時よ止まれ、汝は美しい
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于禁が家中の段差を全て無くせと家人にお達しを出した時、名前は長年の度重なる心労で遂に彼の頭が壊れたのだと思った。元はといえば名前が悪いのだが、ついと足を引っ掛けて転びかけたくらいでまさかそんなことになるとは思わなかったというのが本音である。三国時代の邸において段差を無くすというのはほぼ不可能に近い。意固地になった于禁を名前が説得するのに三日三晩掛かった。これは夫婦としての言い争いの期間として最長のものだった。
「何をしている」
風を斬るような鋭い声が飛んで名前は振り返る。見れば分かる、庭の端に遊びに来た猫を認めて遊んでいるところだった。その問いの意味を理解した上で名前はのんびりと笑って于禁に猫を指し示した。
「見て、人懐こいね。飼ってもいい?」
「ならん」
「でも可愛いよ。ね、甜甜」
「名前をつけるな」
門から帰った于禁は庭を突っ切って足早に名前の元へ来た。見下ろして腕を組み仁王立ちするも、今の名前にはもう怖くない。再び猫に目を遣ると、応じる気がないと分かった于禁が家に声を張り上げた。
「誰かあるか、羽織を持て」
「皆忙しいんだから、そんなに気にすることないって」
「主家の奥方より優先されるべきものなどありはしない」
ばたばたと名前つきの女官が小走りに羽織を持ってきた。着くや否や名前をちゃんと見ていなかったことを叱ろうとしているが、家人にあまり嫌われるようなことをして欲しくない名前が止める。
「そんなに怒らなくてもいいのにね」
ねえ、猫ちゃん?
話し掛けると于禁の殺気が強まって肩を竦めた。いつまでこんな調子なのか。ここ数ヶ月はずっとこんななので、名前は息苦しさを感じていた。
于禁が家人を追い払い、肩に羽織を掛ける。いい加減にしろと言いたげな顔だった。
「名前よ、頼む。己を労ってくれ」
「ちゃんとしてるよ。貴方が過保護なだけ」
本当はまだ城で働きたかったのだが、于禁に断固として拒否された。自分を心配してのことと分かっていたので何も言えず、渋々家に籠もることとなった。しかし生来の活発さが邪魔をして、ついつい動きたくなってしまうのが名前の性だった。
「風が冷たい」
「大丈夫、まだ秋なんだし」
「手も凍えている」
「文則が温かいだけ」
「名前」
于禁が名前の肩を抱く。鋭い目尻が下がっている。ああ、この男のこういうところに弱いのだ。
「もうお前だけの体ではないのだぞ」
それを言われると弱い。名前のお腹はもう大分大きくなって、移動にも支障があるところまで来ていた。妊娠してから名前を壊れ物のように扱うようになったこの男を、どうやって恨めるというのだろうか。
肩に回された手に頭を乗せ、身を寄せ合う。お腹を撫でると、子供がぽこりとその手を蹴った。結婚適齢期を過ぎて嫁いだ名前に、早く子供を持てとの圧がかかったのは当然のことだった。第二、第三婦人と目合わされることを必死に固辞しながら、自分への想いを貫いてくれたこの男に報いることができる今こそ、名前の幸せの絶頂と言えた。
「ごめん、私もう少し大人しくするね」
そう囁くと、于禁の手が名前の手に重なった。腹を撫でるときすら恐る恐るである。子供が生まれようものならどうなってしまうことか。
「男の子か女の子か、どっちかな。貴方はどっちがいい?」
「どちらでも良い」
身を抱きすくめられて驚く。于禁は人目があるときにこういうことは本来しない男だった。家人が見ていたら。名前は夫の行動に一人慌てるのだった。
「お前が無事ならば、それで良い」
言葉が染み入っていく。
少し涼しくなってきた秋の日。『甘い』という意味の名前をつけられた猫、甜甜が逃げて行く。二人の距離を縮めるように木枯らしが粋に吹いていた。
「何をしている」
風を斬るような鋭い声が飛んで名前は振り返る。見れば分かる、庭の端に遊びに来た猫を認めて遊んでいるところだった。その問いの意味を理解した上で名前はのんびりと笑って于禁に猫を指し示した。
「見て、人懐こいね。飼ってもいい?」
「ならん」
「でも可愛いよ。ね、甜甜」
「名前をつけるな」
門から帰った于禁は庭を突っ切って足早に名前の元へ来た。見下ろして腕を組み仁王立ちするも、今の名前にはもう怖くない。再び猫に目を遣ると、応じる気がないと分かった于禁が家に声を張り上げた。
「誰かあるか、羽織を持て」
「皆忙しいんだから、そんなに気にすることないって」
「主家の奥方より優先されるべきものなどありはしない」
ばたばたと名前つきの女官が小走りに羽織を持ってきた。着くや否や名前をちゃんと見ていなかったことを叱ろうとしているが、家人にあまり嫌われるようなことをして欲しくない名前が止める。
「そんなに怒らなくてもいいのにね」
ねえ、猫ちゃん?
話し掛けると于禁の殺気が強まって肩を竦めた。いつまでこんな調子なのか。ここ数ヶ月はずっとこんななので、名前は息苦しさを感じていた。
于禁が家人を追い払い、肩に羽織を掛ける。いい加減にしろと言いたげな顔だった。
「名前よ、頼む。己を労ってくれ」
「ちゃんとしてるよ。貴方が過保護なだけ」
本当はまだ城で働きたかったのだが、于禁に断固として拒否された。自分を心配してのことと分かっていたので何も言えず、渋々家に籠もることとなった。しかし生来の活発さが邪魔をして、ついつい動きたくなってしまうのが名前の性だった。
「風が冷たい」
「大丈夫、まだ秋なんだし」
「手も凍えている」
「文則が温かいだけ」
「名前」
于禁が名前の肩を抱く。鋭い目尻が下がっている。ああ、この男のこういうところに弱いのだ。
「もうお前だけの体ではないのだぞ」
それを言われると弱い。名前のお腹はもう大分大きくなって、移動にも支障があるところまで来ていた。妊娠してから名前を壊れ物のように扱うようになったこの男を、どうやって恨めるというのだろうか。
肩に回された手に頭を乗せ、身を寄せ合う。お腹を撫でると、子供がぽこりとその手を蹴った。結婚適齢期を過ぎて嫁いだ名前に、早く子供を持てとの圧がかかったのは当然のことだった。第二、第三婦人と目合わされることを必死に固辞しながら、自分への想いを貫いてくれたこの男に報いることができる今こそ、名前の幸せの絶頂と言えた。
「ごめん、私もう少し大人しくするね」
そう囁くと、于禁の手が名前の手に重なった。腹を撫でるときすら恐る恐るである。子供が生まれようものならどうなってしまうことか。
「男の子か女の子か、どっちかな。貴方はどっちがいい?」
「どちらでも良い」
身を抱きすくめられて驚く。于禁は人目があるときにこういうことは本来しない男だった。家人が見ていたら。名前は夫の行動に一人慌てるのだった。
「お前が無事ならば、それで良い」
言葉が染み入っていく。
少し涼しくなってきた秋の日。『甘い』という意味の名前をつけられた猫、甜甜が逃げて行く。二人の距離を縮めるように木枯らしが粋に吹いていた。
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