孟夏
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夜明け前に目が覚める。それが習慣になっていた。
燭台に火を入れると、柔らかな光が地面を這う。薄闇。鏡を見る。青みがかった金属の中に、女がいる。朝の顔だ。小心者で、才もまだ磨かれぬまま、この世界に根を下ろす軸すらない。何者でもない顔。水で顔を洗い、布で拭う。
香炉に火を移し、伏籠を衣で覆う。芳香が煙と化して染み込んでいく間、簡易的な運動着に着替えて外へ出る。
夜気が肌を刺す。孤独な空の下に出て、黙々と体を動かす。腕立て、素振り、走り込み。暗闇の中で吐息だけが天へ登っていく。息が上がる頃には空が白み始めて、鶏が一声鳴いた。汗を拭い、部屋に戻る。
今度は書物を広げる。まずは兵法書。俯瞰図を頭に叩き込む。兵士の動きと人間の心理を推し量りながら理解し、応用できるか検討する。
次に詩経を開く。軍議の場で、宴の席で、詩の一節を引けるかどうかが人品を示す物差しになる。声に出して読み、繰り返し書き写す。筆を走らせると、少しずつ手が文字を覚えていく。
最後に耳に入れた城内の動向を整理する。誰がどこの部署に異動したか、どの将が誰と近しいか。城内の人間関係の地図は絶えず塗り替えられていく。未来の知識と現在の事実を重ねながら、ずれを確かめる。
頭が熱を帯びてくる頃、筆を置いた。
机の上の燭台を消す頃には、眩い朝の光が斜めに差し込んでいる。
胸に晒しを巻く。何巡か回る布地が女の起伏を消し、男の胸板へと造り変えていく。
香を含ませた衣を手に取り、袖を通す。
鏡台の前に座る。白粉を手の甲に取り、顔全体に薄く延ばす。女が使うより色味の暗いものを、心持ち厚く。肌の凹凸を均して顔の輪郭を平らにし、頬の丸みを消す。次に黛を筆に取る。女の眉はたおやかな弧を描くが、今回は違う。眉頭から眉尻まで一息に引く。太く、迷い無く。この一画で顔の印象が変わる。紅は使わない。唇の艶を抑えるように、白粉をごく薄く重ねる。
次に髪を整える。長い黒髪を櫛で梳き、高い位置でまとめて髷を作る。簪で留め、乱れがないか確かめる。最後に冠を被せ、顎紐を締める。
二三、声を出して喉を慣らす。本来の声は初めての出仕以降一度も、誰にも聞かせていない。
鏡を見る。凛とした顔の男が其処にいる。意志を持った顔つきと、一本通った芯を感じさせる背筋、隙の無い佇まい。暫し見つめ合うと、巷で呼ばれる名前という名の男と、故郷で安穏と暮らしてきた女の輪郭がぼやけていくような感覚を覚えた。
昨日認めておいた書簡を手に取り、扉を開ける。晒し一枚、仮面一つを隔てた名前の一日が始まった。
燭台に火を入れると、柔らかな光が地面を這う。薄闇。鏡を見る。青みがかった金属の中に、女がいる。朝の顔だ。小心者で、才もまだ磨かれぬまま、この世界に根を下ろす軸すらない。何者でもない顔。水で顔を洗い、布で拭う。
香炉に火を移し、伏籠を衣で覆う。芳香が煙と化して染み込んでいく間、簡易的な運動着に着替えて外へ出る。
夜気が肌を刺す。孤独な空の下に出て、黙々と体を動かす。腕立て、素振り、走り込み。暗闇の中で吐息だけが天へ登っていく。息が上がる頃には空が白み始めて、鶏が一声鳴いた。汗を拭い、部屋に戻る。
今度は書物を広げる。まずは兵法書。俯瞰図を頭に叩き込む。兵士の動きと人間の心理を推し量りながら理解し、応用できるか検討する。
次に詩経を開く。軍議の場で、宴の席で、詩の一節を引けるかどうかが人品を示す物差しになる。声に出して読み、繰り返し書き写す。筆を走らせると、少しずつ手が文字を覚えていく。
最後に耳に入れた城内の動向を整理する。誰がどこの部署に異動したか、どの将が誰と近しいか。城内の人間関係の地図は絶えず塗り替えられていく。未来の知識と現在の事実を重ねながら、ずれを確かめる。
頭が熱を帯びてくる頃、筆を置いた。
机の上の燭台を消す頃には、眩い朝の光が斜めに差し込んでいる。
胸に晒しを巻く。何巡か回る布地が女の起伏を消し、男の胸板へと造り変えていく。
香を含ませた衣を手に取り、袖を通す。
鏡台の前に座る。白粉を手の甲に取り、顔全体に薄く延ばす。女が使うより色味の暗いものを、心持ち厚く。肌の凹凸を均して顔の輪郭を平らにし、頬の丸みを消す。次に黛を筆に取る。女の眉はたおやかな弧を描くが、今回は違う。眉頭から眉尻まで一息に引く。太く、迷い無く。この一画で顔の印象が変わる。紅は使わない。唇の艶を抑えるように、白粉をごく薄く重ねる。
次に髪を整える。長い黒髪を櫛で梳き、高い位置でまとめて髷を作る。簪で留め、乱れがないか確かめる。最後に冠を被せ、顎紐を締める。
二三、声を出して喉を慣らす。本来の声は初めての出仕以降一度も、誰にも聞かせていない。
鏡を見る。凛とした顔の男が其処にいる。意志を持った顔つきと、一本通った芯を感じさせる背筋、隙の無い佇まい。暫し見つめ合うと、巷で呼ばれる名前という名の男と、故郷で安穏と暮らしてきた女の輪郭がぼやけていくような感覚を覚えた。
昨日認めておいた書簡を手に取り、扉を開ける。晒し一枚、仮面一つを隔てた名前の一日が始まった。
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