秋の麒麟草
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「名前、今の男はどうだ」
はあ、と溜め息をつく。夏侯惇が男を引き留めるのはこれで五度目だ。不自然に名前を隣に置いて、急ぎでない題を長く話し込んでいると思ったらこれである。魏の先頭に立つ猛将に女の好みはと突然話し掛けられる青年達が哀れでならなかった。夏侯惇の献身も青年達の苦労も、名前の心一つで無に帰すというのに。
「全く、どんな男だったら気に入るんだ。お前は」
はじめは絵を数枚見せられた。『どうだ』と問われ『何が』と答えるとどうやら見合いの釣書だったらしい。下に家柄や居所、仕事内容、人柄が詳細に記入されている。名前はそれを破り捨てたくなった。見合いなどするわけがないと抵抗したのだが夏侯惇は諦めず、その後何度も名前に年頃の男を目合わせて様子を窺っているのだった。
「私、結婚なんてしません」
「女性が一人で生きていける時世ではない」
「私のいたところではやっていけるんです」
「お前のいた場所とは違う」
この話題は嫌いだ。親のように諭されて、何を言われても不愉快でしかない。切り上げたくて墨を取り出すも夏侯惇は追い縋る。
「淵のことは諦めろ」
夏侯淵の話は例として出しただけで、本気で惚れているわけではない。無論夏侯淵のような素敵な男性の元に嫁げるなら万々歳だが、既に彼は妻帯者だ。現代で育った名前には既婚者と結ばれたい願望などない。それよりも。
(鈍すぎるんだけど)
名前が慕っているのは目の前で仲人を務めようと四苦八苦しているこの男なのだ。夏侯惇に拾われて以来側に置かれ、無愛想ながらも面倒見のいいところに心惹かれてずっとひよこのように寄り添ってきた。名前もアピールしたときはあったが、気付いているのかいないのか、『冗談は止めろ』とあしらわれて本気にされていないようだった。
隻眼の男はその無くした視界をものともせず戦況を把握し大局を動かす。それなのに名前というちっぽけな女の心一つも読めていないようだ。
名前は墨を擦る。黒いものが硯に溜まって、心中の靄も水に溶け出していった。
「たすけ・・・」
語尾が男の手に吸い込まれていった。夏侯惇とはぐれた街角、治安の良からぬ場所を歩いていたら路地裏に連れ込まれた。男が取り囲む。服を検分しながら名前の値踏みをしているようだ。身代金を要求して金を手に入れるか、それとも辱めて身一つで放り出されるか。名前は己の甘さを呪った。連れと離れた時点でそこを動くべきではなかったのに、見つけようとして歩き出してしまったがために危うい場所へ潜り込んでしまったのだ。
ならず者達が名前の帯についている紐を引っ張った。色で身分が見分けられると聞いている。先につけた印を見ながらにやにやとしているので、名前は良い獲物だったということなのだろう。服を剥がされることなく安心したが、体中に縄を掛けられて裏の倉庫に押し込まれそうになった。
「・・・名前!返事をしろ!名前!」
声がする。聞き覚えのある太い声。口に結ばれた縄が緩んだ瞬間、名前は金切り声で叫んだ。
「惇兄!ここです!」
汚い手が名前の口を再度塞ごうとしたその時、風が巻き起こって男達の体が吹き飛んだ。
「彼方へ飛ばしてやる!」
男の背中が名前の前に立っていた。恋しい人。頼り甲斐のある男。腰が抜けてへたり込んでいると、悪人を始末した上で、それを名前に見せないように夏侯惇が見下ろしていた。怒られる。その前に名前は必死に声を絞り出した。
「ごめんなさい」
子供っぽい。落ち着きがない。色気が感じられない。
昔から周囲に揶揄われた言葉達。分かっていた。自分が夏侯惇に相手にされることなどないと。それでも、迷惑になることだけはするまいと思っていた。自分の過ちで手間を掛けたことが申し訳なかった。
がたがたと震える手。地面を見つめることしかできない。震えているのは安心感か、それとも、この男に嫌われることへの恐怖なのか。
呼ばれた役人が飛んできて男達を引っ立てる。名前の縄を解く夏侯惇の表情が読めない。
「立てるか」
「ごめん、なさい、無理そう」
大きく溜息を疲れたのでどきりとする。呆れられたくない。そう思った瞬間、夏侯惇が名前に背を向けてしゃがんだ。
「世話の焼ける女だな、お前は」
負ぶされということらしい。名前は素直に従ってその背に乗り、腕を首に回した。夕日が照らす街。二人の影が横に伸びていく。初めて男に抱擁できた喜びを感じながら、名前は腕に力を込めた。
嗚呼、この人が好き。優しくて、ぶっきらぼうで、それでも私を見捨てないでいてくれるこの人が。
はあ、と溜め息をつく。夏侯惇が男を引き留めるのはこれで五度目だ。不自然に名前を隣に置いて、急ぎでない題を長く話し込んでいると思ったらこれである。魏の先頭に立つ猛将に女の好みはと突然話し掛けられる青年達が哀れでならなかった。夏侯惇の献身も青年達の苦労も、名前の心一つで無に帰すというのに。
「全く、どんな男だったら気に入るんだ。お前は」
はじめは絵を数枚見せられた。『どうだ』と問われ『何が』と答えるとどうやら見合いの釣書だったらしい。下に家柄や居所、仕事内容、人柄が詳細に記入されている。名前はそれを破り捨てたくなった。見合いなどするわけがないと抵抗したのだが夏侯惇は諦めず、その後何度も名前に年頃の男を目合わせて様子を窺っているのだった。
「私、結婚なんてしません」
「女性が一人で生きていける時世ではない」
「私のいたところではやっていけるんです」
「お前のいた場所とは違う」
この話題は嫌いだ。親のように諭されて、何を言われても不愉快でしかない。切り上げたくて墨を取り出すも夏侯惇は追い縋る。
「淵のことは諦めろ」
夏侯淵の話は例として出しただけで、本気で惚れているわけではない。無論夏侯淵のような素敵な男性の元に嫁げるなら万々歳だが、既に彼は妻帯者だ。現代で育った名前には既婚者と結ばれたい願望などない。それよりも。
(鈍すぎるんだけど)
名前が慕っているのは目の前で仲人を務めようと四苦八苦しているこの男なのだ。夏侯惇に拾われて以来側に置かれ、無愛想ながらも面倒見のいいところに心惹かれてずっとひよこのように寄り添ってきた。名前もアピールしたときはあったが、気付いているのかいないのか、『冗談は止めろ』とあしらわれて本気にされていないようだった。
隻眼の男はその無くした視界をものともせず戦況を把握し大局を動かす。それなのに名前というちっぽけな女の心一つも読めていないようだ。
名前は墨を擦る。黒いものが硯に溜まって、心中の靄も水に溶け出していった。
「たすけ・・・」
語尾が男の手に吸い込まれていった。夏侯惇とはぐれた街角、治安の良からぬ場所を歩いていたら路地裏に連れ込まれた。男が取り囲む。服を検分しながら名前の値踏みをしているようだ。身代金を要求して金を手に入れるか、それとも辱めて身一つで放り出されるか。名前は己の甘さを呪った。連れと離れた時点でそこを動くべきではなかったのに、見つけようとして歩き出してしまったがために危うい場所へ潜り込んでしまったのだ。
ならず者達が名前の帯についている紐を引っ張った。色で身分が見分けられると聞いている。先につけた印を見ながらにやにやとしているので、名前は良い獲物だったということなのだろう。服を剥がされることなく安心したが、体中に縄を掛けられて裏の倉庫に押し込まれそうになった。
「・・・名前!返事をしろ!名前!」
声がする。聞き覚えのある太い声。口に結ばれた縄が緩んだ瞬間、名前は金切り声で叫んだ。
「惇兄!ここです!」
汚い手が名前の口を再度塞ごうとしたその時、風が巻き起こって男達の体が吹き飛んだ。
「彼方へ飛ばしてやる!」
男の背中が名前の前に立っていた。恋しい人。頼り甲斐のある男。腰が抜けてへたり込んでいると、悪人を始末した上で、それを名前に見せないように夏侯惇が見下ろしていた。怒られる。その前に名前は必死に声を絞り出した。
「ごめんなさい」
子供っぽい。落ち着きがない。色気が感じられない。
昔から周囲に揶揄われた言葉達。分かっていた。自分が夏侯惇に相手にされることなどないと。それでも、迷惑になることだけはするまいと思っていた。自分の過ちで手間を掛けたことが申し訳なかった。
がたがたと震える手。地面を見つめることしかできない。震えているのは安心感か、それとも、この男に嫌われることへの恐怖なのか。
呼ばれた役人が飛んできて男達を引っ立てる。名前の縄を解く夏侯惇の表情が読めない。
「立てるか」
「ごめん、なさい、無理そう」
大きく溜息を疲れたのでどきりとする。呆れられたくない。そう思った瞬間、夏侯惇が名前に背を向けてしゃがんだ。
「世話の焼ける女だな、お前は」
負ぶされということらしい。名前は素直に従ってその背に乗り、腕を首に回した。夕日が照らす街。二人の影が横に伸びていく。初めて男に抱擁できた喜びを感じながら、名前は腕に力を込めた。
嗚呼、この人が好き。優しくて、ぶっきらぼうで、それでも私を見捨てないでいてくれるこの人が。
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