資料(百年戦争の概略)
■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■和平の気運、ジャン2世が死去、カスティーリャ継承戦争、1369年の平和条約崩壊、1372年の戦況逆転
・1360年前半、戦況が停滞した。そのためエドワード3世、ジャン2世、王太子シャルルとも、和平への気運が高まった。そして5月、和平交渉がブレティニーで再開され、6月には仮の平和条約であるブレティニー条約が結ばれた(後にカレーで本条約を結ぶことになっていた。そのためカレーの条約と合わせてブレティニー・カレー条約とも呼ばれる)。だが、現場の兵士などは、条約に定められた領地や城塞の引き渡しを拒否し続けた(中公新書107〜113)
・10月末、ジャン2世がカレーで釈放される。王は早速、平和条約の執行に着手。まずコンピエーニュでラングドイル全国三部会を召集。身代金を集めるためだった。だが、1360年末、戦争の停止で稼ぎ口を失った傭兵などの略奪が激化。やがてその中から、スコットランド人ウォルターを首領とする大盗賊団が結成された。彼らはラングドック三部会が身代金のために集めた税金を狙って、教皇庁があるアヴィニョンの近くに出没。教皇庁は苦肉の策として彼らと雇用契約を結び、敵対するミラノとの戦闘に派遣した。そんな中、1364年1月にジャン2世が渡英。理由は定かではないが、彼はそのまま4月、ロンドンで死去。1364年5月、王太子シャルルがフランス王に即位し、シャルル5世となった(中公新書113〜115)
・だが、1366年ごろよりカスティーリャ継承戦争が激化したことで状況が変わってきた。この戦争は1362年から始まった戦争だが、1366年より英仏の代理戦争となっていった。イギリスは国王ペドロ1世を、フランスはペドロの異母兄エンリケを支援した。イギリスの中心はエドワード黒太子とナヴァール王シャルル、フランスはアンジュー公ルイと後の英雄である傭兵隊長ベルトラン・デュ・ゲクラン。当初はフランスが優勢だったが、1367年4月のナヘラの戦いでペドロ1世=イギリス側が勝利すると戦況が膠着。仕事を失った兵士が盗賊と化してフランス南部から北東部にかけてあふれた。その対策として、アキテーヌに戻ったエドワード黒太子は地元住民に課税を求めた。結果、5年間にわたる10スーの竈税が承認されたが、これに地元領主たちが反対した。たとえば、アルマニャック伯ジャン、アルブレ卿アルノー・アマニューなどだ。彼らはカスティーリャ継承戦争でエドワード黒太子のもと戦ったが、その報酬が未払いだった(ほかの理由で反対した者もいる)。そんな中で、1368年5月、アルマニャック伯ジャンはアンジュー公ルイ、ベリー公ジャンの協力を得て、課税撤回の訴訟をパリ高等法院に持ち込んだ。だが、パリ高等法院はフランス王の最高裁判権の代理執行機関である(もとは宮廷にあった)。アルマニャック伯たちガスコーニュ領主はエドワード黒太子に臣従礼を誓っていた=イギリスの家臣であるため、イギリスと彼らの主従関係にフランスが口を出すことになる。裁判以前に、これが問題ではないのかと議論となった。シャルル5世は、ヨーロッパ中の大学法学部に問い合わせた。結果、フランス王(ジャン2世)といえども、国の主権を勝手に譲渡や分割などできないと結論づけ、1368年6月にアルマニャック伯の訴えを受理した。これが原因となって、戦争が再開されることとなる。1368年9月、ボルドーにいたエドワード黒太子は、イングランドとウェールズの自身の領地に対して800人の弓兵の召集を要請。だが、エドワード3世はもう55歳だったのもあって、戦争に乗り気ではなかった。だが、先の訴訟受理に関する釈明を求める声明は発表した。パリ高等法院はエドワード黒太子に1369年5月の出廷命令を通達。だがこれに先立ち、1369年1月にアルマニャック伯ジャンの息子であるジャン2世とアンジュー公ルイが進軍を開始。ガスコーニュの都市を次々と陥落させていった(中公新書120〜130)
・1369年のこの一件を皮切りに、ブレティニー・カレー条約という成果が帳消しとなる。5月、エドワード黒太子は出廷に応じず、呼出状を持参した使者2人を監禁のうえ殺害。6月、エドワード3世が再びフランス王位継承権を主張するも、11月にはシャルル5世がアキテーヌ公領の没収を宣言した。また対立の影響は戦争以外にも飛び火。オックスフォード大学はこの年、パリの学生を追い出した。1370年以降、アンジュー公ルイを中心に、イングランドに割譲されたアキテーヌの再征服が進められる。この戦闘はすべて、先の「不戦」戦法で実施された。防備がそもそも手薄な農村の民や、戦利品や戦争における名誉を期待する貴族には不評だったが、シャルル5世は勝利を優先した(不戦戦法は平野部の農村を犠牲にするかわりに、軍事・経済・政治・信仰の拠点を守り切る戦略)。中でも中心的な役割を果たしたベルトラン・デュ・ゲクランが1370年10月、大元帥に任じられた。ブルターニュ出身の中小貴族が最高官職につくという異例の大抜擢だった。また、それと同時に兵力の強化などにも注力。1369年には娯楽を禁じ、武芸の鍛錬に励む者に賞品を出すという王令を出すなどした。そんな中、1372年6月、同盟国カスティーリャの艦隊が大西洋岸ラ・ロシェル沖で、イングランド艦隊を撃破した。これまでイングランドが優勢だったが、ここでついにフランスが陸海双方において優勢に立った。1375年3月、教皇特使の仲介で開かれたブルッヘでの和平交渉でも、ブレティニー・カレー条約の速やかな執行(南西フランスのイギリス大陸領の早期割譲など)を求めるイギリスに対し、フランス側はそもそも条約には瑕疵があるため無効と強気に主張した。結局、6月に1年の休戦協定だけ締結して終わった(中公新書131〜139)
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1
■和平の気運、ジャン2世が死去、カスティーリャ継承戦争、1369年の平和条約崩壊、1372年の戦況逆転
・1360年前半、戦況が停滞した。そのためエドワード3世、ジャン2世、王太子シャルルとも、和平への気運が高まった。そして5月、和平交渉がブレティニーで再開され、6月には仮の平和条約であるブレティニー条約が結ばれた(後にカレーで本条約を結ぶことになっていた。そのためカレーの条約と合わせてブレティニー・カレー条約とも呼ばれる)。だが、現場の兵士などは、条約に定められた領地や城塞の引き渡しを拒否し続けた(中公新書107〜113)
・10月末、ジャン2世がカレーで釈放される。王は早速、平和条約の執行に着手。まずコンピエーニュでラングドイル全国三部会を召集。身代金を集めるためだった。だが、1360年末、戦争の停止で稼ぎ口を失った傭兵などの略奪が激化。やがてその中から、スコットランド人ウォルターを首領とする大盗賊団が結成された。彼らはラングドック三部会が身代金のために集めた税金を狙って、教皇庁があるアヴィニョンの近くに出没。教皇庁は苦肉の策として彼らと雇用契約を結び、敵対するミラノとの戦闘に派遣した。そんな中、1364年1月にジャン2世が渡英。理由は定かではないが、彼はそのまま4月、ロンドンで死去。1364年5月、王太子シャルルがフランス王に即位し、シャルル5世となった(中公新書113〜115)
・だが、1366年ごろよりカスティーリャ継承戦争が激化したことで状況が変わってきた。この戦争は1362年から始まった戦争だが、1366年より英仏の代理戦争となっていった。イギリスは国王ペドロ1世を、フランスはペドロの異母兄エンリケを支援した。イギリスの中心はエドワード黒太子とナヴァール王シャルル、フランスはアンジュー公ルイと後の英雄である傭兵隊長ベルトラン・デュ・ゲクラン。当初はフランスが優勢だったが、1367年4月のナヘラの戦いでペドロ1世=イギリス側が勝利すると戦況が膠着。仕事を失った兵士が盗賊と化してフランス南部から北東部にかけてあふれた。その対策として、アキテーヌに戻ったエドワード黒太子は地元住民に課税を求めた。結果、5年間にわたる10スーの竈税が承認されたが、これに地元領主たちが反対した。たとえば、アルマニャック伯ジャン、アルブレ卿アルノー・アマニューなどだ。彼らはカスティーリャ継承戦争でエドワード黒太子のもと戦ったが、その報酬が未払いだった(ほかの理由で反対した者もいる)。そんな中で、1368年5月、アルマニャック伯ジャンはアンジュー公ルイ、ベリー公ジャンの協力を得て、課税撤回の訴訟をパリ高等法院に持ち込んだ。だが、パリ高等法院はフランス王の最高裁判権の代理執行機関である(もとは宮廷にあった)。アルマニャック伯たちガスコーニュ領主はエドワード黒太子に臣従礼を誓っていた=イギリスの家臣であるため、イギリスと彼らの主従関係にフランスが口を出すことになる。裁判以前に、これが問題ではないのかと議論となった。シャルル5世は、ヨーロッパ中の大学法学部に問い合わせた。結果、フランス王(ジャン2世)といえども、国の主権を勝手に譲渡や分割などできないと結論づけ、1368年6月にアルマニャック伯の訴えを受理した。これが原因となって、戦争が再開されることとなる。1368年9月、ボルドーにいたエドワード黒太子は、イングランドとウェールズの自身の領地に対して800人の弓兵の召集を要請。だが、エドワード3世はもう55歳だったのもあって、戦争に乗り気ではなかった。だが、先の訴訟受理に関する釈明を求める声明は発表した。パリ高等法院はエドワード黒太子に1369年5月の出廷命令を通達。だがこれに先立ち、1369年1月にアルマニャック伯ジャンの息子であるジャン2世とアンジュー公ルイが進軍を開始。ガスコーニュの都市を次々と陥落させていった(中公新書120〜130)
・1369年のこの一件を皮切りに、ブレティニー・カレー条約という成果が帳消しとなる。5月、エドワード黒太子は出廷に応じず、呼出状を持参した使者2人を監禁のうえ殺害。6月、エドワード3世が再びフランス王位継承権を主張するも、11月にはシャルル5世がアキテーヌ公領の没収を宣言した。また対立の影響は戦争以外にも飛び火。オックスフォード大学はこの年、パリの学生を追い出した。1370年以降、アンジュー公ルイを中心に、イングランドに割譲されたアキテーヌの再征服が進められる。この戦闘はすべて、先の「不戦」戦法で実施された。防備がそもそも手薄な農村の民や、戦利品や戦争における名誉を期待する貴族には不評だったが、シャルル5世は勝利を優先した(不戦戦法は平野部の農村を犠牲にするかわりに、軍事・経済・政治・信仰の拠点を守り切る戦略)。中でも中心的な役割を果たしたベルトラン・デュ・ゲクランが1370年10月、大元帥に任じられた。ブルターニュ出身の中小貴族が最高官職につくという異例の大抜擢だった。また、それと同時に兵力の強化などにも注力。1369年には娯楽を禁じ、武芸の鍛錬に励む者に賞品を出すという王令を出すなどした。そんな中、1372年6月、同盟国カスティーリャの艦隊が大西洋岸ラ・ロシェル沖で、イングランド艦隊を撃破した。これまでイングランドが優勢だったが、ここでついにフランスが陸海双方において優勢に立った。1375年3月、教皇特使の仲介で開かれたブルッヘでの和平交渉でも、ブレティニー・カレー条約の速やかな執行(南西フランスのイギリス大陸領の早期割譲など)を求めるイギリスに対し、フランス側はそもそも条約には瑕疵があるため無効と強気に主張した。結局、6月に1年の休戦協定だけ締結して終わった(中公新書131〜139)