火鉢
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歯ががちがちと当たる。指先が震えて手先がぶれる。重ねた服をぎゅっと抱きしめても温度はあまり変わりそうになかった。
魏に降り立ってから初めての冬が到来していた。特段寒さに弱い方ではないが、保温機能付きのインナーもない、服はもらいものの薄い文官服、部屋を暖める器具は火鉢のみとあって現代のやわな体を持った骨身に堪えた。毛皮や綿入りの服を着ている者も見かけるのだが、中々に高価なもののようで、毎月もらえる給金では届かなさそうだった。手近に手に入るのは漢服のため、何枚か重ねて暖を取るという方法を取っていたが、麻や綿ではあまりに心許ない。絹は高いし洗濯に難がある。結果今だけということで根性論を用いて耐える日々が続いていた。
私と于禁殿のいる執務室には火鉢が三つ置いてある。私の近く、于禁殿の近く、部屋の真ん中に一つずつ配置されている。執務室自体がそれなりに広い造りなので、数があっても十分とは言えない。寒そうにしつつも体の反応が出ない三国時代の人々は、この気温に慣れているのだろう。ただ一人生きるか死ぬかの境界線を彷徨う私に、当初疑っていた人々の視線も哀れみを帯びてきていた。
ずりずり、と擦る音が響く。執務室の主は留守にしている。毎日軍の鍛錬があるため部屋を不在にする時間が長く、部屋守を務めることが多かった。日時計を見るに、そろそろ帰ってくる頃だろう。帰ってきた後は、不在の間に私が各部署から受け取った書簡を確認して、書類仕事に励む。その時に必要になるだろう墨を今擦っているのだ。
あの後曹操と軍師達の前に引き出されて、三国の縮図がどうなっていくのか説明を求められたが、からっきし当てにならない返答しかできなかった。ゲームを進めるときは地名や時系列を気にする必要はなく、目の前の雑魚を倒すだけで済む。その場になって自軍も敵軍も将が並んでみないと、どうにも記憶は呼び起こされないのだった。
かくして『軍師』として私が籍を置くことは免れたのだが、于禁殿の元に身柄を預けられるということは変わらなかった。期待はしたものの無駄だった。そして于禁殿は自分に何ら指示を出すこともなく飼い殺しにするつもりだったようなので、自分は秘書なのだと言い聞かせて勝手気儘に動くようになった。ブラックなアルバイトと自立を求められるゼミ生活を経て、もう私の体は社畜へと作り変えられている。
于禁殿の硯に完成した墨を注いでいると、重い足音が部屋に近づいた。
「何をしている」
扉が開くなり咎めるような声が飛んでくる。いつものことなのでもう気にしていない。注ぎ終わって少し跳ねた墨を拭き取って振り返ると、眉を寄せた于禁殿が仁王立ちしていた。
「お疲れ様です」
「問いに答えよ」
堅いなあ。
肩をすくめると、余計に怒気が強まる気がする。こういう態度が于禁殿の気に障るのは分かっているが、毎日一緒にいて自分の気性も変えられるものではなかった。どうせ隠せない自分、曹操に命令された上は殺されはしないだろうから居直ってやろうと思っていた。
「墨をお注ぎしていました。そろそろ帰ってくるかなと思って」
腕を組んだその態度がほんの少しだけ和らぐ。自分で言うのも何だが私は人の機微によく気がつく方で、色々気の利く行動をしているつもりではあるのだが、于禁殿が感謝の言葉をくれたことは一度もない。それはそうだ、スパイか怪しい者かと疑っていたのだから仕方がない。他の人が懐柔される中で、自分だけはその立場を崩してはならないと律しているのだろう。寂しくはあるものの理解はできるので、あまりそこを気に病んだことはなかった。
「徐晃様から合同訓練の申し入れが。夏侯惇様からは軍規に新しい条項を追加したいとのこと、これは五日後が期限です。それから、報告書が明日までだったはずですが、もしできているなら持っていきます」
留守中の書簡を于禁殿の机に並べていく。まだ中身は読めないため、持ち込まれた時点で期限を聞いて色のついた紐を結びつけている。本当は日本語でメモを書いて付箋でも貼りたいところなのだが、見られて変な思いをするのも嫌だし、そもそも付箋自体の数も限られていた。
私が来る前于禁殿はどうやら毎日夜間遅くまで仕事をしていたようだが、私が来てからそれも減っているようだ。日が落ちる頃には帰れるようになっていた。いつも肩肘張って極限まで働く人の助けになれていると思うと、この生活も悪くないと思えた。その尽くしている相手には棘のある対応をされていたとしても。
「ご苦労」
一言捻り出すのが限界なのだろう。本当はきちんと感謝したいけどできない、礼儀正しさと慎重さの鬩ぎ合いが表れている言葉だった。この一言のために私は頑張れていると言っても過言ではない。
さらさらと筆が滑る音が始まる。こうなってしまうと私は暇だ。がたがたと震える手を袖に隠して思案する。
「お茶を淹れて来ます」
言わないと毎回聞かれるので、宣言して席を立つ。業務中休みを取るなど怠慢だと駄々をこねる于禁殿に、適宜休息を取ることによって脳がより効率的に働くと説き伏せて時間を確保するようになっていた。そもそも私はいつでも休憩時間みたいなものだ、だったら馬車馬の如く働かせて欲しい。
魏に降り立ってから初めての冬が到来していた。特段寒さに弱い方ではないが、保温機能付きのインナーもない、服はもらいものの薄い文官服、部屋を暖める器具は火鉢のみとあって現代のやわな体を持った骨身に堪えた。毛皮や綿入りの服を着ている者も見かけるのだが、中々に高価なもののようで、毎月もらえる給金では届かなさそうだった。手近に手に入るのは漢服のため、何枚か重ねて暖を取るという方法を取っていたが、麻や綿ではあまりに心許ない。絹は高いし洗濯に難がある。結果今だけということで根性論を用いて耐える日々が続いていた。
私と于禁殿のいる執務室には火鉢が三つ置いてある。私の近く、于禁殿の近く、部屋の真ん中に一つずつ配置されている。執務室自体がそれなりに広い造りなので、数があっても十分とは言えない。寒そうにしつつも体の反応が出ない三国時代の人々は、この気温に慣れているのだろう。ただ一人生きるか死ぬかの境界線を彷徨う私に、当初疑っていた人々の視線も哀れみを帯びてきていた。
ずりずり、と擦る音が響く。執務室の主は留守にしている。毎日軍の鍛錬があるため部屋を不在にする時間が長く、部屋守を務めることが多かった。日時計を見るに、そろそろ帰ってくる頃だろう。帰ってきた後は、不在の間に私が各部署から受け取った書簡を確認して、書類仕事に励む。その時に必要になるだろう墨を今擦っているのだ。
あの後曹操と軍師達の前に引き出されて、三国の縮図がどうなっていくのか説明を求められたが、からっきし当てにならない返答しかできなかった。ゲームを進めるときは地名や時系列を気にする必要はなく、目の前の雑魚を倒すだけで済む。その場になって自軍も敵軍も将が並んでみないと、どうにも記憶は呼び起こされないのだった。
かくして『軍師』として私が籍を置くことは免れたのだが、于禁殿の元に身柄を預けられるということは変わらなかった。期待はしたものの無駄だった。そして于禁殿は自分に何ら指示を出すこともなく飼い殺しにするつもりだったようなので、自分は秘書なのだと言い聞かせて勝手気儘に動くようになった。ブラックなアルバイトと自立を求められるゼミ生活を経て、もう私の体は社畜へと作り変えられている。
于禁殿の硯に完成した墨を注いでいると、重い足音が部屋に近づいた。
「何をしている」
扉が開くなり咎めるような声が飛んでくる。いつものことなのでもう気にしていない。注ぎ終わって少し跳ねた墨を拭き取って振り返ると、眉を寄せた于禁殿が仁王立ちしていた。
「お疲れ様です」
「問いに答えよ」
堅いなあ。
肩をすくめると、余計に怒気が強まる気がする。こういう態度が于禁殿の気に障るのは分かっているが、毎日一緒にいて自分の気性も変えられるものではなかった。どうせ隠せない自分、曹操に命令された上は殺されはしないだろうから居直ってやろうと思っていた。
「墨をお注ぎしていました。そろそろ帰ってくるかなと思って」
腕を組んだその態度がほんの少しだけ和らぐ。自分で言うのも何だが私は人の機微によく気がつく方で、色々気の利く行動をしているつもりではあるのだが、于禁殿が感謝の言葉をくれたことは一度もない。それはそうだ、スパイか怪しい者かと疑っていたのだから仕方がない。他の人が懐柔される中で、自分だけはその立場を崩してはならないと律しているのだろう。寂しくはあるものの理解はできるので、あまりそこを気に病んだことはなかった。
「徐晃様から合同訓練の申し入れが。夏侯惇様からは軍規に新しい条項を追加したいとのこと、これは五日後が期限です。それから、報告書が明日までだったはずですが、もしできているなら持っていきます」
留守中の書簡を于禁殿の机に並べていく。まだ中身は読めないため、持ち込まれた時点で期限を聞いて色のついた紐を結びつけている。本当は日本語でメモを書いて付箋でも貼りたいところなのだが、見られて変な思いをするのも嫌だし、そもそも付箋自体の数も限られていた。
私が来る前于禁殿はどうやら毎日夜間遅くまで仕事をしていたようだが、私が来てからそれも減っているようだ。日が落ちる頃には帰れるようになっていた。いつも肩肘張って極限まで働く人の助けになれていると思うと、この生活も悪くないと思えた。その尽くしている相手には棘のある対応をされていたとしても。
「ご苦労」
一言捻り出すのが限界なのだろう。本当はきちんと感謝したいけどできない、礼儀正しさと慎重さの鬩ぎ合いが表れている言葉だった。この一言のために私は頑張れていると言っても過言ではない。
さらさらと筆が滑る音が始まる。こうなってしまうと私は暇だ。がたがたと震える手を袖に隠して思案する。
「お茶を淹れて来ます」
言わないと毎回聞かれるので、宣言して席を立つ。業務中休みを取るなど怠慢だと駄々をこねる于禁殿に、適宜休息を取ることによって脳がより効率的に働くと説き伏せて時間を確保するようになっていた。そもそも私はいつでも休憩時間みたいなものだ、だったら馬車馬の如く働かせて欲しい。
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