これに対してジャン・サン・プールは、1405年8月に軍隊を率いてパリへ入城。高等法院を占拠し、1407年11月、街中でオルレアン公ルイを殺害した(これは「暴君」ルイと討伐した行為として正当化されるか、パリ大学の神学者たちは激論を交わした)。さらに1409年3月、フランス王妃イザボーを丸め込み、王太子ルイの後見権を獲得。パリを追われたオルレアン公ルイの支持者たちは、彼の遺児であるオルレアン公シャルルのもとに集まった。その軍司令官をアルマニャック伯ベルナール7世が担ったことから、彼らはアルマニャック派と呼ばれた。1411年7月、アルマニャック派がシャルルの名の下にジャン・サン・プールに挑戦状を叩きつけると、政争は武力による内戦へ変わっていった(中公新書164〜165)
・内戦を勝利するため、両派は表向き休戦中のイングランドに助力を求めた。1412年5月、ヘンリー4世は最終的にアルマニャック派への援助を約束。これに焦ったブルゴーニュ公は8月、アルマニャック派を説得して互いにイングランドと軍事同盟を結ばないことを誓った。なお、ヘンリーはすでに次男を大陸に送っており、アルマニャック派は撤退してもらうために多額の資金を払う羽目になった(中公新書166〜167)
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■シャルル6世の精神錯乱、ジャン・サン・プール登場、オルレアン公ルイ殺害
・シャルル6世は即位時、11歳だった。そのため政治は4人のおじが担った。シャルル5世の弟アンジュー公ルイ、ベリー公ジャン、ブルゴーニュ公フィリップ、母ジャンヌの弟ブルボン公ルイ2世である。彼が親政を開始するのは1388年、19歳になってからである(中公新書154)
・この頃、パリの王政府では、王であるシャルル6世の叔父(父親の弟)であるブルゴーニュ公フィリップと、王の弟であるオルレアン公ルイの党派対立が激化していた。1380〜90年代はブルゴーニュ公、1400年以降は台頭したオルレアン公とブルゴーニュ公の抗争、1410年以降は両者の系統を引くブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦状態となっていく(中公新書154〜156)
・1392年8月、逆臣ブルターニュ公に対する遠征途上、ルマン近郊で鉄や鋼がぶつかり合う音に異常なまでの恐怖を覚え、周囲の者に襲いかかった。以後、正気に戻ることもあったが、王はしばしば精神錯乱に襲われた。以来、治世42年間、その苦しみからは解放されなかった。彼は自分の王妃の名も、子どもの名も覚えていなかった。だが、性格は優しく「誰からも愛された」王だった。王国で徴発が乱用されていると聞くと「貧民の苦しみで調理されたパンのかけらを食べようとしなかった」。また父とは逆に武芸が達者だった(中公新書154〜155)
・1396年3月9日、パリで28年間の休戦協定が結ばれた。平和条約の締結にはまたしても至らなかったが、休戦の証として、ルクセンブルク王家のアンナと死別していたリチャード2世とフランス王女イザベルの結婚が取り決められた(中公新書159)
・1390年代、休戦協定が繰り返し更新されると、両国とも和平への気運が高まった。もっとも、それは戦争に専念できない理由の半分にすぎない。もう半分は、そもそも専念できない事情があった。たとえば、当時のフランス使節団の代表であるブルゴーニュ公フィリップは、フランドル伯領を継承されたため、イギリスとの対立を避けたかった。これはもちろん、羊毛取引と毛織物生産をめぐる対立を煽らないためである(中公新書158)
・だが、この長期の休戦協定は、前述のリチャード2世の廃位によって中断された(中公新書161)。新国王ヘンリー4世は対仏強硬路線を主張する人物だった。しかし、ヘンリー4世は国内の反ランカスター勢力を抑えるので手一杯だったため、結局1400年5月、先の28年間のパリ休戦協定が再確認された。フランス側の代表は、王の叔父ベリー公ジャンとブルゴーニュ公フィリップだった。これに対して、オルレアン公ルイは戦争再開を主張(動機はリチャードの廃位とその妻イザベルへの酷い仕打ちに対する復讐)。なお、このころ叔父たちは60代だったのに対して、ルイは30代だった(中公新書163〜164)
・1404年4月、ブルゴーニュ公フィリップが死去し、ジャンが後を継いだ。後に「無畏公(ジャン・サン・プール)」と呼ばれる、このときルイと同じく30代。2人は父たち以上に激しく対立した。フィリップ死去の隙に対英軍事政策を進めるルイは、同時にブルゴーニュ公への定期金支給額を削減し、ノルマンディーの統治権を要求。これに対してジャン・サン・プールは、1405年8月に軍隊を率いてパリへ入城。高等法院を占拠し、1407年11月、街中でオルレアン公ルイを殺害した(これは「暴君」ルイと討伐した行為として正当化されるか、パリ大学の神学者たちは激論を交わした)。さらに1409年3月、フランス王妃イザボーを丸め込み、王太子ルイの後見権を獲得。パリを追われたオルレアン公ルイの支持者たちは、彼の遺児であるオルレアン公シャルルのもとに集まった。その軍司令官をアルマニャック伯ベルナール7世が担ったことから、彼らはアルマニャック派と呼ばれた。1411年7月、アルマニャック派がシャルルの名の下にジャン・サン・プールに挑戦状を叩きつけると、政争は武力による内戦へ変わっていった(中公新書164〜165)
・内戦を勝利するため、両派は表向き休戦中のイングランドに助力を求めた。1412年5月、ヘンリー4世は最終的にアルマニャック派への援助を約束。これに焦ったブルゴーニュ公は8月、アルマニャック派を説得して互いにイングランドと軍事同盟を結ばないことを誓った。なお、ヘンリーはすでに次男を大陸に送っており、アルマニャック派は撤退してもらうために多額の資金を払う羽目になった(中公新書166〜167)