Sherry
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「あんた、本当に良かったのかよ」
寝台に凌統が背中を向けて座っていた。おざなりに投げ出されたその足すら芸術品のように美しく、名前はまだ自分は夢を見ているのかと疑った。返事をしないでいると『どうなんだよ』と重ねるように今度は此方を振り返るので、嗚呼現実なのだと思考が戻ってきた。椅子に座り込む名前の背は背もたれからすっかり離れて伸び切っており、僅かに緊張を孕んでいることを自覚していた。
「ここまで来てどうするって言うのよ」
「今ならまだやり直せるっての」
「馬鹿言わないでよ。止める機会なら何度もあったはずでしょ」
「それでもあんたも行動しなかっただろ」
何も浪漫や色気のある言葉を期待していたわけではない。しかしこの期に及んでまだ口論を繰り広げる自分達に呆れた。名前と凌統はいつもこうだ。評議においても意見が合わず、戦の後にはお前が悪いと責任を押し付け合う。顔を合わせれば言い争い、呂蒙を間に挟んで仲介をされたことも一度や二度のことではない。二人の関係は呉の中でも知られており、あの甘寧ですら引き気味で『そこまでにしとけよ』と止めることすらあったくらいだ。犬猿の仲、水と油。不和の二人が揃いの真紅の衣装を着て、肘鉄を送り合いながら街を練り歩き、孫権を仲人として結ばれる日が来ようとは誰が予想できただろうか。
名前の方に話を持ち込んだのは周瑜だった。孫権から申し付けられて運ばれた縁談であるとのことで、拒絶できる立場にはなかった。どうせ凌統が断ると思ったのだ。しかし待てど暮せど否やの返事は来ず、とんとん拍子に名前は名家の養女となり、顔を突き合わせながら誓いの盃を空けていた。話が持ち込まれたとき、養子入りするとき、結婚式の準備をするとき、輿に二人で乗り込んだとき。おかしいと誰もが思いながら口にする者はいなかった。『やっぱり止める』といずれかが言うのを皆待っていたが、結局初夜を迎えるという段に至るまで、両者共に海の底で押し黙る貝のように頑なだった。意地だったのかもしれない。忠誠心だったのかもしれない。理由は分からないまでも、このまま夫婦として恙無く過ごしていけるとは到底思えない関係のままここまで来てしまった。
「想い人がいたんだろ」
「ええ。いるわよ。ずっと好きだった人が」
けっ、と凌統が砂糖を吐き捨てる。もう懲り懲りだとでも言いたげな表情だった。
「背が高くて、格好良くて、強い男なんだろ?でれでれした顔で言い触らしやがって」
「貴方の前では言ってないはずよ。勝手に聞いたのはそっちでしょ」
「へえ、悪うございましたね。おまけに弁が立つ利口な若武者だって話だ。相当夢見がちだね、あんたも」
「誰をどう思おうが私の勝手でしょ。凌統には関係無い」
「曲がりなりにも夫になる男に対して関係無いとは随分な言い様なこった」
減らず口が減らず口を呼んで啀み合う。名前は思った、この男と分かり合える日は来ないのかもしれないと。薄い夜着を指先で弄ぶと、凌統がそれを見咎めた。
「安心しな、あんたには手を出さないよ」
女として恥ずべきことと理解しながらの言葉に、名前も憤った。
「凌家のご令息も傲慢が過ぎること。孫呉の未来を任された将がこんなに頭に血が上りやすいとは、行く末が不安だわ」
「は?もう一度言ってみな」
「何度だって言ってやるわよ。私の惚れた男はそんな了見の狭い奴だったわけ」
席を立って部屋を出ようとすると、俄に立ち上がった凌統が名前の腕を掴んだ。
「ちょっと待て、どういうことだよ」
「離して」
「あんた、想い人がいるって」
「だからいるってば!」
「完璧かと思えば少し頼りなくて可愛いやつだって」
「おまけに戦のことには聡いくせに色事には鈍感な男よ」
名前は今日初めて、しっかりと凌統を見据えた。『馬子にも衣装だな』、婚礼衣装を身に纏った名前を前に目を泳がせた男が、今期待を持って縋っている。
「全部全部凌公績、貴方のことじゃないの」
凌統は力が抜けたようにどさりと寝台に座り直した。掴まれた手首が痛む。見せつけるように回すと、呆然としたまま凌統がそれを見ていた。
「いつからだ」
「何がよ」
「いつから俺のことを」
「そんなの自分でも分かんない」
凌統が頭を抱えた。
「俺だってあんたのこと・・・」
そこまで聞いて、名前は一つ意地悪をしたくなった。隣に腰掛けると、寝台が軋んだ音を立てる。背に手を添わせ、頬を肩に乗せる。甘えるような形を取ると男の耳が真っ赤になった。
「大丈夫。私達、何とかなるわ」
「気楽なもんだぜ」
「だから今日はもう寝ましょ」
衝撃を受けた凌統が石像のように固まる。名前は寝台に勢い良く横たわり、背を向けてほくそ笑んだ。背中越しに男の焦ったような気配を感じる。
「あのさ・・・名前?俺達、両想いだった、んだよな?」
「うん。だから?」
「いや、だからさ・・・」
「私に手は出さないんでしょ?」
肩に掛かった手が止まる。困ってる困ってる。我慢できずに吹き出すと、両脇に掛かった手が名前の体を仰向けに転がした。
「からかいやがって!あんたのこういうところがもう、」
「好きなんでしょう?」
首に手を掛けて誘惑すると、腹を立てながらも顔を真っ赤にする凌統がいた。名前は凌統のこういうところが好きだった。
「ああ!そうだよ!俺はあんたにぞっこんだ!さては最初から分かってただろ?!」
けらけらと笑う名前を凌統が寝台に引き倒す。一転今度は色っぽい空気になって、黙る。額と額が合わさって、至近距離で見つめ合った。垂れ目の眼差し。低い声。男の元来の色気がそこにあった。
「なあ、いいか?」
「もう貴方のよ。許可なんていらないわ」
まさか孫呉一番の鴛鴦夫婦がその日誕生することになろうとは誰も思うまい。二人は一つになり、棘のある言葉は融けていった。
Sherry・・・今夜は貴方に全て捧げます
寝台に凌統が背中を向けて座っていた。おざなりに投げ出されたその足すら芸術品のように美しく、名前はまだ自分は夢を見ているのかと疑った。返事をしないでいると『どうなんだよ』と重ねるように今度は此方を振り返るので、嗚呼現実なのだと思考が戻ってきた。椅子に座り込む名前の背は背もたれからすっかり離れて伸び切っており、僅かに緊張を孕んでいることを自覚していた。
「ここまで来てどうするって言うのよ」
「今ならまだやり直せるっての」
「馬鹿言わないでよ。止める機会なら何度もあったはずでしょ」
「それでもあんたも行動しなかっただろ」
何も浪漫や色気のある言葉を期待していたわけではない。しかしこの期に及んでまだ口論を繰り広げる自分達に呆れた。名前と凌統はいつもこうだ。評議においても意見が合わず、戦の後にはお前が悪いと責任を押し付け合う。顔を合わせれば言い争い、呂蒙を間に挟んで仲介をされたことも一度や二度のことではない。二人の関係は呉の中でも知られており、あの甘寧ですら引き気味で『そこまでにしとけよ』と止めることすらあったくらいだ。犬猿の仲、水と油。不和の二人が揃いの真紅の衣装を着て、肘鉄を送り合いながら街を練り歩き、孫権を仲人として結ばれる日が来ようとは誰が予想できただろうか。
名前の方に話を持ち込んだのは周瑜だった。孫権から申し付けられて運ばれた縁談であるとのことで、拒絶できる立場にはなかった。どうせ凌統が断ると思ったのだ。しかし待てど暮せど否やの返事は来ず、とんとん拍子に名前は名家の養女となり、顔を突き合わせながら誓いの盃を空けていた。話が持ち込まれたとき、養子入りするとき、結婚式の準備をするとき、輿に二人で乗り込んだとき。おかしいと誰もが思いながら口にする者はいなかった。『やっぱり止める』といずれかが言うのを皆待っていたが、結局初夜を迎えるという段に至るまで、両者共に海の底で押し黙る貝のように頑なだった。意地だったのかもしれない。忠誠心だったのかもしれない。理由は分からないまでも、このまま夫婦として恙無く過ごしていけるとは到底思えない関係のままここまで来てしまった。
「想い人がいたんだろ」
「ええ。いるわよ。ずっと好きだった人が」
けっ、と凌統が砂糖を吐き捨てる。もう懲り懲りだとでも言いたげな表情だった。
「背が高くて、格好良くて、強い男なんだろ?でれでれした顔で言い触らしやがって」
「貴方の前では言ってないはずよ。勝手に聞いたのはそっちでしょ」
「へえ、悪うございましたね。おまけに弁が立つ利口な若武者だって話だ。相当夢見がちだね、あんたも」
「誰をどう思おうが私の勝手でしょ。凌統には関係無い」
「曲がりなりにも夫になる男に対して関係無いとは随分な言い様なこった」
減らず口が減らず口を呼んで啀み合う。名前は思った、この男と分かり合える日は来ないのかもしれないと。薄い夜着を指先で弄ぶと、凌統がそれを見咎めた。
「安心しな、あんたには手を出さないよ」
女として恥ずべきことと理解しながらの言葉に、名前も憤った。
「凌家のご令息も傲慢が過ぎること。孫呉の未来を任された将がこんなに頭に血が上りやすいとは、行く末が不安だわ」
「は?もう一度言ってみな」
「何度だって言ってやるわよ。私の惚れた男はそんな了見の狭い奴だったわけ」
席を立って部屋を出ようとすると、俄に立ち上がった凌統が名前の腕を掴んだ。
「ちょっと待て、どういうことだよ」
「離して」
「あんた、想い人がいるって」
「だからいるってば!」
「完璧かと思えば少し頼りなくて可愛いやつだって」
「おまけに戦のことには聡いくせに色事には鈍感な男よ」
名前は今日初めて、しっかりと凌統を見据えた。『馬子にも衣装だな』、婚礼衣装を身に纏った名前を前に目を泳がせた男が、今期待を持って縋っている。
「全部全部凌公績、貴方のことじゃないの」
凌統は力が抜けたようにどさりと寝台に座り直した。掴まれた手首が痛む。見せつけるように回すと、呆然としたまま凌統がそれを見ていた。
「いつからだ」
「何がよ」
「いつから俺のことを」
「そんなの自分でも分かんない」
凌統が頭を抱えた。
「俺だってあんたのこと・・・」
そこまで聞いて、名前は一つ意地悪をしたくなった。隣に腰掛けると、寝台が軋んだ音を立てる。背に手を添わせ、頬を肩に乗せる。甘えるような形を取ると男の耳が真っ赤になった。
「大丈夫。私達、何とかなるわ」
「気楽なもんだぜ」
「だから今日はもう寝ましょ」
衝撃を受けた凌統が石像のように固まる。名前は寝台に勢い良く横たわり、背を向けてほくそ笑んだ。背中越しに男の焦ったような気配を感じる。
「あのさ・・・名前?俺達、両想いだった、んだよな?」
「うん。だから?」
「いや、だからさ・・・」
「私に手は出さないんでしょ?」
肩に掛かった手が止まる。困ってる困ってる。我慢できずに吹き出すと、両脇に掛かった手が名前の体を仰向けに転がした。
「からかいやがって!あんたのこういうところがもう、」
「好きなんでしょう?」
首に手を掛けて誘惑すると、腹を立てながらも顔を真っ赤にする凌統がいた。名前は凌統のこういうところが好きだった。
「ああ!そうだよ!俺はあんたにぞっこんだ!さては最初から分かってただろ?!」
けらけらと笑う名前を凌統が寝台に引き倒す。一転今度は色っぽい空気になって、黙る。額と額が合わさって、至近距離で見つめ合った。垂れ目の眼差し。低い声。男の元来の色気がそこにあった。
「なあ、いいか?」
「もう貴方のよ。許可なんていらないわ」
まさか孫呉一番の鴛鴦夫婦がその日誕生することになろうとは誰も思うまい。二人は一つになり、棘のある言葉は融けていった。
Sherry・・・今夜は貴方に全て捧げます
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