孟秋
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路地裏で、女が泣いていた。煤けた衣類に前掛けをして、働きに出ていることが分かる。幾ばくか腹が大きく、胎動が始まる頃合いだった。頬には幾筋も涙が光り、時が経つのを忘れるほど座り込んでいた。夕刻に差し掛かる頃、何処からか風に乗って高貴な薫りが漂い、女の背後に影が差し掛かった。
「失礼、其処のお嬢さん」
声が掛かり、女は振り向いた。其処にはすらりと高い細身の、優雅な顔立ちをした男がいた。艶のある絹の衣に身を包み、切れ長の涼し気な目元を和らげ、薄い唇にはささやかな笑みが湛えられている。
「あの、私・・・」
女が口を開きかけると、男は人差し指を立てて顔の前に持っていき、しい、と口から吐息を漏らした。そのまま腰の衣嚢に手を遣り、中から何かを取り出す。濃紺に白い糸で花の刺繍がされた手巾だった。膝を折り、豪華な衣を地面に着けて、男は女と向き合う。美しい模様を呆然と眺めていると、男はそれを差し出して微笑んだ。
「清らかな貴方に涙は似合いません」
女は何も言わなかった。言えなかったのだ。もう二、三日まともな食事を取っていない。最後にきちんと身体を洗ったのもいつのことだったか、手も足も煤けて薄く泥を纏っている。服だって人から恵んでもらったもので、袖が解れている。お腹は張って、心配ではあるものの医者にはかかれない。生まれてくる我が子も満足に面倒を見てやれるかどうかも分からない。見窄らしいという言葉そのままの己の前に、輝く衣と薫りに身を包んだ麗人が現れ、見るからに高級な手巾を涙の受け皿として捧げている。もしや自分はまさに天に召される佳境にあるのではと疑った。目の前の男は神が遣わした天使なのではないか。やがて男が遠慮がちに女の頬に絹布を滑らせようとしたとき、やっと声を発することができた。
「どうかお止め下さい」
「何故でしょう?」
「汚れてしまいます」
手巾を汚したくなかったのか、男を汚すことを恐れたのか。分からないままに拒絶していた。男は困ったように笑い、流れるような仕草で女の手を握った。俄に自分の荒れた手が恥ずかしくなり振り払おうとしたが、できなかった。男の顔は神の被造物の如き麗しさだが、掌は硬く鍛錬の名残がある。自分と同じ、苦労の現れた手だと感じたからだ。
「身重でありながら、働いているのですね。家を、子を守るために。泥を被っても、憂き目に遭っても、守るべきものの為に精一杯尽くしている。そんな尊い方が汚れているはずがありません」
男の眼には女を誘惑する色は無く、ただ篤実にその身を案じていることが見て取れた。
「貴方は綺麗です」
肩を戦慄かせ手は震え、決壊した心と共にわっと再度泣き出した。落ち着いて話ができるようになるまで男は女の肩を抱き、ただその涙を拭い続けた。
「失礼、其処のお嬢さん」
声が掛かり、女は振り向いた。其処にはすらりと高い細身の、優雅な顔立ちをした男がいた。艶のある絹の衣に身を包み、切れ長の涼し気な目元を和らげ、薄い唇にはささやかな笑みが湛えられている。
「あの、私・・・」
女が口を開きかけると、男は人差し指を立てて顔の前に持っていき、しい、と口から吐息を漏らした。そのまま腰の衣嚢に手を遣り、中から何かを取り出す。濃紺に白い糸で花の刺繍がされた手巾だった。膝を折り、豪華な衣を地面に着けて、男は女と向き合う。美しい模様を呆然と眺めていると、男はそれを差し出して微笑んだ。
「清らかな貴方に涙は似合いません」
女は何も言わなかった。言えなかったのだ。もう二、三日まともな食事を取っていない。最後にきちんと身体を洗ったのもいつのことだったか、手も足も煤けて薄く泥を纏っている。服だって人から恵んでもらったもので、袖が解れている。お腹は張って、心配ではあるものの医者にはかかれない。生まれてくる我が子も満足に面倒を見てやれるかどうかも分からない。見窄らしいという言葉そのままの己の前に、輝く衣と薫りに身を包んだ麗人が現れ、見るからに高級な手巾を涙の受け皿として捧げている。もしや自分はまさに天に召される佳境にあるのではと疑った。目の前の男は神が遣わした天使なのではないか。やがて男が遠慮がちに女の頬に絹布を滑らせようとしたとき、やっと声を発することができた。
「どうかお止め下さい」
「何故でしょう?」
「汚れてしまいます」
手巾を汚したくなかったのか、男を汚すことを恐れたのか。分からないままに拒絶していた。男は困ったように笑い、流れるような仕草で女の手を握った。俄に自分の荒れた手が恥ずかしくなり振り払おうとしたが、できなかった。男の顔は神の被造物の如き麗しさだが、掌は硬く鍛錬の名残がある。自分と同じ、苦労の現れた手だと感じたからだ。
「身重でありながら、働いているのですね。家を、子を守るために。泥を被っても、憂き目に遭っても、守るべきものの為に精一杯尽くしている。そんな尊い方が汚れているはずがありません」
男の眼には女を誘惑する色は無く、ただ篤実にその身を案じていることが見て取れた。
「貴方は綺麗です」
肩を戦慄かせ手は震え、決壊した心と共にわっと再度泣き出した。落ち着いて話ができるようになるまで男は女の肩を抱き、ただその涙を拭い続けた。
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