資料(百年戦争の概略)
■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■カール4世の承認、世代交代、長期休戦、大シスマ、リチャード2世とシャルル6世の即位
・フランスのシャルル5世は1378年1月、カール4世をパリに招いた。西ローマ帝国の後継者を標榜する神聖ローマ帝国の皇帝である。シャルルはイングランドの主張の不当性を説明。そして、ルクセンブルク皇帝家とヴァロワ王家の友好が確認された。これによってシャルルのアキテーヌ再侵略政策は、いわば国際的な承認を得ることとなった。(中公新書141〜142)
・この頃、両国で世代交代が起こっていた。1376年6月にエドワード黒太子、77年6月にエドワード3世、80年7月にベルトラン・デュ・ゲクラン、80年9月にシャルル5世が相次いで亡くなった。前述の通り、王位の継承については明確なルールがない時代のため、彼らの死は少なからず混乱を招いた。また、ここまでの戦争で多額の戦費がかかっており、そのたびにフランス王は三部会に課税の承認を求めてきた。しかし、百年戦争を通じてそれが常態化しており、シャルル5世は遺言で直接税の廃止を言い残すなど、かなり厳しい状況だった。そして、その常態化した課税に対する国民の不満が、少し後でついに爆発する(中公新書142〜144)
・1370年代末から約40年間、百年戦争は長期の休戦に入る。英仏の国内情勢も理由だが、大きいのは大シスマだった。1377年、ローマに帰還したグレゴリウス11世が死去し、ローマで新教皇ウルバヌス6世が選出された。これに反対したフランス王シャルル5世は、イタリアのフォンディでクレメンス7世を選出。各国君主はどちらを支持するか迫られた。イングランドはウルバヌス6世を支持。1378年にカール4世が死去した神聖ローマ帝国もフランス側ではなくローマを支持した(中公新書147〜149)
・1377年7月、死去したエドワード3世の後を継いで、孫のリチャード2世(当時10歳)が即位した。そして1382年1月、シャルル5世とカール4世の蜜月が嘘だったかのように、リチャード2世はカール4世の息子であるドイツ国王ヴェンツェルの妹、アンナ・フォン・ルクセンブルクと結婚した。彼は英語を母語とした最初のイングランド王だった。だが、リチャードの対仏政策はうまく進まない。1377年6月にブルッヘ休戦協定は期限切れになっていた。リチャードはナヴァール王シャルルやブルターニュ公ジャン4世と軍事密約を結ぼうとしたが、これがアンジュー公ルイによるスパイで失敗。ならばと1377年より3度にわたる人頭税の賦課を決定する。だが、対仏戦争が劣勢の中での課税には反対も根強く、これが1381年のワット・タイラーの登場につながってしまう。1383年のカレー遠征も失敗し、1383年9月ごろからはフランスとの和平を模索するようになる。だが、これに対して反国王派が形成され、1399年にヘリフォード公ヘンリーが父ジョンの遺領をめぐる対立からクーデターを決行。リチャード2世を監禁して退位を迫った。99年9月、リチャードは退位文書に署名。王朝はジョンの遺領から名前をとってランカスター朝となり、ヘンリー4世が誕生した。フランスにとって、このいざこざによる隙は絶好の進軍の機会だった。だが、同国もシャルル5世の後を継いだのは、未成年のシャルル6世だった。1380年11月のことである(中公新書149〜153)
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■カール4世の承認、世代交代、長期休戦、大シスマ、リチャード2世とシャルル6世の即位
・フランスのシャルル5世は1378年1月、カール4世をパリに招いた。西ローマ帝国の後継者を標榜する神聖ローマ帝国の皇帝である。シャルルはイングランドの主張の不当性を説明。そして、ルクセンブルク皇帝家とヴァロワ王家の友好が確認された。これによってシャルルのアキテーヌ再侵略政策は、いわば国際的な承認を得ることとなった。(中公新書141〜142)
・この頃、両国で世代交代が起こっていた。1376年6月にエドワード黒太子、77年6月にエドワード3世、80年7月にベルトラン・デュ・ゲクラン、80年9月にシャルル5世が相次いで亡くなった。前述の通り、王位の継承については明確なルールがない時代のため、彼らの死は少なからず混乱を招いた。また、ここまでの戦争で多額の戦費がかかっており、そのたびにフランス王は三部会に課税の承認を求めてきた。しかし、百年戦争を通じてそれが常態化しており、シャルル5世は遺言で直接税の廃止を言い残すなど、かなり厳しい状況だった。そして、その常態化した課税に対する国民の不満が、少し後でついに爆発する(中公新書142〜144)
・1370年代末から約40年間、百年戦争は長期の休戦に入る。英仏の国内情勢も理由だが、大きいのは大シスマだった。1377年、ローマに帰還したグレゴリウス11世が死去し、ローマで新教皇ウルバヌス6世が選出された。これに反対したフランス王シャルル5世は、イタリアのフォンディでクレメンス7世を選出。各国君主はどちらを支持するか迫られた。イングランドはウルバヌス6世を支持。1378年にカール4世が死去した神聖ローマ帝国もフランス側ではなくローマを支持した(中公新書147〜149)
・1377年7月、死去したエドワード3世の後を継いで、孫のリチャード2世(当時10歳)が即位した。そして1382年1月、シャルル5世とカール4世の蜜月が嘘だったかのように、リチャード2世はカール4世の息子であるドイツ国王ヴェンツェルの妹、アンナ・フォン・ルクセンブルクと結婚した。彼は英語を母語とした最初のイングランド王だった。だが、リチャードの対仏政策はうまく進まない。1377年6月にブルッヘ休戦協定は期限切れになっていた。リチャードはナヴァール王シャルルやブルターニュ公ジャン4世と軍事密約を結ぼうとしたが、これがアンジュー公ルイによるスパイで失敗。ならばと1377年より3度にわたる人頭税の賦課を決定する。だが、対仏戦争が劣勢の中での課税には反対も根強く、これが1381年のワット・タイラーの登場につながってしまう。1383年のカレー遠征も失敗し、1383年9月ごろからはフランスとの和平を模索するようになる。だが、これに対して反国王派が形成され、1399年にヘリフォード公ヘンリーが父ジョンの遺領をめぐる対立からクーデターを決行。リチャード2世を監禁して退位を迫った。99年9月、リチャードは退位文書に署名。王朝はジョンの遺領から名前をとってランカスター朝となり、ヘンリー4世が誕生した。フランスにとって、このいざこざによる隙は絶好の進軍の機会だった。だが、同国もシャルル5世の後を継いだのは、未成年のシャルル6世だった。1380年11月のことである(中公新書149〜153)