Golden Dream
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「お疲れ様です」
小休憩を挟んで部屋に茶を持ち込むと、夫が咳と共に答えた。
「疲れるものか。こうして座っているだけだと言うのに」
気丈に振る舞ってはいるがもう本当は身を起こしていることすら辛いはずなのに、夫は正装して椅子に座り、客を出迎えている。せめてもの慰めと思って好物を作ろうにも噎せて喉に入らない日もあった。
名前は手が震えないように気をつけながら茶を卓の上に乗せた。もう覚悟は出来ている。自分は武人の妻なのだという誇りがあった。
「今日はあと何人いる」
「十五人です」
「はは、喜ばしいものよな」
合肥の戦いで共に決死隊として勤めた者達が見舞いに来て、廊下に列を成して並んでいた。連日のように持ち込まれる品々と温かい言葉の数々。張夫妻はその度に今まで歩んできた道程を振り返らずにはいられなかった。
ばしゃん。
夫が湯呑みを取り落として卓の上に茶が広がった。ぽたぽたと床に垂れていく液体。名前は慌てずに席を立った。
「布巾を持ってきます」
「情けない」
夫は目を閉じて恥じ入っている。
「あれだけ恐れられてきた私がこのざまとは」
膝に茶が染みている。悲しむ夫に寄り添いたい気持ちが芽生えたが、慰めの言葉が浮かばない。近頃名前の心にあるのは感謝ばかりだった。後ろから夫の首に手を回して抱き締め、その肩に顎を乗せた。
「文遠様、私は幸せでした」
張遼が名前の手の上に自分の手を添えた。
「今も、これからもずっとそうです」
二つの手。片方は武人の手、もう片方は家を守ってきた女主人の手だ。二つとも異なる特徴を持っているが、しみが点々として、皺が寄っているという部分では同じだった。
「ああ、私もだ」
いよいよとなって息が細くなっていくとき、寝台の周りには家族の姿があった。名前は不思議と穏やかな気持ちだった。終焉を目前にして心が荒れる家族とは裏腹に、夫妻だけは風に揺れる柳のような心でそれを待っていた。
張遼が息子を呼びつけた。
「お前が家を守れ。曹丕殿によく仕え、義と忠を重んじ、孝を成せ」
「承知仕りました」
張虎がはっきりとした口調で答える。大きくなったものだ。その背は嘗ての夫にそっくりだった。
「名前よ」
「はい」
名前が張遼の手を握った。
「もう、良いか」
短い言葉。それだけで夫婦は通じ合った。
「よろしゅうございます」
答えると、その目が永遠に閉ざされた。家族が泣き崩れる。名前はただ夫の手に残る力強さを感じていた。
その夜名前は夢を見た。張虎の初陣の日の夢だった。
夫と同じ形の兜の緒を締めようとすると、横から張遼が奪っていった。ぎりりと音が鳴りそうなほどにきつく締め上げると、息子の肩を片手で叩いた。
「家名と父に恥じない戦いを」
どうか怪我無く、無事で帰って来て。口にした言葉と正反対の懇願を名前は心に浮かべていた。しかし武人の妻になると決めた日から、いずれこうなることは分かっていた。
「では、行ってくる」
「母上、行って参ります」
体を固くする息子と、悠然と構えた夫が家を出て行く。あの時ほど戦を恨んだ日は無かった。
時は遡り、初の子が生まれた日にまた目を覚ました。産後の貧血で意識が定まらない中、夫がその手に赤子を抱いている。
「生まれたか。我が子のためにも、この平穏を守り通さねばな」
赤子を乳母に渡すと、今度は名前の手を痛いほど握り締めて言った。
「名前よ、よくやってくれた。そなたもこの子も、我が宝のうちの一つだ」
熱い男だ。この人に家族を与えることができて良かった。名前はその時心からそう思ったのだ。
今度はまた時が過ぎた。息子と張遼が庭で鍛錬を繰り広げている。
「脇が甘い!」
木剣を叩き落とされて息子の小さな手が戦慄いた。まだ年若い息子にも夫は容赦無く指導を浴びせる。涙目で肩を震わせながらも食らいつく息子が痛々しい。その場で抱き着いて止めたかったが、夫の厳しさは戦場で息子が生き残れるようにと願う、父としての愛情の裏返しであることを名前は知っていた。
「右腕を後で見てやってくれ」
鍛錬の後張遼が名前に囁く。
「痛んでいるはずだ。隠しているがな」
気がつけば、結婚前に巻き戻っていた。護身術程度に名前は張遼に稽古をつけてもらっていたのだが、今はその終わりのようだった。まめの潰れた手に包帯を巻きながら、張遼が呟く。
「女性の手に作って良い傷ではありませんな」
「あら、私に傷がついて誰が困ると言うんでしょう」
名前はからりと笑う。共に笑い飛ばしてくれればいいのに、男は指で悲しげに包帯をなぞった。
「御自ら体を痛めつけることはない。名前殿のことは私がお守り致す」
「後ろで守られるような女に見えるんですか」
勝負とばかりに目を見つめると、張遼との間に火花が散った。燃えるような恋。互いの心は既に爆発寸前まで高まっていた。
「そなたがそなたであるからこそ、奮い甲斐があるというものだ」
結婚式の日に蘇ったとき、過ぎた現実では真紅の衣装を纏っていたはずの名前は白無垢を身を包んでいた。張遼も同じく紅ではない、見慣れた藍の戦装束。綿帽子越しに顔を覗く。血気盛んな凛々しい顔つきだ。名前の手はまだ白魚のように瑞々しい。
実際にはしていないはずの、日本式の儀式が続いた。三三九度を酌み交わすときになって酒に手を付けて一口、名前の目から無感情に涙が溢れた。本能的に悟った、夫との別れが済んだのだと。全身の白を以て花嫁は前の家で死人となり、新しい家へ嫁ぐと言う。この世とあの世の別れ道、狭間を行き交いながら二つの魂は何度も別れと巡り合いを繰り返す。これが今生の然様なら、しかし寂しくはない。泡沫の夢のように繰り返される輪廻転生の中、またどこかで縁が結ばれるときが来る。
名前は三つ指をついて礼をした。
「お然らばに御座います」
張遼は若いときの好戦的な顔でにっと笑った。
「ああ。いざ然らば」
Golden Dream・・・永遠の夢
小休憩を挟んで部屋に茶を持ち込むと、夫が咳と共に答えた。
「疲れるものか。こうして座っているだけだと言うのに」
気丈に振る舞ってはいるがもう本当は身を起こしていることすら辛いはずなのに、夫は正装して椅子に座り、客を出迎えている。せめてもの慰めと思って好物を作ろうにも噎せて喉に入らない日もあった。
名前は手が震えないように気をつけながら茶を卓の上に乗せた。もう覚悟は出来ている。自分は武人の妻なのだという誇りがあった。
「今日はあと何人いる」
「十五人です」
「はは、喜ばしいものよな」
合肥の戦いで共に決死隊として勤めた者達が見舞いに来て、廊下に列を成して並んでいた。連日のように持ち込まれる品々と温かい言葉の数々。張夫妻はその度に今まで歩んできた道程を振り返らずにはいられなかった。
ばしゃん。
夫が湯呑みを取り落として卓の上に茶が広がった。ぽたぽたと床に垂れていく液体。名前は慌てずに席を立った。
「布巾を持ってきます」
「情けない」
夫は目を閉じて恥じ入っている。
「あれだけ恐れられてきた私がこのざまとは」
膝に茶が染みている。悲しむ夫に寄り添いたい気持ちが芽生えたが、慰めの言葉が浮かばない。近頃名前の心にあるのは感謝ばかりだった。後ろから夫の首に手を回して抱き締め、その肩に顎を乗せた。
「文遠様、私は幸せでした」
張遼が名前の手の上に自分の手を添えた。
「今も、これからもずっとそうです」
二つの手。片方は武人の手、もう片方は家を守ってきた女主人の手だ。二つとも異なる特徴を持っているが、しみが点々として、皺が寄っているという部分では同じだった。
「ああ、私もだ」
いよいよとなって息が細くなっていくとき、寝台の周りには家族の姿があった。名前は不思議と穏やかな気持ちだった。終焉を目前にして心が荒れる家族とは裏腹に、夫妻だけは風に揺れる柳のような心でそれを待っていた。
張遼が息子を呼びつけた。
「お前が家を守れ。曹丕殿によく仕え、義と忠を重んじ、孝を成せ」
「承知仕りました」
張虎がはっきりとした口調で答える。大きくなったものだ。その背は嘗ての夫にそっくりだった。
「名前よ」
「はい」
名前が張遼の手を握った。
「もう、良いか」
短い言葉。それだけで夫婦は通じ合った。
「よろしゅうございます」
答えると、その目が永遠に閉ざされた。家族が泣き崩れる。名前はただ夫の手に残る力強さを感じていた。
その夜名前は夢を見た。張虎の初陣の日の夢だった。
夫と同じ形の兜の緒を締めようとすると、横から張遼が奪っていった。ぎりりと音が鳴りそうなほどにきつく締め上げると、息子の肩を片手で叩いた。
「家名と父に恥じない戦いを」
どうか怪我無く、無事で帰って来て。口にした言葉と正反対の懇願を名前は心に浮かべていた。しかし武人の妻になると決めた日から、いずれこうなることは分かっていた。
「では、行ってくる」
「母上、行って参ります」
体を固くする息子と、悠然と構えた夫が家を出て行く。あの時ほど戦を恨んだ日は無かった。
時は遡り、初の子が生まれた日にまた目を覚ました。産後の貧血で意識が定まらない中、夫がその手に赤子を抱いている。
「生まれたか。我が子のためにも、この平穏を守り通さねばな」
赤子を乳母に渡すと、今度は名前の手を痛いほど握り締めて言った。
「名前よ、よくやってくれた。そなたもこの子も、我が宝のうちの一つだ」
熱い男だ。この人に家族を与えることができて良かった。名前はその時心からそう思ったのだ。
今度はまた時が過ぎた。息子と張遼が庭で鍛錬を繰り広げている。
「脇が甘い!」
木剣を叩き落とされて息子の小さな手が戦慄いた。まだ年若い息子にも夫は容赦無く指導を浴びせる。涙目で肩を震わせながらも食らいつく息子が痛々しい。その場で抱き着いて止めたかったが、夫の厳しさは戦場で息子が生き残れるようにと願う、父としての愛情の裏返しであることを名前は知っていた。
「右腕を後で見てやってくれ」
鍛錬の後張遼が名前に囁く。
「痛んでいるはずだ。隠しているがな」
気がつけば、結婚前に巻き戻っていた。護身術程度に名前は張遼に稽古をつけてもらっていたのだが、今はその終わりのようだった。まめの潰れた手に包帯を巻きながら、張遼が呟く。
「女性の手に作って良い傷ではありませんな」
「あら、私に傷がついて誰が困ると言うんでしょう」
名前はからりと笑う。共に笑い飛ばしてくれればいいのに、男は指で悲しげに包帯をなぞった。
「御自ら体を痛めつけることはない。名前殿のことは私がお守り致す」
「後ろで守られるような女に見えるんですか」
勝負とばかりに目を見つめると、張遼との間に火花が散った。燃えるような恋。互いの心は既に爆発寸前まで高まっていた。
「そなたがそなたであるからこそ、奮い甲斐があるというものだ」
結婚式の日に蘇ったとき、過ぎた現実では真紅の衣装を纏っていたはずの名前は白無垢を身を包んでいた。張遼も同じく紅ではない、見慣れた藍の戦装束。綿帽子越しに顔を覗く。血気盛んな凛々しい顔つきだ。名前の手はまだ白魚のように瑞々しい。
実際にはしていないはずの、日本式の儀式が続いた。三三九度を酌み交わすときになって酒に手を付けて一口、名前の目から無感情に涙が溢れた。本能的に悟った、夫との別れが済んだのだと。全身の白を以て花嫁は前の家で死人となり、新しい家へ嫁ぐと言う。この世とあの世の別れ道、狭間を行き交いながら二つの魂は何度も別れと巡り合いを繰り返す。これが今生の然様なら、しかし寂しくはない。泡沫の夢のように繰り返される輪廻転生の中、またどこかで縁が結ばれるときが来る。
名前は三つ指をついて礼をした。
「お然らばに御座います」
張遼は若いときの好戦的な顔でにっと笑った。
「ああ。いざ然らば」
Golden Dream・・・永遠の夢
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