後書き
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何の変哲もない朝だった。私は寝台から起き上がれなかった。怪我は無い。どこにも痛みなど無い。なのに何故か体が動かないのだ。自分でも何が起きているのか分からなかった。
武器を持てなくなった。手が震えて、指が開け閉めできないのだ。箸より軽い物さえ持つのに苦労した。私は戦場に出られなくなった。恐れていたことが起きてしまった。そう、用済みだ。
何もかも諦めていた頃曹仁が私の部屋へやって来た。樊城の勝利の褒美として、曹操に私を強請ったのだと聞いた。なるほど戦国の男らしい、身勝手な約定を交わしたものだと思った。私の戦いは血を見るそれから男と女の寝物語に変わっただけのようだ。
初夜、寝台の上で曹仁は慈しむように私の頭を撫でた。
「何をしているの」
「御身を愛でている」
「早く抱けば」
ご飯すらまともに食べられなくなって痩せぎすになった体を曝そうとすると、慌てて制された。何を考えているの、そのために私は貴方に与えられたんでしょう。
「今宵だけは共に過ごさねばならない。だが明日からはそなたの安眠を邪魔はしない」
私の前髪を避けるようにしておでこを一撫で、そして男は女を寝台に横たえて長椅子で一夜を明かした。体が椅子からはみ出ていて、さぞや眠れぬ夜を過ごしたのだろうと思った。
曹仁は戦に出ながらも、邸に帰って来ては甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。庭を案内されて、木の紹介をされた。市場へ出掛けたときは、果物を買われた。街に遊びに行ったときは、簪を貰った。何もかもに気乗りしない私の手を引いて、色とりどりの景色や騒々しかったり静かだったりする音を与えた。夫婦らしいことなど一切していない。何のために彼が私を乞うたのか解せない日々が続いていた。
ある日馬に乗って花の咲く広場へ連れて行かれた。大きめの布を敷いて、お弁当を開く。
「美味いか」
「よく分からない」
「そうか。徐々に取り戻していけば良かろう」
食べ物の味などとっくの昔に分からなくなっていた私が、その良し悪しを思い出してきたのは最近のことだった。それなのに何故だか口にしてはいけない気がしていた。私が回復したと知ったら、この人も私を捨てるのだろうか。
おかずを食べてからおにぎりに手をつける。料理人が作ったにしては随分と大きくて、形が歪だ。持って眺めていると曹仁が気恥ずかしげに言った。
「恥ずかしながら、自分が作り申した。不格好で面目ない」
口に含むと、全く味がしなかった。また一口含むと、次は塩が一気に入っていて辛すぎる。握りすぎて米が固まっている部分もあれば、ほろほろと崩れる部位もある。彼は普段料理などしないのだ、これが初めてだったのだろう。
私は現代で通った公園の春を思い出していた。あの時と変わらない風の爽やかさ、陽の光の柔らかさ。
「私、公園に行くのが趣味だったの」
口にしてはっとした。こんな話、どうでもいいではないか。価値のある話題ではない。焦って曹仁を窺うと、続きを促すようにこちらを見ていた。
「そうか。今のように弁当を持ってか?」
穏やかな声に後押しされて、何か話さなければと喉から言葉を紡いでしまう。
「お気に入りのベーカリー・・・饃ばくのお店で買ったものを持ってね」
「うむ」
「木陰に座って食べるの。一人でいると、犬が寄って来たりして」
「それは賑やかな」
「その後はお昼寝をするんだ。晴れた日は風が気持ちよくて」
「そうか」
「それで・・・」
いつの間にか涙が出ていた。駄目。我慢しなきゃ。そう思うのにぽろぽろと落ちて止まらない。怖い。何かが怖くて堪らない。戦場に出なくなっても、心はずっと恐怖に苛まれていた。それなのに。
「ああ、やっと泣いたな」
なんでそんな目で私を見るの。ただそばにいて、気遣ってくれるの。私、何も出来ないのに。何も返していないのに。役立たずで、弱虫で、女としても将としても中途半端なのに。
「長らく待っていた。そなたが幾重にも重ねた、その鎧を脱ぐのを」
涙を太い指が受け止めた。この人の手はいつも温かい。やっと分かった。少しずつ、少しずつ分かってきたのだ。きっとこの人は私を見捨てたりしない。これからもそれは変わらないのだと。
「貴方って、このおにぎりみたいね」
「む?」
「固くて、ずんぐりむっくりだけど、中身は柔らかいの」
曹仁が笑った。その肩に身を預けると、照れた様子で身動ぎする。木漏れ日が二人に降り注いでいた。
武器を持てなくなった。手が震えて、指が開け閉めできないのだ。箸より軽い物さえ持つのに苦労した。私は戦場に出られなくなった。恐れていたことが起きてしまった。そう、用済みだ。
何もかも諦めていた頃曹仁が私の部屋へやって来た。樊城の勝利の褒美として、曹操に私を強請ったのだと聞いた。なるほど戦国の男らしい、身勝手な約定を交わしたものだと思った。私の戦いは血を見るそれから男と女の寝物語に変わっただけのようだ。
初夜、寝台の上で曹仁は慈しむように私の頭を撫でた。
「何をしているの」
「御身を愛でている」
「早く抱けば」
ご飯すらまともに食べられなくなって痩せぎすになった体を曝そうとすると、慌てて制された。何を考えているの、そのために私は貴方に与えられたんでしょう。
「今宵だけは共に過ごさねばならない。だが明日からはそなたの安眠を邪魔はしない」
私の前髪を避けるようにしておでこを一撫で、そして男は女を寝台に横たえて長椅子で一夜を明かした。体が椅子からはみ出ていて、さぞや眠れぬ夜を過ごしたのだろうと思った。
曹仁は戦に出ながらも、邸に帰って来ては甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。庭を案内されて、木の紹介をされた。市場へ出掛けたときは、果物を買われた。街に遊びに行ったときは、簪を貰った。何もかもに気乗りしない私の手を引いて、色とりどりの景色や騒々しかったり静かだったりする音を与えた。夫婦らしいことなど一切していない。何のために彼が私を乞うたのか解せない日々が続いていた。
ある日馬に乗って花の咲く広場へ連れて行かれた。大きめの布を敷いて、お弁当を開く。
「美味いか」
「よく分からない」
「そうか。徐々に取り戻していけば良かろう」
食べ物の味などとっくの昔に分からなくなっていた私が、その良し悪しを思い出してきたのは最近のことだった。それなのに何故だか口にしてはいけない気がしていた。私が回復したと知ったら、この人も私を捨てるのだろうか。
おかずを食べてからおにぎりに手をつける。料理人が作ったにしては随分と大きくて、形が歪だ。持って眺めていると曹仁が気恥ずかしげに言った。
「恥ずかしながら、自分が作り申した。不格好で面目ない」
口に含むと、全く味がしなかった。また一口含むと、次は塩が一気に入っていて辛すぎる。握りすぎて米が固まっている部分もあれば、ほろほろと崩れる部位もある。彼は普段料理などしないのだ、これが初めてだったのだろう。
私は現代で通った公園の春を思い出していた。あの時と変わらない風の爽やかさ、陽の光の柔らかさ。
「私、公園に行くのが趣味だったの」
口にしてはっとした。こんな話、どうでもいいではないか。価値のある話題ではない。焦って曹仁を窺うと、続きを促すようにこちらを見ていた。
「そうか。今のように弁当を持ってか?」
穏やかな声に後押しされて、何か話さなければと喉から言葉を紡いでしまう。
「お気に入りのベーカリー・・・饃ばくのお店で買ったものを持ってね」
「うむ」
「木陰に座って食べるの。一人でいると、犬が寄って来たりして」
「それは賑やかな」
「その後はお昼寝をするんだ。晴れた日は風が気持ちよくて」
「そうか」
「それで・・・」
いつの間にか涙が出ていた。駄目。我慢しなきゃ。そう思うのにぽろぽろと落ちて止まらない。怖い。何かが怖くて堪らない。戦場に出なくなっても、心はずっと恐怖に苛まれていた。それなのに。
「ああ、やっと泣いたな」
なんでそんな目で私を見るの。ただそばにいて、気遣ってくれるの。私、何も出来ないのに。何も返していないのに。役立たずで、弱虫で、女としても将としても中途半端なのに。
「長らく待っていた。そなたが幾重にも重ねた、その鎧を脱ぐのを」
涙を太い指が受け止めた。この人の手はいつも温かい。やっと分かった。少しずつ、少しずつ分かってきたのだ。きっとこの人は私を見捨てたりしない。これからもそれは変わらないのだと。
「貴方って、このおにぎりみたいね」
「む?」
「固くて、ずんぐりむっくりだけど、中身は柔らかいの」
曹仁が笑った。その肩に身を預けると、照れた様子で身動ぎする。木漏れ日が二人に降り注いでいた。
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