散る花咲く花
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「お主を于禁に下賜することにした」
突然の宣告に耳を疑った。長年雨嵐に晒された彫像のように体が固まって、ひびが入りそうだった。常時返答の素早い名前にさしもの曹操も片眉を吊り上げたが、返答に思考を割く余裕はなかった。
魏が三国を統一し、戦後処理に追われつつも諸将と共に城にほうぼうの体で戻ってきたのがまだ数日前の話である。各将が上から順に玉座の間へ赴き、ついに名前も恩賞褒賞の内儀であると呼び出され、もしや褒美があるのやらと浮足立って向かった心にこの仕打ち。横っ面を張り倒されたような衝撃の中、いつ言葉を翻すかと待つも曹操は君主らしく口の端を薄く上げて傲慢に笑っていた。
「ご冗談では」
「世がつまらぬ戯れを申すと思うか」
ようやく捻り出した言葉を両断されて、解除する前に凍結した拱手がぶるぶると震え出した。意識が遠退いて身体から離れていく現実逃避の最中にも、頭では歯車が高速に回転し、何と言えば撤回の情けを受けられるのか必死に計算していた。
「殿にお世話になると決めたとき、私の身分を保証すると約束して下さいました。あのお言葉は嘘だったのですか」
「安全は保証すると言ったが身の振りようまで定めた覚えはない」
「家臣との約束を守ろうという矜持はないのですか」
「政も知らぬ女子の身で君主の心得を語るでない」
「天下を統一して私の知識が不要になったからお払い箱にしようと言うわけですか」
「お主の職務を奪うとは言っていない。今後は城を離れて邸から出仕せよ」
「于禁様が哀れだとはお思いにならないのですか!」
床に膝を投げ打って叫んだ。
曹操は名前にとってほぼこの世の神であった。気分次第で生かされ、歴戦の軍師達と肩を並べて戦に出され、時に将と野を馬で駆け回り、泥で汚れ、汗に塗れ、時に血で染まろうとただこの身ひとつで生き残ってやるという心一つでここまで来たというのに。成し遂げたあとは不要と残飯処理の如く臣下に投げ捨てるとは。
我が身の可愛さの後に名前の脳裏に閃いたのは于禁のその背だった。滅私奉公の言葉の如く曹操に仕え、兵達には誤解され恐れられながらも全体の益を常に考慮し、流れ者の女を押し付けられても世話をしてくれた大恩ある人。お前が拾ったのだからと野良猫のように投げ与えられた名前のことを見捨てず指導してくれたかの人を思い返す。
彼ほど一途に奉公してきたものを、領地でも金銀財宝でも傾国の美姫でもなく、ただ未来から来たというだけで何の変哲もない女を押し付けてしたり顔で済まそうとは、君主の素質云々を語る知識はないものの、とても人の所業とは思えなかった。
「幾年の厚き忠義を以てこんな女で済ませようというのですか、吝嗇にも程があるというものです」
「名前よ、控えよ」
過ぎた罵詈雑言に看過できなかったのであろう曹操が手に持つ扇子で名前の顎を引いた。
「世はこの裁定を決して覆しはせぬ」
我慢しきれず曹操の顔がぐにゃりと上下に歪んで散っていった。いつ曹操の気分が変わって捨てられるやも、知識が誤っていて作戦が失敗し首が飛ぶやも、あらゆる恐れの中で最も心苦しいものが起こってしまった。一人孤独を感じながら生きてきたのに、まさか人を巻き込んで不幸になるなんて。
『感謝する。お前の助けにより我が悲願は成った』
荊州を併合した後名前の待つ天幕に戻った于禁は柔らかな笑みをたたえながら言った。長年の苦労が報われたかの人はその時さぞや満ち足りた気持ちだっただろう。そのことが名前にとってもどれほど嬉しく感じたことか。
濡れる頬の冷たさと心の温度が比例して相まって一つになっていくようだった。叫んで泣いてやろうかと思ったが、人の感情の荒波に慣れている曹操は飲まれることなく「理解できたなら退出せよ」と椅子に手をつく上に顎を乗せたまま言った。
クソ。男尊女卑で権力主義のボンボンめ。内心毒づこうとも現実は変えられない。面倒そうな曹操に後生だからこの決定を伝えるのだけは自分でさせてくれと願った。
「良かろう。だが、長くは待たんぞ」
「ありがとうございます」
不遜な曹操に退出の礼をしつつ、処刑方法を自ら選ばされて礼を言うとは変な話だと名前はまだ現実を認められないでいた。
執務室に帰ると、竹簡に書き付けをしている于禁が顔を上げ出迎えた。些細な変化ではあるが、名前を認めた途端に動揺した顔つきになってため息をつく。所詮隠せないと思って頬を袖で乱雑に拭いた以外の誤魔化しはしていなかった。
「何でもありません」
問われる前に子供のような八つ当たりの言葉で遮断した。于禁は拒絶された上に縋るたちではない、それを分かってのことだった。椅子を引いて自分の机に向かい、もう話すことはないとばかりに執務の続きを始める。いや、始めようとしたが、荒波を抱えたままの内心で仕事など手につくはずもない。それ以上に、于禁の視線がまだ自分に向かったままなのを横目に感じて冷や汗をかいた。
「不都合があれば聞かせよ。私が曹操様に取り成そう」
止まったはずの涙が目の奥から再び溢れ出しそうになって奥歯を噛んだ。恩を仇で返す女に、今の私に優しさなどいらないのだ。日頃曹操の奔放さに振り回される名前とその疲弊ぶりを知ってのことであろうが、心底敬愛する上司にすら進言しようという姿勢が切なかった。神聖で穢れのない泉に広がる泥のように罪悪感が広がっていく。はい、と答えるだけで、礼を付すことができなかった。目の前で泣いて困らせないということだけが今の精一杯で、今後の話などできようはずもなかった。
突然の宣告に耳を疑った。長年雨嵐に晒された彫像のように体が固まって、ひびが入りそうだった。常時返答の素早い名前にさしもの曹操も片眉を吊り上げたが、返答に思考を割く余裕はなかった。
魏が三国を統一し、戦後処理に追われつつも諸将と共に城にほうぼうの体で戻ってきたのがまだ数日前の話である。各将が上から順に玉座の間へ赴き、ついに名前も恩賞褒賞の内儀であると呼び出され、もしや褒美があるのやらと浮足立って向かった心にこの仕打ち。横っ面を張り倒されたような衝撃の中、いつ言葉を翻すかと待つも曹操は君主らしく口の端を薄く上げて傲慢に笑っていた。
「ご冗談では」
「世がつまらぬ戯れを申すと思うか」
ようやく捻り出した言葉を両断されて、解除する前に凍結した拱手がぶるぶると震え出した。意識が遠退いて身体から離れていく現実逃避の最中にも、頭では歯車が高速に回転し、何と言えば撤回の情けを受けられるのか必死に計算していた。
「殿にお世話になると決めたとき、私の身分を保証すると約束して下さいました。あのお言葉は嘘だったのですか」
「安全は保証すると言ったが身の振りようまで定めた覚えはない」
「家臣との約束を守ろうという矜持はないのですか」
「政も知らぬ女子の身で君主の心得を語るでない」
「天下を統一して私の知識が不要になったからお払い箱にしようと言うわけですか」
「お主の職務を奪うとは言っていない。今後は城を離れて邸から出仕せよ」
「于禁様が哀れだとはお思いにならないのですか!」
床に膝を投げ打って叫んだ。
曹操は名前にとってほぼこの世の神であった。気分次第で生かされ、歴戦の軍師達と肩を並べて戦に出され、時に将と野を馬で駆け回り、泥で汚れ、汗に塗れ、時に血で染まろうとただこの身ひとつで生き残ってやるという心一つでここまで来たというのに。成し遂げたあとは不要と残飯処理の如く臣下に投げ捨てるとは。
我が身の可愛さの後に名前の脳裏に閃いたのは于禁のその背だった。滅私奉公の言葉の如く曹操に仕え、兵達には誤解され恐れられながらも全体の益を常に考慮し、流れ者の女を押し付けられても世話をしてくれた大恩ある人。お前が拾ったのだからと野良猫のように投げ与えられた名前のことを見捨てず指導してくれたかの人を思い返す。
彼ほど一途に奉公してきたものを、領地でも金銀財宝でも傾国の美姫でもなく、ただ未来から来たというだけで何の変哲もない女を押し付けてしたり顔で済まそうとは、君主の素質云々を語る知識はないものの、とても人の所業とは思えなかった。
「幾年の厚き忠義を以てこんな女で済ませようというのですか、吝嗇にも程があるというものです」
「名前よ、控えよ」
過ぎた罵詈雑言に看過できなかったのであろう曹操が手に持つ扇子で名前の顎を引いた。
「世はこの裁定を決して覆しはせぬ」
我慢しきれず曹操の顔がぐにゃりと上下に歪んで散っていった。いつ曹操の気分が変わって捨てられるやも、知識が誤っていて作戦が失敗し首が飛ぶやも、あらゆる恐れの中で最も心苦しいものが起こってしまった。一人孤独を感じながら生きてきたのに、まさか人を巻き込んで不幸になるなんて。
『感謝する。お前の助けにより我が悲願は成った』
荊州を併合した後名前の待つ天幕に戻った于禁は柔らかな笑みをたたえながら言った。長年の苦労が報われたかの人はその時さぞや満ち足りた気持ちだっただろう。そのことが名前にとってもどれほど嬉しく感じたことか。
濡れる頬の冷たさと心の温度が比例して相まって一つになっていくようだった。叫んで泣いてやろうかと思ったが、人の感情の荒波に慣れている曹操は飲まれることなく「理解できたなら退出せよ」と椅子に手をつく上に顎を乗せたまま言った。
クソ。男尊女卑で権力主義のボンボンめ。内心毒づこうとも現実は変えられない。面倒そうな曹操に後生だからこの決定を伝えるのだけは自分でさせてくれと願った。
「良かろう。だが、長くは待たんぞ」
「ありがとうございます」
不遜な曹操に退出の礼をしつつ、処刑方法を自ら選ばされて礼を言うとは変な話だと名前はまだ現実を認められないでいた。
執務室に帰ると、竹簡に書き付けをしている于禁が顔を上げ出迎えた。些細な変化ではあるが、名前を認めた途端に動揺した顔つきになってため息をつく。所詮隠せないと思って頬を袖で乱雑に拭いた以外の誤魔化しはしていなかった。
「何でもありません」
問われる前に子供のような八つ当たりの言葉で遮断した。于禁は拒絶された上に縋るたちではない、それを分かってのことだった。椅子を引いて自分の机に向かい、もう話すことはないとばかりに執務の続きを始める。いや、始めようとしたが、荒波を抱えたままの内心で仕事など手につくはずもない。それ以上に、于禁の視線がまだ自分に向かったままなのを横目に感じて冷や汗をかいた。
「不都合があれば聞かせよ。私が曹操様に取り成そう」
止まったはずの涙が目の奥から再び溢れ出しそうになって奥歯を噛んだ。恩を仇で返す女に、今の私に優しさなどいらないのだ。日頃曹操の奔放さに振り回される名前とその疲弊ぶりを知ってのことであろうが、心底敬愛する上司にすら進言しようという姿勢が切なかった。神聖で穢れのない泉に広がる泥のように罪悪感が広がっていく。はい、と答えるだけで、礼を付すことができなかった。目の前で泣いて困らせないということだけが今の精一杯で、今後の話などできようはずもなかった。
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