桃源郷にて早幾年
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夫が邸を空けて1ヶ月が過ぎようとしていた。亭主元気で留守が良いとは言ったものの、名前は信頼できる相手が側にいないという物寂しさを感じていた。
秋の旋風が通り抜ける。呆けていた意識が戻ってきたところで、時刻が過ぎてはいないかと俄に焦った。今日は李典と約束の日だった。忙しい中時間を割いてくれているというのに遅れることはできない。
部屋を出て息子に声をかけるともう既に荷の準備はできているようだった。抱き締めて頭を撫でると照れ臭そうにする。張遼に似て鋭い目をした我が子は、父が不在のときは家に唯一の男として、また兄として成長する日々を送っていた。
息子を急き立てつつ、専用の寝台から赤子を抱き上げて輪にした帯で身に抱く。眠っていたところを起こされて不機嫌になった娘が柔い反抗の声を上げた。
「おお、来たな」
「今日もよろしくお願いします」
「おねがいいたします!」
名前に息子が続いて大きな声が庭に響く。李典が笑った。
張遼が不在のときは李典が稽古をつけてくれている。まだいたく幼い息子にもう武芸の稽古が必要なのかどうか名前は不安に思う部分もあったが、技術よりも心得を身に着けて欲しいとの事だった。迷う心もありつつ、誰よりもその道に詳しい張遼に判断を一任していた。
国内で起こる小さな反乱や異国からの侵略など、張遼の武が必要な機会は未だに多い。男手が無くてはと困る夫婦に李典が指南役を買って出てくれたところだった。名前は魏に仕えて培った友情が、三国統一の後も続いていることが嬉しかった。
息子が稽古を受けている間、娘を脇に置いて名前は繕い物をする。その間李典の妻と四方山話をするのが日課のようになっていた。
「遼来来!」
外で怒鳴り声が響いた。李典の隣の家の夫婦は、李典と張遼の因縁を知ってか知らずか、よくこの言葉を掲げて子供を叱っていた。李典の妻が目線を下げて言う。
「ごめんなさい。気にしないでね」
「ええ勿論。子供にすら知られているなんて、むしろ名誉なことです」
人のいる手前謙遜してみせたが、この言葉は張家にとって今や禁忌ではなかった。
実は息子が第一次反抗期に差しかかってあまりに言うことを聞かなかったとき、投げやりになった名前も使ったことがある。『お父さんに言いつけるわよ!』と脅すつもりで放ったのだが、返ってきたのは息子の輝かんばかりの笑顔だった。
その息子が大きくなってからは、今や耳にたこができるほど聞き慣れたものになっている。
父の戦物語を聞きたがる息子が張遼に本人の役を演じさせ、自分が敵兵の役を担うときに使われていた。鬼気迫る演技をする張遼に、『遼来来!逃げろ!』と叫んで息子が走り回る。捕まると弱点の脇を擽られるため、息子は断末魔を模して高らかに笑い声を上げる。そしてそれを見ている娘も訳も分からずまた笑うのだった。
張遼が家を空けるときには息子が一人二役でこの言葉を叫びながら槍を振り回して物真似をするので、娘にとっては『いないいないばあ』の代わり、鉄板のあやし文句になっていた。
「あら、この子、笑っているわ」
暖かな木漏れ日を受けて娘がふやけている。
嗚呼、駄目よ。外ではもっと澄ました顔をしなくちゃ。
秋の旋風が通り抜ける。呆けていた意識が戻ってきたところで、時刻が過ぎてはいないかと俄に焦った。今日は李典と約束の日だった。忙しい中時間を割いてくれているというのに遅れることはできない。
部屋を出て息子に声をかけるともう既に荷の準備はできているようだった。抱き締めて頭を撫でると照れ臭そうにする。張遼に似て鋭い目をした我が子は、父が不在のときは家に唯一の男として、また兄として成長する日々を送っていた。
息子を急き立てつつ、専用の寝台から赤子を抱き上げて輪にした帯で身に抱く。眠っていたところを起こされて不機嫌になった娘が柔い反抗の声を上げた。
「おお、来たな」
「今日もよろしくお願いします」
「おねがいいたします!」
名前に息子が続いて大きな声が庭に響く。李典が笑った。
張遼が不在のときは李典が稽古をつけてくれている。まだいたく幼い息子にもう武芸の稽古が必要なのかどうか名前は不安に思う部分もあったが、技術よりも心得を身に着けて欲しいとの事だった。迷う心もありつつ、誰よりもその道に詳しい張遼に判断を一任していた。
国内で起こる小さな反乱や異国からの侵略など、張遼の武が必要な機会は未だに多い。男手が無くてはと困る夫婦に李典が指南役を買って出てくれたところだった。名前は魏に仕えて培った友情が、三国統一の後も続いていることが嬉しかった。
息子が稽古を受けている間、娘を脇に置いて名前は繕い物をする。その間李典の妻と四方山話をするのが日課のようになっていた。
「遼来来!」
外で怒鳴り声が響いた。李典の隣の家の夫婦は、李典と張遼の因縁を知ってか知らずか、よくこの言葉を掲げて子供を叱っていた。李典の妻が目線を下げて言う。
「ごめんなさい。気にしないでね」
「ええ勿論。子供にすら知られているなんて、むしろ名誉なことです」
人のいる手前謙遜してみせたが、この言葉は張家にとって今や禁忌ではなかった。
実は息子が第一次反抗期に差しかかってあまりに言うことを聞かなかったとき、投げやりになった名前も使ったことがある。『お父さんに言いつけるわよ!』と脅すつもりで放ったのだが、返ってきたのは息子の輝かんばかりの笑顔だった。
その息子が大きくなってからは、今や耳にたこができるほど聞き慣れたものになっている。
父の戦物語を聞きたがる息子が張遼に本人の役を演じさせ、自分が敵兵の役を担うときに使われていた。鬼気迫る演技をする張遼に、『遼来来!逃げろ!』と叫んで息子が走り回る。捕まると弱点の脇を擽られるため、息子は断末魔を模して高らかに笑い声を上げる。そしてそれを見ている娘も訳も分からずまた笑うのだった。
張遼が家を空けるときには息子が一人二役でこの言葉を叫びながら槍を振り回して物真似をするので、娘にとっては『いないいないばあ』の代わり、鉄板のあやし文句になっていた。
「あら、この子、笑っているわ」
暖かな木漏れ日を受けて娘がふやけている。
嗚呼、駄目よ。外ではもっと澄ました顔をしなくちゃ。
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