Fallen Angel
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引き摺る裾と、後ろ手に縄。連行されながらも心には静寂が舞い降りていた。刀の錆となるならまだ良い。縛り首になる可能性もあるだろう。しかし私にはただ満足があって、どうなろうと悲劇的な終幕ではないと捉える覚悟ができていた。曹操の前に引き出されたときも、ただ穏やかに、敬うように頭を垂れた。乱世に揉まれて露と消えようとも、君主として当然の振る舞いをした彼を責める気持ちは無かった。
「面を上げよ」
前に立つ劉婦人と共にそっと窺うと、曹操軍の顔ぶれが揃っていた。その中でも熱烈に見詰めてくる男と視線が交わる。火花が散るような熱を感じて目を逸らすと、その様子を見た曹操が父の顔で微笑んだ。
「父上」
男、曹丕が一歩前へ出る。嗚呼、歴史通りになるようだ。瞼の裏で麗しい笑顔を思い描くと、目尻に涙が滲んだ。
かくして私は曹丕の妻になったのである。恩人、甄姫様の代わりに。
「今日は詩を読むとしよう」
目の前に踊る美しい字。朗々と読み上げ、続いて意味を説明される。麗しい女を慕う男の恋心。詠われる女は珠のように滑らかで、絹のように白く、柳のようにしなやかなのだそうだ。反応に困りながら、私はいつもと同じおべっかを返す。
「恐悦至極に存じます」
そして男も不満げな顔をする。幾度となく繰り返したこの茶番。いつになったら終わるのだろう。
「音楽、書画、詩経、薫香に遊興。お前は何一つ気に入らんようだな」
「私には過分なものに御座います」
たおやかな女性を頭に思い描きながら、倣って扇子で顔を隠す。思い出に土足で踏み入らんとする男から逃げ回って、本音を言えない生活を余儀なくされていた。隠れようとしても、息を潜めて過ごしていても、曹丕はどこまでも追ってくる。執念深く私を追い詰めては、愛を強奪せんと画策しているのだ。
紫色の扇子。透けるその向こうから男が手を伸ばす。鋭い瞳が心の奥底までを見抜こうとしている。
「いつになればお前は心を開く」
私には心を奪われた人がいた。妙な服を着て突然現れた女を庇い、家に引き入れてくれた優しい御方。名門袁家に滞在する女として恥ずべくことのないよう、この時代の芸事を手ずから教えて下さった心遣い。書を捲る細い指先、微笑む唇に潜む色気、流し目を送る妖艶な眼差し、全て私の胸を捕らえて離さなかった。そんな御方がやがてこの男の妻となり、毒杯を賜ろうとは、私には耐え難い歴史だったのだ。だから家長たる袁紹が負けたとき、彼女には逃げるように言った。全ては話さなかった、もし話していたらきっと私をこの場に残しはしなかっただろう。別れのとき、彼女は泣きながら私の手を握って言った、『どうか息災で』と。私は答えた、『未来を知っている私ですもの、どんな荒波でも乗りこなしてみせますわ』と。嘘だった。私は邂逅の場で曹操に殺される心積もりを既に済ませていた。私は彼女のような心根からの柔らかさも、広い湖のような清純さも、幼少期からの努力の賜物である教養も、何一つ持ち合わせていない。あの男の目に止まるはずもない。そう考えていたのだが、運命の悪戯は思わぬ方向にこの身を導いた。私は『甄姫』と呼ばれている。命を捧げた彼女の名前で呼ばれているのだ。
「何がお前を憂わすのだ」
腕に跡が付きそうなくらい強く握りしめられて、扇子が床に落ちる。痛い。この男は決して私を心から愛しているのではない、玩具が手に入らず地団駄を踏む子供なのだ。私の心にはただ一人、甄姫様がいる。身体を征服されようと、尊厳を侵されようと、魂の主は既に決まっている。涙が一筋、頬を滑り落ちた。嗚呼、私はいつ、どうやって死ぬのだろう。苦しむ最期なのだろうか。どんな終わりでもいい、しかし間際には夢を見たい。最期に見る景色は彼女との思い出の日々でありたい。彼女と共に生きる、その願いは叶わなかった。ならばせめて、愛しい人の幻に抱かれて死にたい。
「答えよ、名前。答えてくれ」
懇願する男。涙する女。二つの心は交わらず、永遠に平行線を描いていた。
Fallen Angel・・・叶わぬ願い
「面を上げよ」
前に立つ劉婦人と共にそっと窺うと、曹操軍の顔ぶれが揃っていた。その中でも熱烈に見詰めてくる男と視線が交わる。火花が散るような熱を感じて目を逸らすと、その様子を見た曹操が父の顔で微笑んだ。
「父上」
男、曹丕が一歩前へ出る。嗚呼、歴史通りになるようだ。瞼の裏で麗しい笑顔を思い描くと、目尻に涙が滲んだ。
かくして私は曹丕の妻になったのである。恩人、甄姫様の代わりに。
「今日は詩を読むとしよう」
目の前に踊る美しい字。朗々と読み上げ、続いて意味を説明される。麗しい女を慕う男の恋心。詠われる女は珠のように滑らかで、絹のように白く、柳のようにしなやかなのだそうだ。反応に困りながら、私はいつもと同じおべっかを返す。
「恐悦至極に存じます」
そして男も不満げな顔をする。幾度となく繰り返したこの茶番。いつになったら終わるのだろう。
「音楽、書画、詩経、薫香に遊興。お前は何一つ気に入らんようだな」
「私には過分なものに御座います」
たおやかな女性を頭に思い描きながら、倣って扇子で顔を隠す。思い出に土足で踏み入らんとする男から逃げ回って、本音を言えない生活を余儀なくされていた。隠れようとしても、息を潜めて過ごしていても、曹丕はどこまでも追ってくる。執念深く私を追い詰めては、愛を強奪せんと画策しているのだ。
紫色の扇子。透けるその向こうから男が手を伸ばす。鋭い瞳が心の奥底までを見抜こうとしている。
「いつになればお前は心を開く」
私には心を奪われた人がいた。妙な服を着て突然現れた女を庇い、家に引き入れてくれた優しい御方。名門袁家に滞在する女として恥ずべくことのないよう、この時代の芸事を手ずから教えて下さった心遣い。書を捲る細い指先、微笑む唇に潜む色気、流し目を送る妖艶な眼差し、全て私の胸を捕らえて離さなかった。そんな御方がやがてこの男の妻となり、毒杯を賜ろうとは、私には耐え難い歴史だったのだ。だから家長たる袁紹が負けたとき、彼女には逃げるように言った。全ては話さなかった、もし話していたらきっと私をこの場に残しはしなかっただろう。別れのとき、彼女は泣きながら私の手を握って言った、『どうか息災で』と。私は答えた、『未来を知っている私ですもの、どんな荒波でも乗りこなしてみせますわ』と。嘘だった。私は邂逅の場で曹操に殺される心積もりを既に済ませていた。私は彼女のような心根からの柔らかさも、広い湖のような清純さも、幼少期からの努力の賜物である教養も、何一つ持ち合わせていない。あの男の目に止まるはずもない。そう考えていたのだが、運命の悪戯は思わぬ方向にこの身を導いた。私は『甄姫』と呼ばれている。命を捧げた彼女の名前で呼ばれているのだ。
「何がお前を憂わすのだ」
腕に跡が付きそうなくらい強く握りしめられて、扇子が床に落ちる。痛い。この男は決して私を心から愛しているのではない、玩具が手に入らず地団駄を踏む子供なのだ。私の心にはただ一人、甄姫様がいる。身体を征服されようと、尊厳を侵されようと、魂の主は既に決まっている。涙が一筋、頬を滑り落ちた。嗚呼、私はいつ、どうやって死ぬのだろう。苦しむ最期なのだろうか。どんな終わりでもいい、しかし間際には夢を見たい。最期に見る景色は彼女との思い出の日々でありたい。彼女と共に生きる、その願いは叶わなかった。ならばせめて、愛しい人の幻に抱かれて死にたい。
「答えよ、名前。答えてくれ」
懇願する男。涙する女。二つの心は交わらず、永遠に平行線を描いていた。
Fallen Angel・・・叶わぬ願い
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