Tokyo Incidents
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𝐓𝐨𝐤𝐲𝐨 𝐈𝐧𝐜𝐢𝐝𝐞𝐧𝐭𝐬
何か聞こえる。だけど、返事が出来ない。もしかしたら片目は見えなくなっているかもしれない。腫れ上がっていて開き辛いし、何だか視界がぼやけている。
「名前よ、頼む。返事をせよ」
ゆるり、顔を上げると袁紹が此方に向かって必死に話し掛けていた。
「ごめん。嫌なもの見せたよね」
「お前が気に病む必要はないが・・・」
袁紹が言い淀んで目線を下げる。彼を悲しませたくなくて、喧嘩はリビングで行うようにしていたのだ。部屋には鍵を掛け、夫には入らせなかった。そのことも激情に油を注いだらしく、浮気だ何だのと責め立てられた。浮気をしているのはどっちよ、私を殴った後若い女のところへ泊まっているくせに。
結婚前は優しい人だったのに、何が彼を変えたのだろう。初めの頃はまだ様子見されていた。幾年か経って私達の間に子供が出来ずにいると、義両親から責められるようになった。病院に行ったが、体には何の問題もないとのことだった。夫に一緒に行ってくれるように頼んでも、応じてくれたことはなかった。姑からの小言が増えるに連れて、夫の態度も冷たくなっていった。家事は私任せになり、家計にお金を出し渋るようになった。夜遅くの帰宅や外泊が増え、仕事帰りのジャケットからは知らない香水の匂いがした。今ではお皿の重ね方が順番でなかったとか、洗濯物の干し方が気に入らないとか、小さなことで導火線に火が点く。最初は口論だけだった諍いも、段々と手が出るようになっていった。変なところで理性の働く夫は服で隠れる部位を苛み、私の体には青痣が絶えなくなっていた。私がいけないのか、言い方が悪いのかと泣きながら袁紹に相談していた頃が懐かしい。もう枯れ果てて涙すら出なくなっていた。段々と心は弱まっていき、ほんの僅かな抵抗すらままならなくなっていった。ある日とうとう骨折して、仕事に支障が出た。夫は言った、『辞めろよ、お前みたいなお局なんかいなくても会社は回るだろ』。私はその言葉に忠実に従った。死に物狂いで卒業した大学、やっとのことで入社した憧れの会社。順調に築いてきたキャリア。しかし夫に思考を支配されていた状況で、他に取れる選択肢などありはしなかった。そして堪え切れなくなり逃げ込もうとした今日、鬼は背後に追って来た。物を投げつけて暴言を吐き、私の部屋は滅茶苦茶になった。
見回してみると荒れ放題で、床には物が散らばり、窓ガラスには罅が入っていた。ありとあらゆるものが散乱するこの部屋で、ドレッサーだけが無傷で鎮座している。
「何かぶつかったりしなかった?」
「ああ、そのことだが。これを見てくれ」
鏡の向こうで袁紹が手にしているもの。それは。
「ドライヤー・・・」
高いお金を出して買った、スカルプケア機能のついたそれを、何故彼が持っているのか。
「奴が投げたのだ。鏡が割れるかと思ったが、そのまま此方へ飛んできた」
袁紹も何がなんだか分からず混乱しているようだ。
「それ、こっちに戻せる?」
彼が手を伸ばすと、鏡面がゆらりと揺れて、男性の手が中心から生えてきた。ドライヤーが握られている。その手に私の手を重ねる。温かくて、節ばっていて、血液が脈打っている。
「袁紹、生きてる」
「ああ、お前も」
時空を超えた初めての逢瀬だった。鏡越しに会っていた時よりも、ずっと彼を愛おしく感じる。どうして今になってこんな不思議なことが起きるのだろう。分からない。分からないけれど、私は今この時を逃したくなかった。
ドレッサーに足を掛けて、手を全力で引っ張る。驚く男の体が傾いて、肩から顔、腰、そして爪先まで袁紹が鏡の世界から現れた。
「名前!何をしている!勝手なことを」
「袁紹、袁紹だ」
引っ張った勢いで後ろに倒れた体。私は遮二無二抱き着いて、その存在を噛み締めた。
お香の薫り。柔らかな体温。私達、同じ世界に生きている。
「一晩だけ。一晩だけ頂戴。そしたら素直に帰すから」
「名前よ、頼む。返事をせよ」
ゆるり、顔を上げると袁紹が此方に向かって必死に話し掛けていた。
「ごめん。嫌なもの見せたよね」
「お前が気に病む必要はないが・・・」
袁紹が言い淀んで目線を下げる。彼を悲しませたくなくて、喧嘩はリビングで行うようにしていたのだ。部屋には鍵を掛け、夫には入らせなかった。そのことも激情に油を注いだらしく、浮気だ何だのと責め立てられた。浮気をしているのはどっちよ、私を殴った後若い女のところへ泊まっているくせに。
結婚前は優しい人だったのに、何が彼を変えたのだろう。初めの頃はまだ様子見されていた。幾年か経って私達の間に子供が出来ずにいると、義両親から責められるようになった。病院に行ったが、体には何の問題もないとのことだった。夫に一緒に行ってくれるように頼んでも、応じてくれたことはなかった。姑からの小言が増えるに連れて、夫の態度も冷たくなっていった。家事は私任せになり、家計にお金を出し渋るようになった。夜遅くの帰宅や外泊が増え、仕事帰りのジャケットからは知らない香水の匂いがした。今ではお皿の重ね方が順番でなかったとか、洗濯物の干し方が気に入らないとか、小さなことで導火線に火が点く。最初は口論だけだった諍いも、段々と手が出るようになっていった。変なところで理性の働く夫は服で隠れる部位を苛み、私の体には青痣が絶えなくなっていた。私がいけないのか、言い方が悪いのかと泣きながら袁紹に相談していた頃が懐かしい。もう枯れ果てて涙すら出なくなっていた。段々と心は弱まっていき、ほんの僅かな抵抗すらままならなくなっていった。ある日とうとう骨折して、仕事に支障が出た。夫は言った、『辞めろよ、お前みたいなお局なんかいなくても会社は回るだろ』。私はその言葉に忠実に従った。死に物狂いで卒業した大学、やっとのことで入社した憧れの会社。順調に築いてきたキャリア。しかし夫に思考を支配されていた状況で、他に取れる選択肢などありはしなかった。そして堪え切れなくなり逃げ込もうとした今日、鬼は背後に追って来た。物を投げつけて暴言を吐き、私の部屋は滅茶苦茶になった。
見回してみると荒れ放題で、床には物が散らばり、窓ガラスには罅が入っていた。ありとあらゆるものが散乱するこの部屋で、ドレッサーだけが無傷で鎮座している。
「何かぶつかったりしなかった?」
「ああ、そのことだが。これを見てくれ」
鏡の向こうで袁紹が手にしているもの。それは。
「ドライヤー・・・」
高いお金を出して買った、スカルプケア機能のついたそれを、何故彼が持っているのか。
「奴が投げたのだ。鏡が割れるかと思ったが、そのまま此方へ飛んできた」
袁紹も何がなんだか分からず混乱しているようだ。
「それ、こっちに戻せる?」
彼が手を伸ばすと、鏡面がゆらりと揺れて、男性の手が中心から生えてきた。ドライヤーが握られている。その手に私の手を重ねる。温かくて、節ばっていて、血液が脈打っている。
「袁紹、生きてる」
「ああ、お前も」
時空を超えた初めての逢瀬だった。鏡越しに会っていた時よりも、ずっと彼を愛おしく感じる。どうして今になってこんな不思議なことが起きるのだろう。分からない。分からないけれど、私は今この時を逃したくなかった。
ドレッサーに足を掛けて、手を全力で引っ張る。驚く男の体が傾いて、肩から顔、腰、そして爪先まで袁紹が鏡の世界から現れた。
「名前!何をしている!勝手なことを」
「袁紹、袁紹だ」
引っ張った勢いで後ろに倒れた体。私は遮二無二抱き着いて、その存在を噛み締めた。
お香の薫り。柔らかな体温。私達、同じ世界に生きている。
「一晩だけ。一晩だけ頂戴。そしたら素直に帰すから」
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