愛とか恋とか
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天気は快晴、波風良好。今日もモビー・ディック号は平和に航海を続けている。私たちを除いて。
「エースー!!」
私の声を聞いた瞬間に肩をびくりと揺らして瞬時に駆け出したので私もそれに倣って駆け出す。
びたりとエースの真後ろに並んで走っていると、振り返った彼はギョッと目を見開いて「いっ!?」と声を上げた。そして、すぐ様に前を向いて走るスピードも上げる。
「お前、走んの早すぎだろ!」
「海賊たるもの走る速度は重要になって来ます」
エースは私との距離をかなり離せたと思って振り返ったらすぐ真後ろにいた事に驚いたようだ。
ほぼ全力で走って追いかけっこを船内で繰り広げる私たちのやり取りは最早、恒例行事になってしまったようで周囲から「またあいつらがやってら」「飽きないなァ」「今日もエースの勝ちか?」なんて声が聞こえる。
別に競走をしている訳でもないから、勝ち負けなんてないのだけれど、いちいち説明して回るのも億劫なのでそのままにしていた。
「今日こそ捕まえる!」と大きな声でエースに宣言すれば、何故か周囲からの拍手喝采が湧き起こる。それが最近の白ひげ海賊団の日常だ。
追いかけては逃げられ、追いかけては逃げられを繰り返し、幾度エースに近寄っても素早く逃げられてしまう。
「エースー!」
「しつけェな!」
「エースが逃げるからじゃん!」
エースを無我夢中で追いかける私はストーカー…もはや、妖怪。って誰かが前にボソッて言っているのが聞こえた事がある。
私はいつから妖怪になったのだろうか。
失礼しちゃうよね、と心の中で思ったがよくよく考えたら妖怪と言われても仕方ないような行動を取っているような気もするので悲しいけど否定は出来なかった。
やっとの思いでエースの腕を掴んで「捕まえた!」と叫ぶとギャラリーからは感嘆の声が上がる。
だけど、エースは足に炎を纏って高く飛んでマスト上の展望台へ飛び乗ってしまった。
私には飛び乗れるほどの脚力も運動神経も持ち合わせてはいない。
今日も見事に逃げられてしまった。
「今日もナマエの負けだな」
「イゾウ、楽しんでるでしょ」
「追いかけっこの事情をおれは知らないからな」
楽しそうに笑ったイゾウをジロリと睨みつけてもご最もな言葉を返され、私は口を噤む。
私たちの追いかけっこが始まったのは、前回の島で起きた出来事がきっかけだった。
エースは自分が海賊王の息子だから、その事実がいつか私を傷付けるから、一緒には居られないと言う。それが一緒に居られない理由なら嫌だと駄々を捏ねる私と頑なにに距離を取ろうとするエースの攻防戦はここから始まった。
決して逃さないとしつこく追いかける私に多分、エースが嫌気をさすのもそろそろ時間の問題だろう。
私がエースの立場なら絶対に嫌になって来る。分かってはいるけれど、離れるのは嫌で意地になってしまってしまう。
黙り込む私にイゾウは呆れたように笑って「あまりエースを困らせるなよ」と頭を軽く撫でる。
それは分かっていると小さく頷けば「まァ、あいつにはそのくらいしつこくて丁度いいかもな」と呟き、慰めるかのように肩を叩いて去って行った。
「よし、やるぞ!」
両拳を握りしめて自分を鼓舞していると、不意に後ろから名前を呼ばれたので振り返ると少し離れた所にデュースが立っていて、手招きをしていたので、そちらへ駆け寄る。
「どうしたの?私、今エースを追いかけてて」
「ナマエちゃん、その事で話があるんだ。今、少しだけいいかな」
困ったように眉を下げているデュースを見て嫌な予感がした。
エースが追い掛けられる事に嫌気をさして彼に私を止めるよう相談したとは、あまり考えられないが何を言われるのか不安になってしまう。
それが顔に出ていたのか「あいつからは何も聞いてないよ」と先に言われてしまった。
エースは人伝に文句を言って来たりするタイプではないとは思ってはいたけれど、万が一の事を考えてしまったが、それは杞憂に終わったので一安心だ。
「ここで話すのはなんだから、医務室に移動してもいいか?」
「分かった」
医務室に移動すると「そこに座って」と促されたので丸椅子に腰掛ける。
その間にデュースはインスタントコーヒーを淹れてくれ「ブラックでいい?」と問いかけて来たので、大丈夫と答えると湯気の立つマグカップを目の前に差し出した。
マグカップを受け取るとほんのり暖かくて少しだけ緊張が和らぐ。
お互い、コーヒーを一口飲んでホッと息を吐いた。
「さっそく、本題に入ってもいいかな」
「うん、いいよ」
「ナマエちゃんさ、エースの事好き?」
「え?うん、好きだけど」
「仲間としてじゃなくて。一人の人間として、男として好き?」
「それは恋愛感情でって事、だよね?」
そう問えば、デュースは小さく頷いて肯定した。
恋愛感情で好き、と言うのは未だに正直よく分からない。みんなへの好きとエースへの好きが別物なのか、または同じなのか。
どう感じれば恋なのか、好きになるってどういう感情なのかが自分の中で輪郭がハッキリとしていなくて、ぼやけているような感覚だ。
ただ、お菓子をもらってもいないのにエースは特別、いやそれ以上に思っている事を伝えればデュースは嬉しそうに口元を緩めてから「どうしたって基準はお菓子なんだな」と笑った。
「あいつ、父親の話をしただろ」
「うん。エースから聞いた?」
「いや、聞いてないけど二人の今の状況見てたらなんとなく分かるよ」
スペード時代からずっと見て来たからな、と笑った顔はどこか寂しそうに見えた。
どうしてそんな表情をしているのか分からず、黙っているとどうしても思考は嫌な方向にいってしまう。
父親の事を知ったのなら、もうエースを追うのはやめろとか、迷惑かけるなとか言われてしまいそうでぎゅっと目を瞑った。
「あいつの父親が海賊王でどう思った?」
「どうって、関係ないよ。エースはエースだもん」
「そう、だよなァ。おれも今はそう思ってる。だけど、あいつだけはそう思ってないんだ」
デュースはエースと初めて会った日の事と今、彼がエースに抱いている想いを話してくれた。
「おれさ、最初にエースに会った時、あいつに向かって酷ェ事を言っちまったんだ」
「ひどい事?」
デュースは自分の生まれが一番不幸だと思い込み、仲の良い弟が居て帰る場所があるエースの事を恵まれた人生だと言い、自分の父親が犯罪者だと言った彼に暴言にも似た言葉を投げてしまったらしい。
「どうせたいした悪党でもねェんだろが!自意識過剰なんだよ!そこらのちっちゃな犯罪者のことなんざ誰も気にしちゃいねェ!それどころかお前のことなんぞ、みんないちいち考えてもいねェだろうよ!そりゃあ、犯罪者は犯罪者でもたとえば親が海賊王だっていうんなら悩むのはわかるぜ?そいつは最悪だよな。死にたくなるぜ。けど、お前はそうじゃねェだろ?なあ?勝手に悲劇の主人公を気取っているな」と。
「あいつに向けて言ってしまった言葉を一語一句、覚えてるよ。そう言った時のエースの表情も。悲劇の主人公を気取っていたのはおれの方だったのにな」
後悔していると呟いたデュースの瞳には薄い膜が張られていた。
エースが父親を憎んでいること、海賊王が父親であるせいで心ない言葉を投げつけられて生きて来たこと、エースが自分をどういう風に思っているのか、それらを聞いて胸が潰されるように苦しくて痛くて、悲しかった。そして、悔しかった。
今までエースが寂しそうな表情を浮かべていたり、不意に影を落とすのを傍で見ていた癖にどうしたらいいか分からず、何もしなかった自分に腹が立つ。
前に「おれと一緒に居たいとか、そう思ってくれんのって、嘘だったとしても嬉しいもんだな。誰もそんな風に思ってくれねェと思ってた」と言っていた事を思い出した。
こんなにもエースの心の傷を知るヒントはいくつも側にあったというのに。
その時に手を差し伸べられていたら、少しくらいは心を救えていたかもしれない。
そんな事は驕っているのかもしれないけれど、それでも少なくともエースが今、私から距離を取るような行動を取ったりしなかったはず。
いつも私だけがエースに救ってもらってばっかりで、何も返せていない。むしろ、私は自分の事ばっかりで、傷つけている事の方が多いだろう。
「エースにとって生きると言うことはさ、心を削られるのと同じことなんだ」
デュースのその言葉は私の心を深く抉るのに十分だった。本当に心臓から血が溢れ出ているかのようにジンジンと熱くなって痛みが増す。
目頭が熱くなり、勝手に涙が溢れ出てぼろぼろと流れ落ちて服の袖で何度拭っても止める事は出来ない。
「そうやってナマエちゃんが自分の事で傷付いて泣くのを分かってるから、あいつ、逃げてんだよ」
泣き止みたいのに意思とは反して余計に止まらなくなる自分の涙腺が憎い。前まで泣く事なんてなかったのにエースと出会ってから狂い始めて来てしまった。
閉ざしていた扉が無理矢理、壊されてしまったかのように自分でも戸惑うくらいに感情が溢れ出してしまう。
「自分が傷付く事は厭わない癖にさ、仲間や大切な奴が傷付くのを何よりも嫌がる。怖いんだろうな、大切なヤツが居なくなっちまうのが」
「私、エースの事、追い詰めさせちゃってたかな」
「…あいつ、誰よりも優しいからな」
そう、エースは優しい。人の痛みを自分の痛みかのように受け取り、寄り添ってくれて代わりに怒ってくれるような人。
自分の痛みには諦めたように笑う癖に他人の痛みには顔を歪めてしまう人。普段は自分勝手な癖に大事な時には人のことばかり考えてしまう人。
「ナマエちゃん。エースの事、好き?」
デュースの諭すような優しい声色にずっと分からなかった感情が胸にストンと落ちて来て、ぼやけていた物がクリアになって輪郭がハッキリとしていく。
…あぁ、そうか。私はエースが好きなんだ。仲間とか家族としてじゃなくて、一人の人として好きなんだ。
気づけるチャンスはずっと傍にあったのにどうして今まで気づかなかったのだろうと不思議に思うくらいにエースが好きだという感情が溢れ出して止まらなくなる。
漏れる嗚咽が邪魔をして言葉にならなくて何度も深く頷くとデュースは柔らかく笑って「あいつ、喜ぶんじゃねェかな。今は素直じゃねェけど」と言った。
「エースはバカでアホでどうしようもない人。でも、不器用だけど太陽みたいな暖かさで包み込んでくれる優しい所が大好き…っ!」
「あァ、おれもだ」
デュースが優しく頭を撫でてくれ、その手の暖かさに安心して更に涙が零れてしまう。
そんな私を子供を宥める親のように優しい眼差しで見守ってくれていた。
「…好きになるってこんなにも苦しいんだね。苦しいけど、私、この気持ちを手離したくない」
「…うん、そうしてやって欲しい。あいつも今、同じように苦しいハズだから」
苦しんでいるエースをこれ以上苦しめたくなくて、これから先どうしていいか、迷いが生じてしまった。
さっきまでは諦めずにいようと思っていたけど、私がエースに近付けば近づくほどに苦しめてしまうかもしれないと思うと、躊躇ってしまう。
私の迷いを察したデュースは顎に手を当てて考える素振りを見せたあと「今まで通りでいいんじゃねェかな。少し強引の方があいつには効くさ」と言った。
その言葉に少しだけ気持ちが晴れて楽になる。
「ありがとう、デュース」
「それはおれのセリフだよ」
「どうして?」
「エースを好きになってくれて、ありがとう。おれはそれが一番嬉しい」
デュースの優しい言葉にまた泣き出してしまいそうになった。
✴︎
ナマエとの攻防戦を幾度も繰り返し、逃げ続ける日々が続いている。
一週間が過ぎた辺りでサッチには「飽きねェの?」聞かれたが、飽きないのはおれじゃなくて、ナマエの方だ。
今も呆れたように「まだやってんの?」と聞いてくる。
「あいつが諦めねェから」
「折れりゃいいじゃねェか。お前が」
「おれかよ」
「あいつはしつけェぞ。昔、ジョズに菓子貰う為に3日は追い回してた」
「菓子くらいやればいいじゃねェか」
「ジョズがあいつの分だと知らずに食っちまってなかったんだよ」
「それはジョズが悪ィ。食いもんの恨みは怖ェからな」
そんな話をしながらサッチの仕込みの手伝いで食材を切っているのだが、あまり会話の内容は頭には入って来なくてナマエの事ばかり考えてしまう。
おれだって折れていいものなら、素直に歩寄りたいとは思うが、それはダメだと自制心が止める。
「全く、何やってんだかね。男なら自分の気持ちに素直になってチューでもして来いってんだ」
「はァ!?」
サッチの突然の発言に動揺してしまって切っていたジャガイモの代わりに自分の指を切ってしまった。
神経の集まった指先は浅く切っただけなのに血は止まらず、ダラダラと垂れ落ちていく。
黙り込んだおれを不思議に思ったサッチが手元を覗き込んではギョッと目を見開いた。
「おれが切ってくれって頼んだのはジャガイモだぞ。お前の指じゃねェ」
「サッチがアホな事言うから、誤って切っちまったんだよ」
「アホって…。だって、チュー、したくないの?」
「オッサンがチューとかキモいんだよ」
「えー…じゃあ、接吻」
「言い方の問題じゃねェよ」
突き放すように言えば、サッチは不満そうに口を尖らせた。オッサンが拗ねても可愛くねェっての。
「そんなんだから、お前は初恋童貞って言われんだよ」
「あ!?誰にだよ」
「主におれだな」
「二度とそのくだらねェあだ名で呼ぶんじゃねェぞ」
サッチが「つれないねェ」とぶつくさ文句を言いながらもタオルを差し出して来たので、それを受け取り指に巻き付けて止血していると「ここはもういいから医務室で手当してもらって来い」と言われた。
だけど、このくらいほっといても平気だと断っるとケツを蹴られて厨房を追い出されてしまったので渋々、医務室の向かう。
指を切ったくらいで大袈裟な…と思いながらも一応、絆創膏くらい貰っておくかと医務室のドアを開こうとすると、前におれが蹴破って半壊されたままになっていて、ドアは半分開いていた。
ナマエの怪我もとっくに治ったくらいには日は経つのにドアは直さねェのかよ、とデュースに言おうと思ったが、絶対に「壊したのはお前なんだから、お前が直すのが筋だろ」と正論かまして来るのは容易に想像出来たので黙っておこう。
意味なんてほぼ成してないドアノブに手を伸ばした瞬間に中から微かに声が聞こえて来たので、
中に誰か居るのかと少し開いている隙間から覗いてみると、中にはデュースとナマエが見えた。
出直そうかと思っているとナマエが「不器用だけど太陽みたいな暖かさで包み込んでくれる優しい所が大好き…っ!」と言っているのが聞こえ、時が止まってしまったかのように動けなくなってしまう。
これ以上聞いたら後悔しそうで、早く立ち去れと脳は言うのに、身体は脳と切り離されてしまったかのように反応が出来ない。
ナマエは背を向けているから表情は見えないが、その前に立っているデュースは微笑みながら「あァ、おれもだ」と答えた。
見たこともないような眼差しでナマエを見つめ、頭を撫でている様子が見えて、居た堪れなくなってようやく身体と脳がリンクして早足でその場を立ち去る。
脳内にずっとナマエが言ったあの言葉「不器用だけど太陽みたいな暖かさで包み込んでくれる優しい所が大好き」だけがひたすらに木霊して、虚しさに襲われた。
おれとは真逆だな、と自嘲することしか出来ない。
デュースとナマエ…か。いいんじゃねェの、あいつはおれと違って大人で良い奴だし。
そう思うのに、心のどこかでナマエ隣に居るのがおれじゃないの事が嫌で、唇をグッと噛み締めた。
甲板の隅に移動して船縁にもたれかかって海を眺めているが、おれの感情とは裏腹に穏やかな海に嫌気が差す。
海は好きな癖に自分勝手に嫌気が差している事にも自分から逃げた癖に傍に居られなくなるのが嫌なのも全部自分のせいなのに、こんな感情を抱いている事が腹立たしい。
ため息を吐くと後から肩を叩かれ、振り向くとそこには目を赤くして泣いたような跡を残したナマエが立っていた。
「エース、こんな所にいたんだね」
「…ああ」
「逃げないの?」
おれが逃げない事に驚いたように目を微かに開いてジッと見つめて来る。
何も考えがまとまらないうちに会ってしまったから、逃げる事も忘れてしまった。
何を言ったらいいか分からず、黙っているとナマエは顔を覗き込んで来る。
いつもならここで仰け反って避けるのに、今はその気にすらならない。
そのまま腕を引いて自分の腕の中に閉じ込めてしまいたいという感情に駆られ、腕を伸ばしかけたが、なんとか理性を保って抱き寄せる事を止めた。
意志が弱いことに腹が立ち、拳を握りしめる。
「お前、デュースの事…」
好きなんだろ?と聞こうとしたが、それ以上は口には出せなかった。
好きだと聞いてしまったら、自分がどんな行動に出てしまうのかが怖くて、どうしても言い出せない。
突然、出て来たデュースの名に不思議そうに首を傾げていた。
「…あいつなら、お前を大事にしてくれんだろ」
「は?いきなり、何を言ってるの?」
医務室でのやり取りをおれが偶然に聞いてしまった事に気が付いていないようで呆けた顔をしている。
ぽかんと口を開けたまま、おれの顔を凝視して来るナマエから視線を逸らし、床の板目を見つめながら、強く握り締めた拳は爪が掌に食い込む程だった。
「お前とデュース、お似合いだぜ」
顔すらまともに見れない癖にそんな言葉を吐き捨てるように言ってしまう。息を飲むような音が聞こえ、ようやくおれがあの会話を聞いていた事に気が付いたようだった。
そのまま踵を返して、逃げるようにその場を立ち去るが足は鉛のように重く、一歩進むのに時間がかかるような感じがする。
どうせ情けねェ顔をしてんのは自分でも分かっているから早く逃げ出したいのに、このまま行ってしまうと本当に全部が終わってしまうような気がして離れ難い。
終わりもなにも、始まってすらいないというのに。
今はまだ、どんな顔していいか分からねェ。
初めて好きになった女と大事な相棒。
大切な2人が幸せなら、それでいいじゃねェか。
まるで自分に言い聞かせるようなセリフを頭の中で言いながら、重い足を引き摺るように少しずつ進めていると背後から「エース!」とおれを呼ぶ声が聞こえ、思わず足を止める。
それと同時に走っているような軽快な足音が聞こえたと思った次の瞬間、物凄い衝撃を背中に感じた。
踏ん張る事をし損ねたおれはそのまま思いっきり床に顔面から倒れてしまう。
痛みの走る背中と打ち付けた鼻、どちらを優先して押さえるべきかも分からないまま、振り返ればすぐ真後ろにナマエが立っていた。
泣くのを我慢しているかのように唇を噛み締めて、グッと眉間に皺を寄せている表情を見て、おれは身動きが取れなくなってしまう。
暫くして背中に衝撃が走ったのは、おれに飛び蹴りをしたのだと理解し、余計に混乱し始めた。
なんで、泣きそうになってんだよ…。
「いや…、お前、飛び蹴りって…」
絞り出した言葉がこれかよ。
自分の語彙力の低さに嫌気がさす。もっと別の言葉はねェのかよ、と心の中で言ってみても、口からは微かな呼吸音しか出ない。
「エースのバカ!!」
「…は?」
「バーカ!バーカ!!」
「はァ!?お前なァ!ガキじゃねェんだぞ!」
「エースなんて、足の小指を角にぶつけて悶えればいいんだ!!」
「地味に痛ェやつチョイスして来んなよ!」
「それ以上に私の心は痛いんだから!!」
バカバカと連呼してから、一目散に脱兎のごとく逃げ去って行く。
それでも、おれは動く事が出来ずに既に遠くなったナマエの背中をぼんやりと眺めていると、近くで床がギシッと音を鳴らした。
鳴った方へ視線を向けようとするが突然、頭に手を乗せられて被っていた帽子が深くズレて視界が狭まる。
「お前らは何やってんだ」
「…イゾウか」
姿は見えなくても声で分かり、名前を呼ぶとイゾウはおれの隣に静かに腰を下ろして、おれの顔を覗き込むとフッと口元を緩めた。
「かくとだに えやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを」
「…は?ンだよ、それ」
「ワノ国の歌人の和歌だ。昔、よく弟と一緒に百人一首で遊んだものさ」
「百人一首…?」
そう言えば、昔、スペード海賊団時代にワノ国に行った時にそんな遊びがあるとか言ってたような気がする。1回だけやったが、何を言ってんのかサッパリで惨敗した記憶がある。
今もイゾウが詠んだそれの意味は全く理解できずに首を傾げていると「今のお前そのままだ」と言った。
今のおれってなんだ。
飛び蹴りされたって和歌か?と聞けば、イゾウはぷッと吹き出して「あれは、見事な飛び蹴りだったな」と笑い出した。
どうやら、そこもバッチリ見られていたらしい。
ひとしきり笑い終えたイゾウはゆっくりと腰を上げて、目の前に手を差し伸べて来たのでその手を掴むと一気にグッと力を込めて引き上げてくれ、立ち上がった。
「お前は不器用で優しい奴さ。でも、時にはその優しさが人を傷付けるという事も覚えておいた方がいい」
そう言い残し、船内に戻ろうと踵を返したので慌てて引き止めて「さっきの、なんて意味」って聞くと、振り返ったイゾウは真っ直ぐにおれを見る。
射抜くような視線に捉えられていると、眉間を人差し指でつつかれた。
「"こんなにも思っているのに口にすることも出来ない。火のように燃える恋心なんて、きっとあなたは知らないでしょうね"」
その意味に目を見開いてしまう。
心を見透かされたようなその言葉に息が詰まる。
「あいつはお前の気持ちなんて知らないんだ。そして、お前もあいつの本当の気持ちを知らない。口にしなきゃ、伝わるものも伝わらないだろう」
伝えていいのかも分からないのに、どうしたらいいんだ、と心の中で呟きながら、自分の情けなさに奥歯をグッと噛み締めた。
「何を迷う?いつもの直球のお前でいいじゃないか。自分の心に素直に生きろ」
「…でもよ、」
「振られたら慰めてやるから、おれのところに来い」
「金平糖ならいらねェぞ」
「おれはそれ以外の慰め方を知らないな」
冗談めかして言ったイゾウは「まァ、慰めなんて必要ないだろうけどな」と言葉を残して船内へと戻って行った。
「…自分の心に素直に、か」
ボソッと零した言葉に覚悟を決めて、顔を上げた。
2人の仲を邪魔しようとか、そんな風には思ってはいない。ただ、自分の心を素直に伝えたいと思った。
これでハッキリと「デュースが好きだ」と言われてもちゃんと、認められるように。
思い立ったら即行動に移そうとナマエを探す為に船内を歩き回る。
ここで日を跨いでしまったら、またズルズルと引きずって何も言えなくなってしまうだろう。
そうならない為にも今すぐに言葉にしようと決めた。
だけど、広い船内をいくら探し回っても見当たらなくてサッチやマルコたちに聞いても居場所は知らないと言われ、会えず終いだ。
夕飯の時間になってもナマエは食堂にも厨房にも居なくて、夜中なら部屋に戻っているだろうと踏んで突撃してみたが、当ても外れて部屋の中はもぬけの殻だった。
もう一回、厨房を覗き込んでもサッチしか居らず、何処にいるのか尋ねても答えは同じだった。
「今、部屋に行ったけど居なかったんだよなァ」
「え、こんな夜更けに女の部屋に行くなんて、いやらしい」
サッチの戯言に付き合っている暇はないので軽くシカトしてそのまま厨房を出ようとすると「今度はお前が追い掛ける番?」と聞かれ、足を止める。
「…あァ、悔いは残したくねェからな」
サッチはにんまりと笑って「行ってこい」と背中を強めに叩いた。
地味に痛かったが、喝を入れてくれたかのように感じて心強い。
とにかく、ナマエをみつけようと必死に探し回っていると、ようやくその姿を捉えた。
夕方に会ったきり、探し回って会えたのが夜中の4時すぎで、こんなにも広い船を恨めしく思ったのは今日が初めてだ。
おれたちが夕方に言い合っていた場所から反対の甲板の船縁にもたれかかっているナマエに緊張しながらも近付く。
近付くにつれて横顔がハッキリと見え、足を止めてしまった。泣いていたからだ。
泣いている顔を見たら、また動けなくなってしまう。おれはあいつの泣き顔に滅法弱いみてェだ。
少しの距離を保ちながら立ち止まっていると、月に照らされて伸びた影に気が付いてゆっくりとこっちを向く。
おれだと気がつくと気まずそうに視線を逸らしてから、零れていた涙をゴシゴシと腕で拭い始めた。
「…あの、さ。さっきは悪かった」
緊張で声は揺れ、言葉も途切れ途切れで足と手も微かに震えていて情けない気持ちになるが、それでも、歪でも格好悪くても自分の言葉でちゃんと伝えたくて、必死に言葉を紡ぐ。
言葉を掛けても、顔を上げてくれないのが寂しくて、距離を詰めて目の前に立つ。
近くに行くと緊張で自分の心臓の音が大きくなり、周囲の音が遠く感じる。
考えもまとまっていないけれど自分の心に素直に、真っ先に思い浮かんだ言葉を素直に口にした。
「好きだ」
おれの言葉に弾かれるように顔を上げたナマエは意味を理解出来ていないのか、予想だにしないおれの言葉に呆気に取られているのか。
大きな瞳を更に大きく開き、固まっていた。
「さっきはああ言ったけど。デュースじゃなくておれを、選んでくれねェか」
スっと右手を差し出すと、困惑したかのようにおれの右手と顔を見比べた。
「…おれの手を、取って欲しい」
ずっと差し出す事の出来なかった手。
差し出して貰っても掴めなかった手。
おれには自分の心に溢れ出た感情を素直に伝える方法はこれしかない。
上手い言葉も何も持ってないから、拙い言葉だけれど、精一杯の本音。
掴めないと拒んだ手を何度も伸ばしてくれて、それでもおれは掴む事を恐れた。
おれのせいで傷付けるのが嫌だったから。
今更、手を伸ばしても遅いけれど、ナマエは応える事が出来なかったとしてもそれを無下にするようなヤツじゃないから、きっと真正面から受け止めてちゃんと返してくれる筈だ。
心臓が痛いくらいに高鳴って、緊張のし過ぎで気持ち悪くなって来る。
何も言わずに立ち尽くしていて、その無言の時間でおれの思考回路はぶっ壊れてしまいそうで、必死に繋ぎとめようと奥歯を噛み締めながら瞼を強く閉じた。
情けない程に震える手に小さな温もりがソッと触れ、閉じていた瞼をゆっくりと開けばナマエがすぐ目の前に立っていて、涙をハラハラと零しながら微笑みを浮かべておれの手をしっかりと掴んでいる。
「私もエースが好き」
「…は?え、いや、嘘だろ」
「え、ちょっと!嘘ってなに!?酷くない!?」
「だって、お前はデュースが好きなんじゃねェのかよ!」
「さっきから、なんでデュースなの?」
意味分からないと言いだけに眉を顰めるナマエに医務室での2人のやり取りを偶然聞いてしまった事を正直に話せば、ボッと一気に顔を赤くして慌てふためき始めた。
やっぱり、あの会話はおれの聞き間違いなんかではなく、事実なんだと分かり、今聞いた「エースが好き」という言葉はなんだったのだろうと混乱する。
「あれは、エースの事を言ってたの。聞かれてるとは思ってなかった」
「おれじゃねェだろ。だって、太陽みてェって言ってたろ」
「うん。だから、それエースの事」
「太陽って、おれが…?」
照れくさそうに視線を外しながら話していたナマエは真っ直ぐにおれの目を見つめて来た。
「私にとってエースは太陽みたいな存在だよ。私の生きる道を照らしてくれる、優しい光」
太陽みたいなのはお前だろ、と口にしようとしたが感情が昂っていて上手く言葉に出来ない。
自分自身の事をそんな人間だと思った事はなくて、むしろ太陽みたいな人間というのはナマエみたいなヤツの事だと思っていて、自分とは真逆の位置に居る、存在だと決め付けていた。
だけど、ナマエは最初からおれと同じ居場所に居たというのだろうか。
その事実が信じられずにいて、確証が欲しくて自分よりもひと回りほども小さな手を壊してしまわないように、宝物に触れるみたいに優しく包み込むように握り返した。
「おれは生まれてきてもよかったのか…その答えすら分からねェ人間だ」
「エースにとって生きる事は心を削るような事だったとしても、ごめんね。それでも私はエースに生きていて欲しい」
生きていて欲しい、ずっと欲しかった言葉をくれたナマエ。
前に言ってくれた言葉よりも重みが違うように感じた。あの頃はおれが海賊王の息子だと知らずに言っていたが、今は違う。
そうだと知っても尚、そう思ってくれている。
おれを1人の人間として見てくれている事が何よりも嬉しかった。
「エースを好きでいると凄く苦しくなる。でも、苦しくても傷付いたとしてもエースを好きって気持ちだけは手離せない。それが私の好きの形なんだ」
ふわりと笑ったナマエは「エースが居なくなる方がもっと苦しいから」と告げられ、堪らなくなって今度は躊躇うことなく、手を伸ばした。
頬に手を添えて、柔らかな温もりを掌で感じながら、するりと手を滑らせて背中と後頭部へと手を回して、自分の方へ引き寄せる。
後ろから抱き締めた事はあっても正面から抱き締めた事はなくて、それも本人の意思関係なく勝手にしてしまった事だった。
ナマエも腕を伸ばして背中に回して抱き締め返してくれた事が想いが通じあった事を示しているみたいで嬉しくもあり、妙に照れくさかった。
「…エース、頭から若干、火出てるよ」
「あー…おう。ほっとけ」
「顔も真っ赤」
「だーッ!るっせェ!いちいち、実況すんな!恥ずかしくなんだろ!!」
甘ったるい雰囲気になったと思いきや、いつものような騒がしさがすぐに戻って来て、おれたちらしくて笑いが溢れるとナマエも同じ事を思ったようで「いつもと変わらないね」と笑った。
───────なぁ、ジジイ。おれは生まれてきても良かったのかな
───────そりゃあ、おまえ…生きてみりゃ分かる
ジジイの言う通りだったのかもな。
もしも、ナマエとこの先も一緒に生きて行く事が許されるのなら、その答えが見つかるかもしれねェ。
沈んでいた太陽が水平線から顔を覗かせ、おれたちを照らす。
眩しい光が包み込む温かさが心地良い。おれはこの太陽の光を居心地が悪いだなんて思う事はもうないだろう。
事実が変わることはないし、たまに息苦しく感じる事もあるかもしれない。それでも、夜明けは確かにやってきたのだから。
「エースー!!」
私の声を聞いた瞬間に肩をびくりと揺らして瞬時に駆け出したので私もそれに倣って駆け出す。
びたりとエースの真後ろに並んで走っていると、振り返った彼はギョッと目を見開いて「いっ!?」と声を上げた。そして、すぐ様に前を向いて走るスピードも上げる。
「お前、走んの早すぎだろ!」
「海賊たるもの走る速度は重要になって来ます」
エースは私との距離をかなり離せたと思って振り返ったらすぐ真後ろにいた事に驚いたようだ。
ほぼ全力で走って追いかけっこを船内で繰り広げる私たちのやり取りは最早、恒例行事になってしまったようで周囲から「またあいつらがやってら」「飽きないなァ」「今日もエースの勝ちか?」なんて声が聞こえる。
別に競走をしている訳でもないから、勝ち負けなんてないのだけれど、いちいち説明して回るのも億劫なのでそのままにしていた。
「今日こそ捕まえる!」と大きな声でエースに宣言すれば、何故か周囲からの拍手喝采が湧き起こる。それが最近の白ひげ海賊団の日常だ。
追いかけては逃げられ、追いかけては逃げられを繰り返し、幾度エースに近寄っても素早く逃げられてしまう。
「エースー!」
「しつけェな!」
「エースが逃げるからじゃん!」
エースを無我夢中で追いかける私はストーカー…もはや、妖怪。って誰かが前にボソッて言っているのが聞こえた事がある。
私はいつから妖怪になったのだろうか。
失礼しちゃうよね、と心の中で思ったがよくよく考えたら妖怪と言われても仕方ないような行動を取っているような気もするので悲しいけど否定は出来なかった。
やっとの思いでエースの腕を掴んで「捕まえた!」と叫ぶとギャラリーからは感嘆の声が上がる。
だけど、エースは足に炎を纏って高く飛んでマスト上の展望台へ飛び乗ってしまった。
私には飛び乗れるほどの脚力も運動神経も持ち合わせてはいない。
今日も見事に逃げられてしまった。
「今日もナマエの負けだな」
「イゾウ、楽しんでるでしょ」
「追いかけっこの事情をおれは知らないからな」
楽しそうに笑ったイゾウをジロリと睨みつけてもご最もな言葉を返され、私は口を噤む。
私たちの追いかけっこが始まったのは、前回の島で起きた出来事がきっかけだった。
エースは自分が海賊王の息子だから、その事実がいつか私を傷付けるから、一緒には居られないと言う。それが一緒に居られない理由なら嫌だと駄々を捏ねる私と頑なにに距離を取ろうとするエースの攻防戦はここから始まった。
決して逃さないとしつこく追いかける私に多分、エースが嫌気をさすのもそろそろ時間の問題だろう。
私がエースの立場なら絶対に嫌になって来る。分かってはいるけれど、離れるのは嫌で意地になってしまってしまう。
黙り込む私にイゾウは呆れたように笑って「あまりエースを困らせるなよ」と頭を軽く撫でる。
それは分かっていると小さく頷けば「まァ、あいつにはそのくらいしつこくて丁度いいかもな」と呟き、慰めるかのように肩を叩いて去って行った。
「よし、やるぞ!」
両拳を握りしめて自分を鼓舞していると、不意に後ろから名前を呼ばれたので振り返ると少し離れた所にデュースが立っていて、手招きをしていたので、そちらへ駆け寄る。
「どうしたの?私、今エースを追いかけてて」
「ナマエちゃん、その事で話があるんだ。今、少しだけいいかな」
困ったように眉を下げているデュースを見て嫌な予感がした。
エースが追い掛けられる事に嫌気をさして彼に私を止めるよう相談したとは、あまり考えられないが何を言われるのか不安になってしまう。
それが顔に出ていたのか「あいつからは何も聞いてないよ」と先に言われてしまった。
エースは人伝に文句を言って来たりするタイプではないとは思ってはいたけれど、万が一の事を考えてしまったが、それは杞憂に終わったので一安心だ。
「ここで話すのはなんだから、医務室に移動してもいいか?」
「分かった」
医務室に移動すると「そこに座って」と促されたので丸椅子に腰掛ける。
その間にデュースはインスタントコーヒーを淹れてくれ「ブラックでいい?」と問いかけて来たので、大丈夫と答えると湯気の立つマグカップを目の前に差し出した。
マグカップを受け取るとほんのり暖かくて少しだけ緊張が和らぐ。
お互い、コーヒーを一口飲んでホッと息を吐いた。
「さっそく、本題に入ってもいいかな」
「うん、いいよ」
「ナマエちゃんさ、エースの事好き?」
「え?うん、好きだけど」
「仲間としてじゃなくて。一人の人間として、男として好き?」
「それは恋愛感情でって事、だよね?」
そう問えば、デュースは小さく頷いて肯定した。
恋愛感情で好き、と言うのは未だに正直よく分からない。みんなへの好きとエースへの好きが別物なのか、または同じなのか。
どう感じれば恋なのか、好きになるってどういう感情なのかが自分の中で輪郭がハッキリとしていなくて、ぼやけているような感覚だ。
ただ、お菓子をもらってもいないのにエースは特別、いやそれ以上に思っている事を伝えればデュースは嬉しそうに口元を緩めてから「どうしたって基準はお菓子なんだな」と笑った。
「あいつ、父親の話をしただろ」
「うん。エースから聞いた?」
「いや、聞いてないけど二人の今の状況見てたらなんとなく分かるよ」
スペード時代からずっと見て来たからな、と笑った顔はどこか寂しそうに見えた。
どうしてそんな表情をしているのか分からず、黙っているとどうしても思考は嫌な方向にいってしまう。
父親の事を知ったのなら、もうエースを追うのはやめろとか、迷惑かけるなとか言われてしまいそうでぎゅっと目を瞑った。
「あいつの父親が海賊王でどう思った?」
「どうって、関係ないよ。エースはエースだもん」
「そう、だよなァ。おれも今はそう思ってる。だけど、あいつだけはそう思ってないんだ」
デュースはエースと初めて会った日の事と今、彼がエースに抱いている想いを話してくれた。
「おれさ、最初にエースに会った時、あいつに向かって酷ェ事を言っちまったんだ」
「ひどい事?」
デュースは自分の生まれが一番不幸だと思い込み、仲の良い弟が居て帰る場所があるエースの事を恵まれた人生だと言い、自分の父親が犯罪者だと言った彼に暴言にも似た言葉を投げてしまったらしい。
「どうせたいした悪党でもねェんだろが!自意識過剰なんだよ!そこらのちっちゃな犯罪者のことなんざ誰も気にしちゃいねェ!それどころかお前のことなんぞ、みんないちいち考えてもいねェだろうよ!そりゃあ、犯罪者は犯罪者でもたとえば親が海賊王だっていうんなら悩むのはわかるぜ?そいつは最悪だよな。死にたくなるぜ。けど、お前はそうじゃねェだろ?なあ?勝手に悲劇の主人公を気取っているな」と。
「あいつに向けて言ってしまった言葉を一語一句、覚えてるよ。そう言った時のエースの表情も。悲劇の主人公を気取っていたのはおれの方だったのにな」
後悔していると呟いたデュースの瞳には薄い膜が張られていた。
エースが父親を憎んでいること、海賊王が父親であるせいで心ない言葉を投げつけられて生きて来たこと、エースが自分をどういう風に思っているのか、それらを聞いて胸が潰されるように苦しくて痛くて、悲しかった。そして、悔しかった。
今までエースが寂しそうな表情を浮かべていたり、不意に影を落とすのを傍で見ていた癖にどうしたらいいか分からず、何もしなかった自分に腹が立つ。
前に「おれと一緒に居たいとか、そう思ってくれんのって、嘘だったとしても嬉しいもんだな。誰もそんな風に思ってくれねェと思ってた」と言っていた事を思い出した。
こんなにもエースの心の傷を知るヒントはいくつも側にあったというのに。
その時に手を差し伸べられていたら、少しくらいは心を救えていたかもしれない。
そんな事は驕っているのかもしれないけれど、それでも少なくともエースが今、私から距離を取るような行動を取ったりしなかったはず。
いつも私だけがエースに救ってもらってばっかりで、何も返せていない。むしろ、私は自分の事ばっかりで、傷つけている事の方が多いだろう。
「エースにとって生きると言うことはさ、心を削られるのと同じことなんだ」
デュースのその言葉は私の心を深く抉るのに十分だった。本当に心臓から血が溢れ出ているかのようにジンジンと熱くなって痛みが増す。
目頭が熱くなり、勝手に涙が溢れ出てぼろぼろと流れ落ちて服の袖で何度拭っても止める事は出来ない。
「そうやってナマエちゃんが自分の事で傷付いて泣くのを分かってるから、あいつ、逃げてんだよ」
泣き止みたいのに意思とは反して余計に止まらなくなる自分の涙腺が憎い。前まで泣く事なんてなかったのにエースと出会ってから狂い始めて来てしまった。
閉ざしていた扉が無理矢理、壊されてしまったかのように自分でも戸惑うくらいに感情が溢れ出してしまう。
「自分が傷付く事は厭わない癖にさ、仲間や大切な奴が傷付くのを何よりも嫌がる。怖いんだろうな、大切なヤツが居なくなっちまうのが」
「私、エースの事、追い詰めさせちゃってたかな」
「…あいつ、誰よりも優しいからな」
そう、エースは優しい。人の痛みを自分の痛みかのように受け取り、寄り添ってくれて代わりに怒ってくれるような人。
自分の痛みには諦めたように笑う癖に他人の痛みには顔を歪めてしまう人。普段は自分勝手な癖に大事な時には人のことばかり考えてしまう人。
「ナマエちゃん。エースの事、好き?」
デュースの諭すような優しい声色にずっと分からなかった感情が胸にストンと落ちて来て、ぼやけていた物がクリアになって輪郭がハッキリとしていく。
…あぁ、そうか。私はエースが好きなんだ。仲間とか家族としてじゃなくて、一人の人として好きなんだ。
気づけるチャンスはずっと傍にあったのにどうして今まで気づかなかったのだろうと不思議に思うくらいにエースが好きだという感情が溢れ出して止まらなくなる。
漏れる嗚咽が邪魔をして言葉にならなくて何度も深く頷くとデュースは柔らかく笑って「あいつ、喜ぶんじゃねェかな。今は素直じゃねェけど」と言った。
「エースはバカでアホでどうしようもない人。でも、不器用だけど太陽みたいな暖かさで包み込んでくれる優しい所が大好き…っ!」
「あァ、おれもだ」
デュースが優しく頭を撫でてくれ、その手の暖かさに安心して更に涙が零れてしまう。
そんな私を子供を宥める親のように優しい眼差しで見守ってくれていた。
「…好きになるってこんなにも苦しいんだね。苦しいけど、私、この気持ちを手離したくない」
「…うん、そうしてやって欲しい。あいつも今、同じように苦しいハズだから」
苦しんでいるエースをこれ以上苦しめたくなくて、これから先どうしていいか、迷いが生じてしまった。
さっきまでは諦めずにいようと思っていたけど、私がエースに近付けば近づくほどに苦しめてしまうかもしれないと思うと、躊躇ってしまう。
私の迷いを察したデュースは顎に手を当てて考える素振りを見せたあと「今まで通りでいいんじゃねェかな。少し強引の方があいつには効くさ」と言った。
その言葉に少しだけ気持ちが晴れて楽になる。
「ありがとう、デュース」
「それはおれのセリフだよ」
「どうして?」
「エースを好きになってくれて、ありがとう。おれはそれが一番嬉しい」
デュースの優しい言葉にまた泣き出してしまいそうになった。
✴︎
ナマエとの攻防戦を幾度も繰り返し、逃げ続ける日々が続いている。
一週間が過ぎた辺りでサッチには「飽きねェの?」聞かれたが、飽きないのはおれじゃなくて、ナマエの方だ。
今も呆れたように「まだやってんの?」と聞いてくる。
「あいつが諦めねェから」
「折れりゃいいじゃねェか。お前が」
「おれかよ」
「あいつはしつけェぞ。昔、ジョズに菓子貰う為に3日は追い回してた」
「菓子くらいやればいいじゃねェか」
「ジョズがあいつの分だと知らずに食っちまってなかったんだよ」
「それはジョズが悪ィ。食いもんの恨みは怖ェからな」
そんな話をしながらサッチの仕込みの手伝いで食材を切っているのだが、あまり会話の内容は頭には入って来なくてナマエの事ばかり考えてしまう。
おれだって折れていいものなら、素直に歩寄りたいとは思うが、それはダメだと自制心が止める。
「全く、何やってんだかね。男なら自分の気持ちに素直になってチューでもして来いってんだ」
「はァ!?」
サッチの突然の発言に動揺してしまって切っていたジャガイモの代わりに自分の指を切ってしまった。
神経の集まった指先は浅く切っただけなのに血は止まらず、ダラダラと垂れ落ちていく。
黙り込んだおれを不思議に思ったサッチが手元を覗き込んではギョッと目を見開いた。
「おれが切ってくれって頼んだのはジャガイモだぞ。お前の指じゃねェ」
「サッチがアホな事言うから、誤って切っちまったんだよ」
「アホって…。だって、チュー、したくないの?」
「オッサンがチューとかキモいんだよ」
「えー…じゃあ、接吻」
「言い方の問題じゃねェよ」
突き放すように言えば、サッチは不満そうに口を尖らせた。オッサンが拗ねても可愛くねェっての。
「そんなんだから、お前は初恋童貞って言われんだよ」
「あ!?誰にだよ」
「主におれだな」
「二度とそのくだらねェあだ名で呼ぶんじゃねェぞ」
サッチが「つれないねェ」とぶつくさ文句を言いながらもタオルを差し出して来たので、それを受け取り指に巻き付けて止血していると「ここはもういいから医務室で手当してもらって来い」と言われた。
だけど、このくらいほっといても平気だと断っるとケツを蹴られて厨房を追い出されてしまったので渋々、医務室の向かう。
指を切ったくらいで大袈裟な…と思いながらも一応、絆創膏くらい貰っておくかと医務室のドアを開こうとすると、前におれが蹴破って半壊されたままになっていて、ドアは半分開いていた。
ナマエの怪我もとっくに治ったくらいには日は経つのにドアは直さねェのかよ、とデュースに言おうと思ったが、絶対に「壊したのはお前なんだから、お前が直すのが筋だろ」と正論かまして来るのは容易に想像出来たので黙っておこう。
意味なんてほぼ成してないドアノブに手を伸ばした瞬間に中から微かに声が聞こえて来たので、
中に誰か居るのかと少し開いている隙間から覗いてみると、中にはデュースとナマエが見えた。
出直そうかと思っているとナマエが「不器用だけど太陽みたいな暖かさで包み込んでくれる優しい所が大好き…っ!」と言っているのが聞こえ、時が止まってしまったかのように動けなくなってしまう。
これ以上聞いたら後悔しそうで、早く立ち去れと脳は言うのに、身体は脳と切り離されてしまったかのように反応が出来ない。
ナマエは背を向けているから表情は見えないが、その前に立っているデュースは微笑みながら「あァ、おれもだ」と答えた。
見たこともないような眼差しでナマエを見つめ、頭を撫でている様子が見えて、居た堪れなくなってようやく身体と脳がリンクして早足でその場を立ち去る。
脳内にずっとナマエが言ったあの言葉「不器用だけど太陽みたいな暖かさで包み込んでくれる優しい所が大好き」だけがひたすらに木霊して、虚しさに襲われた。
おれとは真逆だな、と自嘲することしか出来ない。
デュースとナマエ…か。いいんじゃねェの、あいつはおれと違って大人で良い奴だし。
そう思うのに、心のどこかでナマエ隣に居るのがおれじゃないの事が嫌で、唇をグッと噛み締めた。
甲板の隅に移動して船縁にもたれかかって海を眺めているが、おれの感情とは裏腹に穏やかな海に嫌気が差す。
海は好きな癖に自分勝手に嫌気が差している事にも自分から逃げた癖に傍に居られなくなるのが嫌なのも全部自分のせいなのに、こんな感情を抱いている事が腹立たしい。
ため息を吐くと後から肩を叩かれ、振り向くとそこには目を赤くして泣いたような跡を残したナマエが立っていた。
「エース、こんな所にいたんだね」
「…ああ」
「逃げないの?」
おれが逃げない事に驚いたように目を微かに開いてジッと見つめて来る。
何も考えがまとまらないうちに会ってしまったから、逃げる事も忘れてしまった。
何を言ったらいいか分からず、黙っているとナマエは顔を覗き込んで来る。
いつもならここで仰け反って避けるのに、今はその気にすらならない。
そのまま腕を引いて自分の腕の中に閉じ込めてしまいたいという感情に駆られ、腕を伸ばしかけたが、なんとか理性を保って抱き寄せる事を止めた。
意志が弱いことに腹が立ち、拳を握りしめる。
「お前、デュースの事…」
好きなんだろ?と聞こうとしたが、それ以上は口には出せなかった。
好きだと聞いてしまったら、自分がどんな行動に出てしまうのかが怖くて、どうしても言い出せない。
突然、出て来たデュースの名に不思議そうに首を傾げていた。
「…あいつなら、お前を大事にしてくれんだろ」
「は?いきなり、何を言ってるの?」
医務室でのやり取りをおれが偶然に聞いてしまった事に気が付いていないようで呆けた顔をしている。
ぽかんと口を開けたまま、おれの顔を凝視して来るナマエから視線を逸らし、床の板目を見つめながら、強く握り締めた拳は爪が掌に食い込む程だった。
「お前とデュース、お似合いだぜ」
顔すらまともに見れない癖にそんな言葉を吐き捨てるように言ってしまう。息を飲むような音が聞こえ、ようやくおれがあの会話を聞いていた事に気が付いたようだった。
そのまま踵を返して、逃げるようにその場を立ち去るが足は鉛のように重く、一歩進むのに時間がかかるような感じがする。
どうせ情けねェ顔をしてんのは自分でも分かっているから早く逃げ出したいのに、このまま行ってしまうと本当に全部が終わってしまうような気がして離れ難い。
終わりもなにも、始まってすらいないというのに。
今はまだ、どんな顔していいか分からねェ。
初めて好きになった女と大事な相棒。
大切な2人が幸せなら、それでいいじゃねェか。
まるで自分に言い聞かせるようなセリフを頭の中で言いながら、重い足を引き摺るように少しずつ進めていると背後から「エース!」とおれを呼ぶ声が聞こえ、思わず足を止める。
それと同時に走っているような軽快な足音が聞こえたと思った次の瞬間、物凄い衝撃を背中に感じた。
踏ん張る事をし損ねたおれはそのまま思いっきり床に顔面から倒れてしまう。
痛みの走る背中と打ち付けた鼻、どちらを優先して押さえるべきかも分からないまま、振り返ればすぐ真後ろにナマエが立っていた。
泣くのを我慢しているかのように唇を噛み締めて、グッと眉間に皺を寄せている表情を見て、おれは身動きが取れなくなってしまう。
暫くして背中に衝撃が走ったのは、おれに飛び蹴りをしたのだと理解し、余計に混乱し始めた。
なんで、泣きそうになってんだよ…。
「いや…、お前、飛び蹴りって…」
絞り出した言葉がこれかよ。
自分の語彙力の低さに嫌気がさす。もっと別の言葉はねェのかよ、と心の中で言ってみても、口からは微かな呼吸音しか出ない。
「エースのバカ!!」
「…は?」
「バーカ!バーカ!!」
「はァ!?お前なァ!ガキじゃねェんだぞ!」
「エースなんて、足の小指を角にぶつけて悶えればいいんだ!!」
「地味に痛ェやつチョイスして来んなよ!」
「それ以上に私の心は痛いんだから!!」
バカバカと連呼してから、一目散に脱兎のごとく逃げ去って行く。
それでも、おれは動く事が出来ずに既に遠くなったナマエの背中をぼんやりと眺めていると、近くで床がギシッと音を鳴らした。
鳴った方へ視線を向けようとするが突然、頭に手を乗せられて被っていた帽子が深くズレて視界が狭まる。
「お前らは何やってんだ」
「…イゾウか」
姿は見えなくても声で分かり、名前を呼ぶとイゾウはおれの隣に静かに腰を下ろして、おれの顔を覗き込むとフッと口元を緩めた。
「かくとだに えやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを」
「…は?ンだよ、それ」
「ワノ国の歌人の和歌だ。昔、よく弟と一緒に百人一首で遊んだものさ」
「百人一首…?」
そう言えば、昔、スペード海賊団時代にワノ国に行った時にそんな遊びがあるとか言ってたような気がする。1回だけやったが、何を言ってんのかサッパリで惨敗した記憶がある。
今もイゾウが詠んだそれの意味は全く理解できずに首を傾げていると「今のお前そのままだ」と言った。
今のおれってなんだ。
飛び蹴りされたって和歌か?と聞けば、イゾウはぷッと吹き出して「あれは、見事な飛び蹴りだったな」と笑い出した。
どうやら、そこもバッチリ見られていたらしい。
ひとしきり笑い終えたイゾウはゆっくりと腰を上げて、目の前に手を差し伸べて来たのでその手を掴むと一気にグッと力を込めて引き上げてくれ、立ち上がった。
「お前は不器用で優しい奴さ。でも、時にはその優しさが人を傷付けるという事も覚えておいた方がいい」
そう言い残し、船内に戻ろうと踵を返したので慌てて引き止めて「さっきの、なんて意味」って聞くと、振り返ったイゾウは真っ直ぐにおれを見る。
射抜くような視線に捉えられていると、眉間を人差し指でつつかれた。
「"こんなにも思っているのに口にすることも出来ない。火のように燃える恋心なんて、きっとあなたは知らないでしょうね"」
その意味に目を見開いてしまう。
心を見透かされたようなその言葉に息が詰まる。
「あいつはお前の気持ちなんて知らないんだ。そして、お前もあいつの本当の気持ちを知らない。口にしなきゃ、伝わるものも伝わらないだろう」
伝えていいのかも分からないのに、どうしたらいいんだ、と心の中で呟きながら、自分の情けなさに奥歯をグッと噛み締めた。
「何を迷う?いつもの直球のお前でいいじゃないか。自分の心に素直に生きろ」
「…でもよ、」
「振られたら慰めてやるから、おれのところに来い」
「金平糖ならいらねェぞ」
「おれはそれ以外の慰め方を知らないな」
冗談めかして言ったイゾウは「まァ、慰めなんて必要ないだろうけどな」と言葉を残して船内へと戻って行った。
「…自分の心に素直に、か」
ボソッと零した言葉に覚悟を決めて、顔を上げた。
2人の仲を邪魔しようとか、そんな風には思ってはいない。ただ、自分の心を素直に伝えたいと思った。
これでハッキリと「デュースが好きだ」と言われてもちゃんと、認められるように。
思い立ったら即行動に移そうとナマエを探す為に船内を歩き回る。
ここで日を跨いでしまったら、またズルズルと引きずって何も言えなくなってしまうだろう。
そうならない為にも今すぐに言葉にしようと決めた。
だけど、広い船内をいくら探し回っても見当たらなくてサッチやマルコたちに聞いても居場所は知らないと言われ、会えず終いだ。
夕飯の時間になってもナマエは食堂にも厨房にも居なくて、夜中なら部屋に戻っているだろうと踏んで突撃してみたが、当ても外れて部屋の中はもぬけの殻だった。
もう一回、厨房を覗き込んでもサッチしか居らず、何処にいるのか尋ねても答えは同じだった。
「今、部屋に行ったけど居なかったんだよなァ」
「え、こんな夜更けに女の部屋に行くなんて、いやらしい」
サッチの戯言に付き合っている暇はないので軽くシカトしてそのまま厨房を出ようとすると「今度はお前が追い掛ける番?」と聞かれ、足を止める。
「…あァ、悔いは残したくねェからな」
サッチはにんまりと笑って「行ってこい」と背中を強めに叩いた。
地味に痛かったが、喝を入れてくれたかのように感じて心強い。
とにかく、ナマエをみつけようと必死に探し回っていると、ようやくその姿を捉えた。
夕方に会ったきり、探し回って会えたのが夜中の4時すぎで、こんなにも広い船を恨めしく思ったのは今日が初めてだ。
おれたちが夕方に言い合っていた場所から反対の甲板の船縁にもたれかかっているナマエに緊張しながらも近付く。
近付くにつれて横顔がハッキリと見え、足を止めてしまった。泣いていたからだ。
泣いている顔を見たら、また動けなくなってしまう。おれはあいつの泣き顔に滅法弱いみてェだ。
少しの距離を保ちながら立ち止まっていると、月に照らされて伸びた影に気が付いてゆっくりとこっちを向く。
おれだと気がつくと気まずそうに視線を逸らしてから、零れていた涙をゴシゴシと腕で拭い始めた。
「…あの、さ。さっきは悪かった」
緊張で声は揺れ、言葉も途切れ途切れで足と手も微かに震えていて情けない気持ちになるが、それでも、歪でも格好悪くても自分の言葉でちゃんと伝えたくて、必死に言葉を紡ぐ。
言葉を掛けても、顔を上げてくれないのが寂しくて、距離を詰めて目の前に立つ。
近くに行くと緊張で自分の心臓の音が大きくなり、周囲の音が遠く感じる。
考えもまとまっていないけれど自分の心に素直に、真っ先に思い浮かんだ言葉を素直に口にした。
「好きだ」
おれの言葉に弾かれるように顔を上げたナマエは意味を理解出来ていないのか、予想だにしないおれの言葉に呆気に取られているのか。
大きな瞳を更に大きく開き、固まっていた。
「さっきはああ言ったけど。デュースじゃなくておれを、選んでくれねェか」
スっと右手を差し出すと、困惑したかのようにおれの右手と顔を見比べた。
「…おれの手を、取って欲しい」
ずっと差し出す事の出来なかった手。
差し出して貰っても掴めなかった手。
おれには自分の心に溢れ出た感情を素直に伝える方法はこれしかない。
上手い言葉も何も持ってないから、拙い言葉だけれど、精一杯の本音。
掴めないと拒んだ手を何度も伸ばしてくれて、それでもおれは掴む事を恐れた。
おれのせいで傷付けるのが嫌だったから。
今更、手を伸ばしても遅いけれど、ナマエは応える事が出来なかったとしてもそれを無下にするようなヤツじゃないから、きっと真正面から受け止めてちゃんと返してくれる筈だ。
心臓が痛いくらいに高鳴って、緊張のし過ぎで気持ち悪くなって来る。
何も言わずに立ち尽くしていて、その無言の時間でおれの思考回路はぶっ壊れてしまいそうで、必死に繋ぎとめようと奥歯を噛み締めながら瞼を強く閉じた。
情けない程に震える手に小さな温もりがソッと触れ、閉じていた瞼をゆっくりと開けばナマエがすぐ目の前に立っていて、涙をハラハラと零しながら微笑みを浮かべておれの手をしっかりと掴んでいる。
「私もエースが好き」
「…は?え、いや、嘘だろ」
「え、ちょっと!嘘ってなに!?酷くない!?」
「だって、お前はデュースが好きなんじゃねェのかよ!」
「さっきから、なんでデュースなの?」
意味分からないと言いだけに眉を顰めるナマエに医務室での2人のやり取りを偶然聞いてしまった事を正直に話せば、ボッと一気に顔を赤くして慌てふためき始めた。
やっぱり、あの会話はおれの聞き間違いなんかではなく、事実なんだと分かり、今聞いた「エースが好き」という言葉はなんだったのだろうと混乱する。
「あれは、エースの事を言ってたの。聞かれてるとは思ってなかった」
「おれじゃねェだろ。だって、太陽みてェって言ってたろ」
「うん。だから、それエースの事」
「太陽って、おれが…?」
照れくさそうに視線を外しながら話していたナマエは真っ直ぐにおれの目を見つめて来た。
「私にとってエースは太陽みたいな存在だよ。私の生きる道を照らしてくれる、優しい光」
太陽みたいなのはお前だろ、と口にしようとしたが感情が昂っていて上手く言葉に出来ない。
自分自身の事をそんな人間だと思った事はなくて、むしろ太陽みたいな人間というのはナマエみたいなヤツの事だと思っていて、自分とは真逆の位置に居る、存在だと決め付けていた。
だけど、ナマエは最初からおれと同じ居場所に居たというのだろうか。
その事実が信じられずにいて、確証が欲しくて自分よりもひと回りほども小さな手を壊してしまわないように、宝物に触れるみたいに優しく包み込むように握り返した。
「おれは生まれてきてもよかったのか…その答えすら分からねェ人間だ」
「エースにとって生きる事は心を削るような事だったとしても、ごめんね。それでも私はエースに生きていて欲しい」
生きていて欲しい、ずっと欲しかった言葉をくれたナマエ。
前に言ってくれた言葉よりも重みが違うように感じた。あの頃はおれが海賊王の息子だと知らずに言っていたが、今は違う。
そうだと知っても尚、そう思ってくれている。
おれを1人の人間として見てくれている事が何よりも嬉しかった。
「エースを好きでいると凄く苦しくなる。でも、苦しくても傷付いたとしてもエースを好きって気持ちだけは手離せない。それが私の好きの形なんだ」
ふわりと笑ったナマエは「エースが居なくなる方がもっと苦しいから」と告げられ、堪らなくなって今度は躊躇うことなく、手を伸ばした。
頬に手を添えて、柔らかな温もりを掌で感じながら、するりと手を滑らせて背中と後頭部へと手を回して、自分の方へ引き寄せる。
後ろから抱き締めた事はあっても正面から抱き締めた事はなくて、それも本人の意思関係なく勝手にしてしまった事だった。
ナマエも腕を伸ばして背中に回して抱き締め返してくれた事が想いが通じあった事を示しているみたいで嬉しくもあり、妙に照れくさかった。
「…エース、頭から若干、火出てるよ」
「あー…おう。ほっとけ」
「顔も真っ赤」
「だーッ!るっせェ!いちいち、実況すんな!恥ずかしくなんだろ!!」
甘ったるい雰囲気になったと思いきや、いつものような騒がしさがすぐに戻って来て、おれたちらしくて笑いが溢れるとナマエも同じ事を思ったようで「いつもと変わらないね」と笑った。
───────なぁ、ジジイ。おれは生まれてきても良かったのかな
───────そりゃあ、おまえ…生きてみりゃ分かる
ジジイの言う通りだったのかもな。
もしも、ナマエとこの先も一緒に生きて行く事が許されるのなら、その答えが見つかるかもしれねェ。
沈んでいた太陽が水平線から顔を覗かせ、おれたちを照らす。
眩しい光が包み込む温かさが心地良い。おれはこの太陽の光を居心地が悪いだなんて思う事はもうないだろう。
事実が変わることはないし、たまに息苦しく感じる事もあるかもしれない。それでも、夜明けは確かにやってきたのだから。
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