資料(百年戦争の概略)

■出典
https://plus.fm-p.jp/u/cachiku/book/page?id=2&bid=1

■賢明王の大王令、戦争再開、偶然の「不戦」作戦
・ジャン2世が捕虜となった後、フランスは長男の王太子にして当時のノルマンディー公シャルル(後のシャルル5世)が国を率いた。フランス王に即位したのは1364年。後世、賢明王と呼ばれた彼は、父と違って武芸よりも策略を好んだ(中公新書93)
・1356年9月29日、ジャン2世が捕虜となってボルドーへ連行された約10日後、シャルルはラングドイル全国三部会を召集。1357年3月3日に自身と三部会の要求を反映した「大王令」を発した。全60条で、国王顧問官の監視、税の徴収と使用の監視、不当な徴発の禁止、全住民への武装命令などが盛り込まれた。ただ、中には聖職者への武装を命じた項目もあり(40条)、これは反発を招いた(中公新書93〜95)
・並行して、ボルドーで和平交渉も再開され、「大王令」から20日後の23日に2年間の休戦協定が締結された。しかし、休戦を望んだ首脳部に対して、三部会に出席する特権身分や、ブルターニュの主要都市を落としかけていたヘンリー・オヴ・ランカスターの軍などは、これに反対(前者は三部会の即刻閉会や身代金以外への課税停止に反対した)。そしてフランスでは、三部会に出席する特権身分や農民などが実力行使に出た(中公新書95〜96)
・最初に貴族身分が動いた。1357年11月、ジャン2世によって捕縛されたナヴァール王シャルルが脱出に成功。これにエティエンヌ・マルセルが呼応する。その一報を受けたジャン2世は同月、一日も早い帰還のために講和を急いだ。そしてウィンザー城で話し合い合意を得る。それをもってフランスへ戻り、ナヴァール王シャルルとエティエンヌ・マルセルと会見するも決裂。ジャンの合意はイギリスへの領土分割を条件としていたが、シャルルは自身の補償問題で獲得できる土地が減ることを(特にノルマンディーに広がる自身の領地の譲渡あるいは交換を)、エティエンヌは北仏の商業圏が小さくなることを恐れて反対した。そして1358年2月、平和条約締結の機運を挫くべく、エティエンヌは王太子シャルルの私邸を襲撃し、軍司令官らを殺害。3月、王太子と宮廷はパリを脱出。ナヴァール王がパリの新たな主となった。そして、1358年5月には、農民が動いた。北仏のボーヴェー地方でジャックリーの反乱が起こった。長年にわたる戦争物資の徴発に対する不満が爆発した。だが、この動きが加速すると、領主支配の仕組みが崩壊するのを恐れたナヴァール王シャルルによって、首領のギヨーム・カルが殺害され、終焉を迎えた(中公新書96〜99)
・ところが1358年7月、今度はエティエンヌ・マルセルが死去。これを好機とし、ジャン2世はパリ帰還に成功。「ナヴァール王をフランス王と宣言し、ナヴァール派のイングランド人をパリに招こうとしていた者ども」に対する粛清を開始した。同胞の死に焦ったナヴァール王は北方のイギリス軍と合流し、王太子を迎え撃つ構えを整えた。11月、ウィンザー城で決められた条件の一つ、ジャン2世の身代金の支払い期日が来た。休戦に反対のパリ三部会は当然これを無視(もとより資金もなかった)。エドワード3世は激怒し、王太子シャルルにボルドー休戦協定の破棄と戦争再開を通告。この冬から1359年の春にかけて、イギリスーナヴァール連合軍はムラン、アミアン、オルレアンなど、パリ盆地を包囲するように略奪や放火を繰り返した。軍資金のない王太子政府は和平交渉を急ぐしかなく、1359年3月にウィンザーの協定の変更を提案。割譲地を大幅に増やすなど譲歩した(フランス王国のほぼ西半分まで広がった)。だが、その承認を求めるために召集した1359年5月の三部会は、ほとんどの者が召集に応じず、協定の変更も承認されなかった。三部会はあくまで戦争再開を主張した。これを知ったエドワード3世は10月、ランスをめざしてカレーに上陸した(ランスをめざした理由は不明)。だが、この上陸作戦はうまくいかなかった。資金も兵力もなかった王太子シャルルは各都市に防備強化命令を発布。徹底的に戦闘を避けて守りに徹したが、これが功を奏した。フランス兵が一向に姿を見せないため、イギリス軍は戦利品も捕虜=身代金も手に入らず、食糧も尽きていった。12月にはなんとかランスまで到達したが、ランス大司教ジャン・ド・クランのもと敷かれた固い防御の前に、ついに陥落はかなわなかった。1360年1月、イギリス軍は撤退。この偶然成功した「不戦」作戦は、後に正式な作戦として採用されるに至る(中公新書101〜104)
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