硝子の靴は割りました
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
恨みのあるものを私刑に処すも諸葛亮からもお目溢しを頂戴したという噂は知っていて、名前は法正のことを差別はせずとも遠巻きに接していた。ただ未来から来た女というのはそれだけで興味を惹くもので、劉備の謁見後の扉の裏、届け物をする途中の廊下、はたまた休みの城下町でなど、あらゆる場所に霧や霞の如く法正は現れた。自分の知識を吸収して己の権力闘争に役立てようとしているものと理解し、名前は過度に意識はしなかった。蜀の利になる自分に手を下すことはないだろうと思った故の判断である。
意外だったのは名前の意見を含んだ提案を行うとき、その場にいなくとも法正は必ず名前の名も仕込んでいたことである。どのように報告したのかは知らないが、そのことで劉備や諸葛亮から名前は度々礼賛を浴びることとなった。法正はただ一人己が利益のために動く人間だと思っていたので、遠回しにその認識の誤りを謝罪したことがあった。
「なに、あなたの名誉を横取りはしませんよ。そのように誤解されることは多いですがね」
過去の英傑達よりも柔軟な思考をしていると自負していた名前は申し訳無さに歯噛みした。法正は確かに恐れられてはいるが、周囲の流布によって本人を見ていなかったのは自分だったと思い知らされたのである。
その時から法正と親しくなることに抵抗が無くなった。皮肉を含んだ口調もニヒルな笑みもただの人間の一部と思えるようになったのである。
始めは花だった。
「遠方に視察に行ったんだが、そこで咲いていたものでね」
渡されたものは、10本ほど束になっていた。名前は蜀の軍師や諸将の中継ぎのような役割を担い、各執務室の丁度中間付近に部屋を与えられていた。部署間を行き交う竹簡の積まれた部屋は確かに色気を微塵も含んでいるものではなかったが、仕事に対してそのようなものが必要なのかは判断がついていなかった。女の身であるが故に副官や女官達と気軽に話をする機会も多く、耳にする愚痴や噂話から情報を得て業務に活かすこともしばしばであったから、なるほど人が訪れやすくなるように華を添えてもいいかと考え直した。
前時代的な『女性らしさ』の押し付けであると感じ、現代日本であったなら確実に内心嬉しからぬ思いを抱いていた名前だが、今は益があるだろうと女官から花瓶を得て飾った。次に法正が部屋を訪れたとき花を見てにやりと笑みを含んだので、素直に礼を述べた。
「お陰様で部屋に来る人との話もより弾むようになりました」
蜀への貢献も深まったと暗に言うと、法正が顔を顰めた。
「そういうつもりじゃなかったんですがね」
よく分からないでいると、また来ますと言って法正はそのまま部屋を出ていった。
次は菓子だった。
法正から提案されて市場へ向かった時だった。どうやって見つけたのか、あまり目立たない街角に小さな菓子店があった。
「お好きかと思いましてね」
花の形をした月餅のようなものが並び、甘いものと言えば果実や蜜煮の多い蜀での生活の中ではなるほど『映え』なものであると言えた。女性はいつの世も可愛らしいものが好きである。仲のいい女官達に渡すつもりで籠に多めに入れていると法正が呆れた顔を作った。
「一体幾つ買うんですか。そんなに日持ちはしませんよ」
「お世話になっている皆さんにお土産にしたくて」
片手で頭を抱えるので名前は首を傾げた。
少ない給金の中から出そうとすると法正に財布を制された。買った中から二つを取り出して店先で一緒に食べると、中からほろりと白餡が出てきて、優しい甘みが口に染みて美味しかった。
「素敵なお店を紹介して下さってありがとうございます。友人とまた通います」
「それは困りましたね」
饅頭の欠片を持つ名前の手を握って法正は妖艶な目つきで言った。
「ここは私とあなただけの秘密の場所にするつもりなんでね」
今まで一体何人の女と秘密の場所を作ってきたのだろう、法正の後ろに浮かぶ雲の形を見つめながら名前は考えた。
最後は簪にまで至った。
渡された箱を開け、繊細な彫刻が施された銀細工の上に朱色の珠がついたそれを目にしたとき、名前はすぐに蓋を閉めて突き返した。
「気に入りませんか」
「いいえ。でも頂く理由がありません」
「先の戦であなたが提案した策で俺の命は助かりました、そのお礼ではいけませんかね」
「蜀の勝利のためにしたことです、あなた個人からの返礼は必要ありません」
報復報恩と言いながら法正は名前に対して報恩を強制したことがなかった。それが逆に不思議だった。自分は些細なことも憶えていてその礼だと尽くすのに、名前からの礼は求めない。むしろ、礼に礼を返すたびに法正からの礼が更に積み上がっていくばかりだった。
何が目的なんだと思った。もう既に名前は蜀のために無い知恵を振り絞って尽くしている。
「何はともあれ着けてみて下さいよ。あなたのために選んだんですから」
身を固くする名前の手からするりと簪を抜き取り、法正は適当にひっつめ髪にした後ろ髪に差し込んだ。節ばった手が耳に微かに触れたとき、名前はこの時代に来てからファンデーションも塗っていない肌にしみが出来始めていることを思い出していた。
「ああ、あなたの髪色にはやはり朱が似合うと思いました」
満足そうに口角を上げる法正から逃げるようにかたく目を閉じた。
乱れた髪を耳の上にかけられる。温い息が頬に触れた。そのまま顔を傾けて口付けようとするので、慌てて下を向いて阻止した。そのまま法正のはだけた胸を両腕でぐっと押して身を翻し、机に散らばった竹簡を急いで掻き集める。
「仕事が溜まっておりますので」
状況に合わない無茶苦茶な言い訳をして、持てる全速力で執務室を出ると、名前を掴みかけた法正の腕が空を切る。狼狽した表情であったがそれを見ずに扉の外へ飛び出した。
掌握したと、受け入れて当然と思われたなら屈辱だった。名前には受け流すだけの経験がなかった。気恥ずかしさと焦りで廊下を蹴って俄に走り出していた。
意外だったのは名前の意見を含んだ提案を行うとき、その場にいなくとも法正は必ず名前の名も仕込んでいたことである。どのように報告したのかは知らないが、そのことで劉備や諸葛亮から名前は度々礼賛を浴びることとなった。法正はただ一人己が利益のために動く人間だと思っていたので、遠回しにその認識の誤りを謝罪したことがあった。
「なに、あなたの名誉を横取りはしませんよ。そのように誤解されることは多いですがね」
過去の英傑達よりも柔軟な思考をしていると自負していた名前は申し訳無さに歯噛みした。法正は確かに恐れられてはいるが、周囲の流布によって本人を見ていなかったのは自分だったと思い知らされたのである。
その時から法正と親しくなることに抵抗が無くなった。皮肉を含んだ口調もニヒルな笑みもただの人間の一部と思えるようになったのである。
始めは花だった。
「遠方に視察に行ったんだが、そこで咲いていたものでね」
渡されたものは、10本ほど束になっていた。名前は蜀の軍師や諸将の中継ぎのような役割を担い、各執務室の丁度中間付近に部屋を与えられていた。部署間を行き交う竹簡の積まれた部屋は確かに色気を微塵も含んでいるものではなかったが、仕事に対してそのようなものが必要なのかは判断がついていなかった。女の身であるが故に副官や女官達と気軽に話をする機会も多く、耳にする愚痴や噂話から情報を得て業務に活かすこともしばしばであったから、なるほど人が訪れやすくなるように華を添えてもいいかと考え直した。
前時代的な『女性らしさ』の押し付けであると感じ、現代日本であったなら確実に内心嬉しからぬ思いを抱いていた名前だが、今は益があるだろうと女官から花瓶を得て飾った。次に法正が部屋を訪れたとき花を見てにやりと笑みを含んだので、素直に礼を述べた。
「お陰様で部屋に来る人との話もより弾むようになりました」
蜀への貢献も深まったと暗に言うと、法正が顔を顰めた。
「そういうつもりじゃなかったんですがね」
よく分からないでいると、また来ますと言って法正はそのまま部屋を出ていった。
次は菓子だった。
法正から提案されて市場へ向かった時だった。どうやって見つけたのか、あまり目立たない街角に小さな菓子店があった。
「お好きかと思いましてね」
花の形をした月餅のようなものが並び、甘いものと言えば果実や蜜煮の多い蜀での生活の中ではなるほど『映え』なものであると言えた。女性はいつの世も可愛らしいものが好きである。仲のいい女官達に渡すつもりで籠に多めに入れていると法正が呆れた顔を作った。
「一体幾つ買うんですか。そんなに日持ちはしませんよ」
「お世話になっている皆さんにお土産にしたくて」
片手で頭を抱えるので名前は首を傾げた。
少ない給金の中から出そうとすると法正に財布を制された。買った中から二つを取り出して店先で一緒に食べると、中からほろりと白餡が出てきて、優しい甘みが口に染みて美味しかった。
「素敵なお店を紹介して下さってありがとうございます。友人とまた通います」
「それは困りましたね」
饅頭の欠片を持つ名前の手を握って法正は妖艶な目つきで言った。
「ここは私とあなただけの秘密の場所にするつもりなんでね」
今まで一体何人の女と秘密の場所を作ってきたのだろう、法正の後ろに浮かぶ雲の形を見つめながら名前は考えた。
最後は簪にまで至った。
渡された箱を開け、繊細な彫刻が施された銀細工の上に朱色の珠がついたそれを目にしたとき、名前はすぐに蓋を閉めて突き返した。
「気に入りませんか」
「いいえ。でも頂く理由がありません」
「先の戦であなたが提案した策で俺の命は助かりました、そのお礼ではいけませんかね」
「蜀の勝利のためにしたことです、あなた個人からの返礼は必要ありません」
報復報恩と言いながら法正は名前に対して報恩を強制したことがなかった。それが逆に不思議だった。自分は些細なことも憶えていてその礼だと尽くすのに、名前からの礼は求めない。むしろ、礼に礼を返すたびに法正からの礼が更に積み上がっていくばかりだった。
何が目的なんだと思った。もう既に名前は蜀のために無い知恵を振り絞って尽くしている。
「何はともあれ着けてみて下さいよ。あなたのために選んだんですから」
身を固くする名前の手からするりと簪を抜き取り、法正は適当にひっつめ髪にした後ろ髪に差し込んだ。節ばった手が耳に微かに触れたとき、名前はこの時代に来てからファンデーションも塗っていない肌にしみが出来始めていることを思い出していた。
「ああ、あなたの髪色にはやはり朱が似合うと思いました」
満足そうに口角を上げる法正から逃げるようにかたく目を閉じた。
乱れた髪を耳の上にかけられる。温い息が頬に触れた。そのまま顔を傾けて口付けようとするので、慌てて下を向いて阻止した。そのまま法正のはだけた胸を両腕でぐっと押して身を翻し、机に散らばった竹簡を急いで掻き集める。
「仕事が溜まっておりますので」
状況に合わない無茶苦茶な言い訳をして、持てる全速力で執務室を出ると、名前を掴みかけた法正の腕が空を切る。狼狽した表情であったがそれを見ずに扉の外へ飛び出した。
掌握したと、受け入れて当然と思われたなら屈辱だった。名前には受け流すだけの経験がなかった。気恥ずかしさと焦りで廊下を蹴って俄に走り出していた。
1/5ページ