Moscow Mule
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「名前、茶」
私はお茶じゃありません。
そう屁理屈を捏ねたくなって黙るという行為を何度繰り返したのか分からない。視線すらこちらに寄越さず、その手に握られたままの湯呑みに名前はただ茶を注いだ。夏侯惇は何も言わずまた口に運ぶ。静謐な部屋。名前の苛立ちも募っていくばかりだ。
(お礼くらいあってもいいじゃない)
家父長制の敷かれた三国時代、男が一家の主であり絶対的な存在である。夏侯惇の態度が珍しいものではないのだろうということは予想がついていた。だが現代で育ち、年上の兄姉に甘やかされてきた名前には受け入れ難いものがあった。結婚してからより顕著になったように思う。時に召使いのように、時に道具のように扱われることに腹立たしさを抑え切れなくなっていた。
(むかつく時は一人になるに限る)
席を立つと、夏侯惇がそれを留めた。
「どこへ行く」
「台所へ。そろそろ夜ご飯を作らなきゃ」
「料理人に任せておけ」
「自分で作りたい日もあるの」
つっけんどんな言い方を止められなかった。自分でも子供っぽいことをしているのは分かっている。だけどこの人に直接ぶつけるよりはましだと思っていた。
「そうか。火に気をつけろ」
最後まで書から目を離さない姿に余計に苛立つ。そのまま荒々しく部屋を出て行ったせいで、その背を夫が不思議そうに見つめていたことに名前は気付かなかった。
「また何を怒っている」
夜になって寝台に乗りながら夫が声を掛けた。壁と熱烈に見詰め合って夏侯惇に背を向けている。拒絶の姿勢だった。大きな溜息をつくと看過できぬといった様子で名前が勢い良く振り返った。
「そんな態度、酷いわよ」
「夕食の間中口を閉ざす妻は"酷く"はないのか」
「返事はしたわ。最低限のね」
「怒りを隠さぬ態度でな」
「でも一言は返したわよ。貴方と違ってね」
名前は猫のような女だと夏侯惇は思っていた。構わなければ怒り、構い過ぎても怒り、機嫌の良し悪しを察して動かなければまた更に烈火の如く燃え上がる。『女は構ってちゃんなのよ』と本人は言う。我が身可愛さが『ちゃん』という末尾によく表れているという感想が心に湧いていた。
「名前」
怒れる両肩を持つと、『絆されません』とばかりに頬を膨らませてそっぽを向いた。明らかな態度が可笑しくて笑いそうになるが、ここで刺激しては一貫の終わり。動かぬ体を抱き寄せると素直にしなだれかかってきた。こういう所が可愛らしい女なのだ。
「言わぬと伝わるものも伝わらんぞ」
腕の中の体から力が抜けていくのが分かった。
「お茶を淹れるときにね」
「ああ」
「一言でいいから、お礼を言って欲しいの」
「そうしよう」
「声を掛けるときには私の目を見て。寂しいから」
「そんなことを気にしていたのか」
「大事なことなの。私にとってはね」
名前がその胸に頬を擦り寄せると、夏侯惇の手が髪を撫でた。
常識が違いながらも、夏侯惇が自分を最大限気遣っていることは名前も気付いていた。慣れない火の仕事は家人を雇い、結婚という手で戦場から遠ざけ、自分のそばに置いて危険から護った。庇護に心から感謝しながらも、日々の些細なことでささくれ立って八つ当たりしてしまう。その度に毎回向き合って、夫婦としての関係を一歩ずつ深めてきた二人だった。
『好きだ』『可愛い』『愛している』と、甘い言葉を振り撒く男ではない。それでも満たされていた。強く抱き着くと、同じ強さで抱擁が返ってくる。それが名前にとっての答えだった。
夫婦は気付くよしも無い。家人が二人を見守りながら、『犬も食わない』と考えていることなど。
Moscow Mule・・・その日のうちに仲直り
私はお茶じゃありません。
そう屁理屈を捏ねたくなって黙るという行為を何度繰り返したのか分からない。視線すらこちらに寄越さず、その手に握られたままの湯呑みに名前はただ茶を注いだ。夏侯惇は何も言わずまた口に運ぶ。静謐な部屋。名前の苛立ちも募っていくばかりだ。
(お礼くらいあってもいいじゃない)
家父長制の敷かれた三国時代、男が一家の主であり絶対的な存在である。夏侯惇の態度が珍しいものではないのだろうということは予想がついていた。だが現代で育ち、年上の兄姉に甘やかされてきた名前には受け入れ難いものがあった。結婚してからより顕著になったように思う。時に召使いのように、時に道具のように扱われることに腹立たしさを抑え切れなくなっていた。
(むかつく時は一人になるに限る)
席を立つと、夏侯惇がそれを留めた。
「どこへ行く」
「台所へ。そろそろ夜ご飯を作らなきゃ」
「料理人に任せておけ」
「自分で作りたい日もあるの」
つっけんどんな言い方を止められなかった。自分でも子供っぽいことをしているのは分かっている。だけどこの人に直接ぶつけるよりはましだと思っていた。
「そうか。火に気をつけろ」
最後まで書から目を離さない姿に余計に苛立つ。そのまま荒々しく部屋を出て行ったせいで、その背を夫が不思議そうに見つめていたことに名前は気付かなかった。
「また何を怒っている」
夜になって寝台に乗りながら夫が声を掛けた。壁と熱烈に見詰め合って夏侯惇に背を向けている。拒絶の姿勢だった。大きな溜息をつくと看過できぬといった様子で名前が勢い良く振り返った。
「そんな態度、酷いわよ」
「夕食の間中口を閉ざす妻は"酷く"はないのか」
「返事はしたわ。最低限のね」
「怒りを隠さぬ態度でな」
「でも一言は返したわよ。貴方と違ってね」
名前は猫のような女だと夏侯惇は思っていた。構わなければ怒り、構い過ぎても怒り、機嫌の良し悪しを察して動かなければまた更に烈火の如く燃え上がる。『女は構ってちゃんなのよ』と本人は言う。我が身可愛さが『ちゃん』という末尾によく表れているという感想が心に湧いていた。
「名前」
怒れる両肩を持つと、『絆されません』とばかりに頬を膨らませてそっぽを向いた。明らかな態度が可笑しくて笑いそうになるが、ここで刺激しては一貫の終わり。動かぬ体を抱き寄せると素直にしなだれかかってきた。こういう所が可愛らしい女なのだ。
「言わぬと伝わるものも伝わらんぞ」
腕の中の体から力が抜けていくのが分かった。
「お茶を淹れるときにね」
「ああ」
「一言でいいから、お礼を言って欲しいの」
「そうしよう」
「声を掛けるときには私の目を見て。寂しいから」
「そんなことを気にしていたのか」
「大事なことなの。私にとってはね」
名前がその胸に頬を擦り寄せると、夏侯惇の手が髪を撫でた。
常識が違いながらも、夏侯惇が自分を最大限気遣っていることは名前も気付いていた。慣れない火の仕事は家人を雇い、結婚という手で戦場から遠ざけ、自分のそばに置いて危険から護った。庇護に心から感謝しながらも、日々の些細なことでささくれ立って八つ当たりしてしまう。その度に毎回向き合って、夫婦としての関係を一歩ずつ深めてきた二人だった。
『好きだ』『可愛い』『愛している』と、甘い言葉を振り撒く男ではない。それでも満たされていた。強く抱き着くと、同じ強さで抱擁が返ってくる。それが名前にとっての答えだった。
夫婦は気付くよしも無い。家人が二人を見守りながら、『犬も食わない』と考えていることなど。
Moscow Mule・・・その日のうちに仲直り
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