愛とか恋とか
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ここ最近は大きな仕事も敵船からの襲撃も海軍からの追撃もなく、穏やかに航路は進んでいる。
雑用も終わったし、特にやる事もないからサッチに料理の為に炎を出してくれと頼まれ、厨房で能力を使って手伝いをしていた。
毎日のように頼まれるので、なんでこんな事にメラメラの実の能力を使わなきゃならないんだと前に文句を言ったら「料理が不味くなっても良いのか」と完膚なきまでに論破され、それ以来はサッチの細かい指示通り、炎を使っている。
メシが旨い事に越したことはねェからな。
「なァ、頼まれごとをしてくれねェか」
「今もしてんだろ」
「これとは別件でさ、ナマエの所に行って買い出しに必要なモノを確認して来て欲しいんだ」
「あいつ、どこいんの」
「今、自分の部屋に籠ってる」
いつもならサッチと一緒に厨房に居る事が多いあいつが今日は部屋に籠っているなんて珍しいなと思いつつ、今朝にマルコとした会話を思い出す。
今日の昼には目的の島に着くとか何とか言っていた。その買い出しのメモを部屋でしているらしい。
手から炎を出すのを止め、サッチの頼み事の為に部屋に向かった。
だけど、ナマエの部屋がどこにあるのかを知らない事に厨房を出て少し船内を歩いてからハッと気が付く。
サッチの所に戻って場所を尋ねるか、片っ端から部屋を当たるか…その二択で頭を悩ませていると、ちょうど良いタイミングで目の前からハルタがやって来るのが見えた。
「お、ハルタ!いいとこに来た」
「あ、エース。どうした?」
「ナマエの部屋ってどこだ?サッチに頼まれたんだけどよ。場所知らねェんだ」
「ナマエの部屋なら、そこだよ」
ハルタはそこだとおれとハルタの間にある扉を指差す。
知らぬ間に通りすぎてしまう所だったので、偶然にも良いところで出会えたハルタに感謝をして深々と頭を下げる。
ハルタは「どういたしまして」と爽やかに笑つてそのまま廊下の角を曲がって姿を消した。
部屋の扉を開いて中に入ると、机に向かっていたナマエは突然扉が開いた事に驚いたようで身体をビクリと跳ねさせて、目を大きく見開いておれの顔を見ている。
「ビックリした…。入る前にノックくらいしてよね」
「悪ィ、忘れてた」
この男世帯でノックなんてそんなモノをする奴なんてほぼ居ない。オヤジの部屋に入る前は声をかけるくらいは一応するが。
そもそも、女の部屋に出向く事自体が初めてでそんな部屋に入る時の礼儀作法なんて知らない。
でも、確かにいきなり入った時に着替えてたりしたら申し訳ないし、またデュース辺りに「お前はデリカシーがない」と小言を言われるだろう。
次からはちゃんとノックしようと心に決めた所でナマエが「エースが私の部屋に来るの珍しいね」と言いながら、手に持っていたペンを机の上に置いて、身体をおれの方へ向けた。
その時に正面からハッキリと見た顔に違和感を覚える。
いつもと何かが違う…と普段の姿を脳裏に思い浮かべるとその違和感の正体が判明した。
「メガネか!」
「ん?あァ、これね。本読む時とか文字書く時だけかけてるの」
普段、見れない姿が結構新鮮でいいな、と思った矢先、メガネを外してしまう。
もう一回だけメガネ姿が見たいと思ったが、それを言ったら不審がられる気がしたのでその言葉はグッと飲み込んだ。
「で、どうしたの?」
「サッチに買い出しに必要な物を聞いて来てくれって頼まれてさ」
「んー…あと少しで完成するから、部屋の中で待ってて」
ナマエは再度メガネを掛けて机に向き直ったので、言われた通りに待とうと部屋の中に足を踏み入れ、机のほうに寄って行き手元を覗き込む。
なにかズラズラと文字と数字が書かれていて、買い出しリストにしては細かいな、と考えていると「レシピ考案してるんだ」と教えてくれた。
「へェ。お前も考えたりすんだな」
「サッチの許可が降りたらメニュー化出来るの。これが書き終わったら提案しに行くから、それまでコタツと遊んでて」
指をさす方へ視線を向けると、ベッドの中央でコタツが大きな身体を丸めて気持ちよさそうに眠っていた。
コタツは巨大なオオヤマネコでスペード海賊団時代からの仲間だ。島で密猟者の罠に掛かって怪我をしている所をおれが助けて以来、懐いてそのまま仲間になった。
大型ネコ科の猛獣のコタツは唸り声は猛獣さながらだが、鳴き声は普通の猫と変わらず、愛くるしい。
モビーに来てからはと言うと、一番最初に働き始めたのはコタツだった。
餌を貰った恩の代わりに狩りに行くという行動を取った、仁義が分かっている賢いネコだ。
ベッドの縁に腰掛けて、眠っているコタツの頭を軽く撫でると起きてしまったようで、普通の猫と同じようにググッと伸びをした。
そして「ニャーン」とひと鳴きして、ベッドから飛び降り、椅子に座っているナマエの膝の上に前足をかけた。
「珍しいな、コタツが懐くなんて」
「サッチにも懐いてるよ。ご飯あげたら一番に懐いてた」
警戒心が強く、おれ以外にはあまり懐かなかったコタツがナマエとサッチには懐いているようで、少し安心する。
ちゃんとコタツも心を許せる人間に出会え、可愛がって貰っているようだ。
今も甘えるようにナマエの頬に頭を擦り付けて可愛らしく鳴いている。
だけど、コタツは巨大な為、ナマエよりも大きいから襲われているようにすら見えてしまう。
「擽ったいよ、コタツ。これ書き終わったら遊ぼう。それまではエースに構ってもらってて」
引き取れという合図だろうと察して、のしかかるように甘えているコタツを抱き上げてベッドへ戻した。
コタツはベッドの上で腹を出して甘えて来たので、腹を撫でてやるとまた気持ち良さそうに鳴き、おれの身体にぴったりと寄り添って来る。
メラメラの実の能力で体温が高いのが寒がりのコタツには心地良いらしく、しょっちゅうこうやって寄り添って来ていた。
スペード時代はそのままよく一緒に昼寝をしたものだ。
ゴロゴロとしているコタツの姿を見ていたら、釣られて眠くなって来てしまい、欠伸を噛み殺しながら一緒になって横になる。
コタツの体温と布団の柔らかさと甘い香りに包まれ、ついつい瞼が重くなって来てしまう。
コタツの鳴き声を遠くに感じながら睡魔には逆らえずに目を閉じた。
「エース!起きて!」
おれを呼ぶ声と肩を揺さぶられるような振動で目を覚ますとナマエとコタツが顔を覗き込んでいる。
ゆっくりと身体を起こして周囲を見渡すと、見慣れない景色が広がっており、まだぼんやりとする頭で寝る前の記憶を遡るとこの部屋に来て、横になったらそのまま寝てしまった事を思い出した。
「どんくらい寝てたんだ?」
「30分くらいだよ。レシピ考案終わったから、サッチの所に行こう」
手を差し出して起こしてくれようとしていたのでその手を取るとグッと力を込めて引っ張られる。
だけど、寝起きでぼんやりとした頭とまだ眠いと欲望に忠実な身体ではすぐに起き上がる事は出来ずにいるせいで、ナマエの力では引っ張り上げる事は出来ず「ぎゃっ!」と悲鳴を上げておれの上に倒れ込んで来た。
「ちょっと。ちゃんと起きてよ」
「まだ眠ィ」
「じゃあ、私だけ行ってくるから、エースは寝てたら?」
ナマエが起き上がろうとした瞬間にふわりとあの甘い香りが鼻腔を突く。
香水とかのキツい甘さじゃなくて、フトした瞬間に香るふんわりと柔らかい甘さ。
それがなんなのか気になり、上から退こうとしている腕を掴んで引き止めて少しだけ体を起こし、首あたりに鼻先を近付けるとさっきよりもあの甘さが濃く感じ取れた。
「これ、なんの匂い」
「え、どれ?」
「なんか、甘い匂い」
「んー…ボディソープかな?」
「へェ。おれ、これ好き」
「あ、そうなの。でも、分けてあげないよ。あのボディソープ、いい値段するから」
凄ェドケチ発言が飛び出した気もするが別に自分の身体からこの匂いがして欲しいかと言われたら、それはまた別問題だ。
動いたナマエの耳から掛けていた髪の毛がさらりと落ちて、おれの鼻先に触れる。
それからもまた別のいい匂いが鼻を掠めた。
こっちはシャンプーかと引き寄せられるように顔を近付けた瞬間に部屋の扉が勢いよく開き「買い出しリストまだ?」とサッチの声が飛び込んで来る。
おれたちは同時にドアの方へ顔を向け、サッチと目が合うと目を丸くしておれらを凝視した後に「あ、お取り込み中失礼」と言って素早く扉を閉じた。
2人でなんの事かと顔を見合せて首を傾げた途端に今のおれたちの状況を理解する。ナマエも理解したようで一気に顔を赤くして同時に叫んだ。
考えた事は同じでおれの上から飛び退いたナマエと飛び起きるようにベッドから降りたおれは我先にと扉へ向かい、雪崩込むように部屋の外に出て「「誤解だ!!」」と弁明する。
だが、廊下に居るサッチは気持ち悪いくらいにニヤニヤとしていて「空気読めなくて悪かった」と口では言っているが、全く悪びれた様子は伺えない。
「いや、本当にサッチが考えているような事はしてないって」
「じゃあ、聞くけど、なにしてたの?」
「寝てたエースを起こそうとしたけど、重くて失敗しただけ」
「へェ…そう、ふーん…そうなんだ?」
弁解をしても相も変わらず、ニヤニヤ顔を崩さないサッチの脇腹を肘でド突けば、脇腹を押えて苦しそうに呻いている。
そんなサッチにお構いなしにナマエは「そんな事より、レシピ考案したから見て」とノートを差し出した。
「あのさ、ナマエちゃん。今のおれの状況わかってる?肘打ち喰らって苦しんでんの」
「自業自得じゃない?」
冷たく言い放ちグイグイとサッチの顔にノートを押付けている。
涙を浮かべたサッチは深呼吸をして痛みを逃し、押し付けられたノートを受け取りパラパラと捲って、文字がビッシリと書かれたページをジッと見つめた。
その無言の間、ナマエは緊張しているかのような面持ちで指先を弄りながらサッチの反応を待っている。
「ん、いいんじゃない。採用」
サッチがニッと笑うと安心したかのように頬を緩めた。
普段は、おちゃらけているサッチとアホ丸出しのナマエは料理の事になると真面目で誰よりも真剣になる。自分の仕事に誇りを持っている所は素直に尊敬出来る。
「じゃあ、今日の買い出しはこれとナマエの考えたレシピに必要なモノね。エースと二人で行ってきて」
「うん、いいよ」
「昼前には着くみたいだから、買い出しついでに二人でメシでも食って来たらどうだ」
「えー…、エースと?」
「ンだよ、おれとは嫌なのかよ」
不満げな声色を出すナマエにムッとしてジロリと睨みつければ、「だって、エース食い逃げ…」と言い出す。そこまで聞いて、慌てて後ろから腕を回して口を手で覆って言葉を遮る。
手の中でモゴモゴしているナマエを他所に疑わしい目で見て来るサッチに「なんでもねェ」と首を横に振れば「あー、そう?」と眉を上下させた。
ウチのシマでの食い逃げを取り締まる仕事をしている時にサッチは食い逃げについて強く非難していた。
昔の事とはいえ、食い逃げをしたとバレたら怒られるだろう。前に黙ってろと言ったのに、シレッとバラしそうになりやがって…と心の中で文句をいう。
「そろそろ、手離してやったらどうだ。顔、真っ青だぞ」
「…あ?」
下を見れば、今にも死にそうな顔をしているのが視界に入り、慌てて手を離すのと同時に酸素を吸い込む息遣いが聞こえて来て、相当苦しかった事が伺える。
「そのうち、エースに殺されそうな気がする…」
涙目でジロリと睨んで来るが、悪気はなかった事を伝えると「バカ」と言って腕を軽く叩かれた。
そのまま三人で食堂に向かい、サッチが淹れてくれた茶を飲みながら次の島がどんな場所なのかを話しているうちに船は次の島へと着いたようで、甲板では慌ただしく上陸の準備が進められている。
「買い出し、よろしく」
「はーい。じゃあ、行こっか」
買い出しメモを受け取り、一緒に並んで食堂を出て、船を降りて街へ向かう。
港には人ひとり見当たらなかったから、そんな賑わった島ではないのかと思っていたが、島の中心へと進むと意外にも街は繁盛しているようだった。
至る所からメシのいい匂いがして、本能的にふらふらと匂いのする方へ歩を進めると、急にばバシンという音ともに後頭部に痛みが走る。
振り返れば、ナマエが武装色の覇気を纏った右手を掲げており、殴られたのだと察した。
なんで覇気纏って殴られたのかが分からず、打たれた頭を押さえながら「なにすんだよ」と言えば、おれの鼻をギュッと摘んで来る。
「勝手に行動するの禁止!迷子のエースを探すの大変なんだよ!」
「迷子になんてなった事なんて、ねェだろ!」
「前回のこと忘れたとは言わせないよ」
ナマエはおれの腕に自身の腕を絡め、ぐいぐいと引っ張りながら街を進んでいく。
いやいやいや、こいつ距離感バカなんじゃねェの…?もろもろ当たってるし。
今朝は今より距離感がおかしかったが、あれは寝惚けていたというのもあったし、あの時は本気で意識をしていなかったから平気だったが今は違う。
腕に当たる柔らかい感触についつい意識を持っていかれそうになり、指摘しようとしたが言ったらまた覇気使ってぶん殴られそうな気がしたので、黙っている事にした。
意識しないようにしてみてもどうしても意識はそこにいってしまうのが男の性というもので。
余計に意識してしまい、自爆しているような気分だ。
「エース、聞いてる?」
「…あ?」
「だから、お店。どこ入る?」
脳はもう正常な判断をしてくれないので、適当に真横にある店を指差して「そこでいい」と言えば、ナマエは眉を顰めて表情を曇らせた。
いや、曇らせたというよりかは、まるでゴミを見るような目でおれを見て「本気?」と言う。
「なんだよ、その目。感じ悪りィな」
「…一人で行けば。私は絶対行かない」
「はァ?一人で行動すんなって言ったり、一人で行けって言ったりなんだよ!」
「知らない!エースのバーカ!」
活火山のように突発的に噴火して、掴んでいた腕を離してズンズンと先に行ってしまった。
何も悪い事をしていないのにいきなりブチギレられ、追いかけるのも癪で離れていく背中を睨み付けるように見つめる。
「ンだよ、おれがなにしたってんだよ」
普通に店を選んだだけじゃねェか。まさか適当に選んだ事がバレてムカついたのか。
そんな事で怒る事ねェだろ、と適当に指さした店に1人で入ってやろうと看板を見てみると、あいつが嫌がった理由を知る。
知らずに選んだ店はサッチやティーチが好みそうな…所謂、そういう店だった。
コレはまずい…と血の気が引いていき、慌ててもう見えなくなってしまった姿を追いかける。
真昼間から女が居る店を選び、女を連れて行くとか普通に考えて頭がおかしい。
そりゃ、一人で行けとブチギレられるはずだ。
そもそも、前に打ち上げと称して四人で飲んだ時もナマエは軟派な男は好きじゃないと言っていたから余計に嫌悪感があったのだろう。
やっちまった…と、額に手を当てて天を仰いだが、そんな事している暇があったら追いかけてさっさと誤解を解いた方がいいと思い直しナマエ、が歩いて行った方へ走り出した。
全力で走ればすぐにナマエの後ろ姿を見付ける事が出来、安堵する。
名前を呼んで後ろから腕を掴んで無理矢理振り向かせて、視界に映り込んで来た顔は悲しみに歪んでいるように見えた。
怒ったような視線を初めて向けられ、危うく掴んだ手を離しそうになったが、グッと腕を掴んだ手に力を込める。
「…悪かった。その、そういう店だと知らずに言った。適当にそこでいいって言っちまって、よくよく見たら、その、アレだった」
酷く情けないくらいに言い訳めいたことを口にすれば、強ばった顔を緩めてポカンとした表情に変えた。
「本当に知らなかったの?」
「知らなかった。さっき、ちゃんと見て知った」
「てっきり、本物の色気お姉さんでも見ろって喧嘩売って来たんだと思ってた」
「ンな事するわけねェだろ。そもそも、前にそのままのお前でいいって言ってんのに」
帽子を脱いで深々と頭を下げるとナマエは声をあげて笑った。「普通、そんな間違いする?」と。もう一切怒っていないようで、ツボに入ったのかゲラゲラと腹を抱えて笑っている。
笑ってくれた事に安心して、おれも頬を緩めた。
「お前に嫌われたかと思って、焦った」
「嫌う訳ないじゃん。ムカついたけど」
怒ったように頬を膨らませた後に、また思い出したかのように吹き出して笑う。
「お色気お姉さんになれるのはまだまだだから、気長に待ってて」と呑気に言い、おれがそのままでいいと言ったことなんてなかったかのように話している事に少しムッとしてしまう。
おれなんかの言葉に左右される必要なんてねェのかもしれねェけど、少しくらいは受け取ってくれてもいいだろ、と思ったら、何だかイラついてしまった。
無言で ナマエの額を指で弾き、やり場のないモヤモヤをぶつければ、額を抑えて「痛い!急に何するの!」と騒いで睨み付けて来る。
ギャンギャンと騒ぐナマエを横目に街中を進んで行く途中で妙におれたちを凝視して来る奴が居ることに気が付き、ピタリと足を止めた。
「エース?どうしたの?」
突然、足を止めたおれを不思議がって顔を覗いてくるナマエにチラリと視線を移してからまた視線を元に戻す。
そいつはおれと目が合っても一切、目を逸らさない。…いや、正確には見ているのはおれじゃなくて、ナマエだった。
「…… ナマエ?」
ぽつり、そう呟かれた声におれたちは目を見開く。知り合いかと尋ねようとナマエの方を見れば、驚いたかのような表情を浮かべながら固まっていて、唇だけが微かに震えている。
「……あんた、生きてたの…?」
「…うん」
2人が交わしたたった二言の会話だけで、分かってしまった。この目の前に居る女が昔、ナマエを捨てた母親だと。よく見れば目元とか似ているような気もする。
2人は信じられないものを見たというような目でお互いを見ていた。
「………てっきり、死んだものだと…」
「は?おい、あんたなァ…!」
仮にも自分の娘に向かってその言い草はねェだろ、とカチンと来て一歩前に足を踏み出すと腕を掴まれて引き留められる。
離せと腕を引くと思ったよりも勢いがついてしまい、パシンと乾いた音を立てて手を振り払ってしまった。
ナマエは無機質な表情から一変して、貼り付けたような笑みを浮かべ直して小さく首を横に振って「いいから」と呟き、母親にそのぎこちない笑みを向ける。
「…生きてて、ごめんなさい」
口元には笑みを浮かべているのに声は頼りなく震え、今にも泣き出しそうに聞こえて、そのちぐはぐな表情と声色が歪で今にも壊れてしまいそうに見え、胸が痛くなる。
ナマエの口から聞きたくもない言葉が脳裏にこびり付いて離れない。
血が滲む程に強く唇を噛み締める。そうでもしなければ、母親に向けて暴力にも似た言葉を投げつけてしまいそうだったからだ。
いつだってそうだ。勝手な親の都合で生まれたガキは親の勝手な都合で幸せにだって不幸にだってなり得る。
おれたちはいつだってその後者だった。
生まれる事を望まれなかったおれと生きているのを望まれなかったナマエ。
サッチやマルコたちが何年もかけて、凍りついてしまった心を解いて溶かして来たというのに、一瞬にして元に、それ以上に壊そうとする母親に怒りを超えた感情が湧き上がって来る。
こんな所に居させたくなくて、手を取って早くこの場を去ってやろうと手を伸ばすがその手をすり抜けて、踵を返して走り出してしまった。
目の前に居る母親は追いかける事もせず、最悪な言葉を言ってしまった事の罪悪感に苛まれるような表情をするわけでもなく、ただ無表情で走り去るナマエの後姿を見ている。
「あいつに対して良心の呵責とかあったりしねェのかよ」
「…海賊だろ、あんた。海賊に良心がどうとかって言われる筋合いはないはずよ。全てを奪った海賊に何も言われたくない」
「おれはあんたもあいつから全てを奪ったうちの一人だと思うけどな」
その言葉に母親はぐしゃりと顔を歪めた。それは捨てた事への後悔ではなく、自分が咎められた事に顔を歪めたように見え、苛立ちが募ってしまう。
話にもならないような人間にいつまでも時間を割いているのが勿体なく感じ、早くナマエの元へ駆け付けたい衝動に駆られる。
もどかしい想いから舌打ちを落とすと自分に向けられたものかと思った母親は怯えたような目でおれを見ている。
だけど、そんな視線すらどうでもよくて。母親を真っ直ぐに見た。
この人だって被害者なのかもしれない。こんな時代の、おれの父親、海賊王が幕開けた碌でもない時代の被害者なのかもしれないけど、それでもナマエを傷付けた事実は変わりない。
「…あいつは、あんたの事、恨んでねェって言ってたぜ」
おれの言葉に驚いたように目を見張り、震えた唇が薄く開く。そんな言葉を投げられるとは予想もしていなかったようだ。
「一度、捨てちまったとしてもあんたはあいつの母親だろ。だから、さっきの言葉をおれは許せねェ」
吐き捨てるように言えば、母親は瞳を揺らしてまるで涙がこぼれ落ちないようにするかのように必死に天を仰ぐ。
過去に手離してしまった手をもう一度、取ってやって欲しいとは言わない。ただ、生きていた事を喜んでやってほしかった。
そうすれば、あいつは笑っていれたはずだ。
自分勝手な親のせいでナマエが傷つくのはもう見たくねェ。
今すぐにナマエの元に向かおうと、背を向けると後ろから嗚咽の漏れた声が聞こえたが振り返ることはせずにそのまま走り出した。
滴り落ちる汗を拭うこともしないでひたすら足を動かしていると、遠くに見慣れた小さな背中が見え、走る速度を上げる。
腕を掴んで引き止めるとナマエはゆっくりと振り返った。その目には涙は浮かんではいなくて、代わりに未だに貼り付けられたような笑顔を浮かんでいる。まるで自分の意思では取れない仮面を被っているようで眉を顰めてしまった。
「変な所見せちゃってごめんね。まさか、こんな場所で会うとは思わなかったな」
あはは、と乾いた笑いを作り出す姿を見ていられなくて瞼をギュッと閉じる。
数秒してゆっくりと瞼を持ち上げると、視界に写ったナマエはまた曖昧な表情で口元だけ笑っていた。
だけど、その唇も歪な形を縁取り、もう取り繕うの嫌がっているようにすら見えてしまう。
「まァ、どうでもいいけど」
「…良くねェだろ」
「意味なんて、ないの。私の感情も生きている事も全部」
「意味なくねェ!!」
それ以上聞きたくなくてかき消す様に声を荒げてしまったが俯いてしまい、もう何も言わない。
いつも顔を上げておれの目を見てくれる話してくれるから、おれはナマエの事がわかるのに顔を上げてくれなきゃ、何も見えなくて何も分からねェ。
「顔、上げてくれねェか」
そう頼んでも顔を上げてくれる事はなく、小さな声で「一人に、なりたい。先に船戻ってて」と呟くだけだった。
下を向いたまま、また踵を返してどこかへ行こうとする。
一人にして欲しいと言っていたが、このまま行かせてしまったら、もう二度と戻っては来ないような気がして、慌てて小さな手を掴んでしまった。ずっと、掴む事を躊躇っていたその手を。
おれが掴んだその手は予想通りと言うべきか、そうなる事は必然のようにおれの手を拒んだ。
突発的にではなく、意志を持って拒否をするかのように静かに手を押し退けられ、おれの手は行き場を無くしてしまった。
「どうせ、いつか離す気なら最初から掴まないで」
苦しそうに吐き捨てられた言葉に一瞬、呼吸が出来なくなる。
おれの躊躇いや戸惑いを見透かしたような台詞はおれの心を抉るのに充分だった。
「私のことなんて、放っておいて」
おれたちの間を吹き抜けた風にさえ、かき消されてしまいそうなくらい小さな声は確かに届いてしまって、おれの鼓膜を揺らす。
逃げ出すかのように駆け出す背中をただ見つめることしか出来なかった。
追いかけたいのにナマエに言われた「いつか離す気なら最初から掴まないで」の言葉が脳内で反芻して、足が地面に縫いつけられたかのように動かす事が出来ない。
道のど真ん中で呆然と立ち尽くしているせいで通行人と何度も肩がぶつかる。
その衝撃でよろけたままふらりと歩き出し、いく宛もなく覚束ない足取りで歩き出す。
ぼんやりとした頭で辿り着いた街の広場のベンチに投げやるように腰を下ろし、何気なしに空を見上げてみる。
頭ん中、空っぽだ。最適解が見つからねェ。
どれぐらいそうしていたのか分からない。
船に戻る気にはならなくて、でも追いかけるにはまだ躊躇ってしまって。
あれほど、清々しい蒼色をしていた空はもう朱に染まり始めていた。
「どうすりゃいいんだよ…」
独りごちたその言葉は虚に消えて行く。
おれが海賊王の息子じゃなければ…おれじゃなければ良かったのに。
そう思った瞬間、脳裏にサッチがおれに「あいつの事、頼むよ」と言った事とデュースの「案外簡単に答えは見つかるもんだぜ。お前のココに素直になれば、な」という言葉が思い浮かんだ。
…今、ごちゃごちゃ考えても仕方ねェ。
サッチに頼まれたのは他の誰でもなく、おれだ。
後のことなんて、今は知らねェ。
自分の思ったままに行動しようと腰を上げる。
とにかく、今はナマエを探す事だけに集中しようと決め、走り出した。
街中を走り回って探しているが一向に見つからず、焦燥感に駆られる。
暫く走り続けていると、船を止めた岸とは反対の海辺で膝を抱えて砂浜に座っているナマエの後姿を見つけた。
安堵して、すぐ様に駆け寄ろうとしたが、第一声に迷ってしまい、足を止めてしまう。
どうするべきか、小さな背中を見てい考えていると、前にサッチが言っていた事を思い出した。
「ただ、いつも朝から晩まで船の隅っこで膝を抱えて自分の故郷の方角をジッと見つめてた」
もしかしたら、あっちの海の先にあいつの故郷があるのかもしれない。
そうやってジッと親の姿を探すように海を見つめていた幼い頃の姿を今の後ろ姿に重ねてしまい、居ても立っても居られなくなって、また足を動かし始めた。
変に慰めの言葉なんていらねェ。逆にウザったいだけだ。
一人にして欲しいと言われたが、おれがナマエの傍に居たいという勝手な感情のままに行動に移した。
砂を噛む音が辺りに響いているような気もするが、きっと波の音がかき消してナマエには届いていないだろう。
人ひとり分の距離を空けて、隣に胡座をかいて腰を下ろす。
おれに気が付いているはずなのに顔をこっちに向ける訳でもなく、ただ静かに真っ直ぐに海を見つめ続けていた。
なんとなく、居心地が悪くて右足を立てたりと何度も座り直してしまう。
そうしているうちに、最初胡座だったのにいつまにかナマエと同じように両膝を立てた座り方になってしまっていた。
あっちに行けとか一人にしろとか言って来ないのでセーフだと勝手に判断し少しだけ肩の力を抜きながら、手持ち無沙汰になっている指先を遊ばせる。
同じようにただ真っ直ぐに水平線を見つめていると微かに音が聞こえて、左隣に顔を向けるとナマエはもう海は見ていなくて膝に顔を埋めていた。
ほぼ無意識だったが、おれは凝りもせずにまた手を伸ばして頭に手を乗せた。そのまま軽く撫でると更に身体を縮こませてしまう。
鼻を啜るような音が聞こえ、撫でていた手がピタリと止まる。
こういう時、どうしたらいいのか分からなくなるなんて、情けねェ。
泣き虫だったルフィには「泣き虫も甘たったれも嫌いだ」なんて厳しくも出来るのに。
ナマエは泣きたいハズなのにいつも変に笑っているのを知っているから、おれの前でくらい弱音を吐いたり、泣いたってすればいいのに、と思う。
おれはサッチみたいに気の利いた言葉を言えるわけでもねェし、イゾウみたいに特別な優しさを持っているわけでもない。
こいつを笑わせてやる事も本音を吐かせてやることすら、何も出来ない不甲斐なさに打ちのめさてしまう。
無力な自分が歯痒くて悔しくて、奥歯を噛み締めた。
「…エース、ごめん。さっきの、嘘」
膝に顔を埋めたまま絞り出した声はくぐもっていて聞こえずらかったけど絶対に聞き漏らしたくなくて、自分の呼吸音すら煩わしく思えて、馬鹿みたいに息を止めて耳を傾ける。
「本当は...本音は、寂しかった」
ゆっくりと顔を上げてまた海を眺めながらそう言ったナマエの横顔を見つめていると、大粒の涙が瞳からポロリと零れ落ち、頬をゆっくりと伝う。
その雫は悲しいほどの夕暮れに染められていて、それを見たら時が止まってしまったかのようにおれは動けなくなってしまった。
「本当はお母さんに愛されてたって、いつか迎えに来てくれるって信じていたかった…。だけど、それも私の都合の良い妄想だったみたい。馬鹿みたいだよね」
「…馬鹿じゃねェ」
作った笑顔で無理矢理に堰き止められていた感情が溢れ出したかのように止まらないのを見たら、身体は勝手に動いてしまう。
人ひとり分の距離を詰めて、包み込むように横から抱き締めた。
警鐘が鳴り響くように心臓が鳴るが、そんな事今はどうでもいい。
今、ここで何もしなかったら今度こそ本当に消えてしまう気がして、離すことが出来ない。
微かに揺れた肩が徐々に震えて、回ったおれの腕に静かに手が触れる。
また振り払われるかと思ったが今度はそうではなくて、触れた手はきゅっと力が込められた。
「…エースは、居なくならないで 」
腕の中に感じる暖かな温もりを確かめるように腕の力を込めればナマエが生きている証を感じ取れて安心感を覚えた。
オレンジに染まった海に溶けて消えてしまわないように、炎のような空に飲み込まれていってしまわないようにと、ガキみたいに無我夢中で願ってしまう。
大切な誰かをもう二度と喪いたくなくて強くなりたかった。強くなったと思ったのにおれはまだまだ弱い。大事な奴さえも守れないほど、まだちっぽけな人間だ。
「…悪りィ」
自分勝手な感情のまま抱きしめてしまった腕をゆっくりと離すと顔を上げておれの顔を見た。その瞳は濡れていて、未だに揺れていた。
心臓を鋭利な刃物で刺されたかのように痛くなって息が詰まる。
きっと、いつかこのまま隣に居てしまったら、今度はこんな顔を自分がさせてしまうだろうと怖くなってしまった。
「おれは、お前の傍に居ちゃダメだなんだ。これ以上は…踏み込めねェ」
「どうして…?」
傷ついたように眉を下げて、また一つ涙を瞳からこぼれ落ちたのが見え、見ていられなくなって視線を逸らして少し下を向く。
おれのたった一つの言葉で好きなヤツの涙を生んでしまう。だから、これ以上の涙を生まない為に隠していた事を話さなければならないと心に決めた。
これを話したら、今までのようには隣に居られなくなる事は分かっているけれど、今のおれにはそうする事しか出来ない。
その手に触れてしまったこと、自分の腕の中に抱いてしまったこと、ナマエの隣で生きたいと思ってしまったこと。その全てが罪だったというのに。
「おれは海賊王、ゴールド・ロジャーの息子だ。いつかその事実がお前を傷つける時が必ず来る」
息を呑む音が聞こえ、鼓動が早くなる。
ナマエの反応が怖くて顔を見れない。
未だに俯いたまま、唇を噛みして瞼を固く閉じた。昔、言われて来た言葉たちを思い返しながら、深呼吸をしてその傷をもう一度受ける準備をする。
ゆっくりと息を吐いてから顔を上げて、ナマエの顔をしっかりと真正面から見据えて、口を開く。
「おれはナマエの居る所には行けねェし、お前をこっち側に来させる訳にもいかねェ。だから…」
最初から用意していたかのようにスラスラと口から出る言葉を何処か他人事のように感じながら伝えていると、ナマエは何も言わずに手を伸ばして、おれの腕を自分の方に引っ張って距離を詰めた。
「な…ッ、おい!」
「理由はそれだけ?そっち側とかこっち側とか私には分からない」
ナマエは意志の宿ったような瞳で真っ直ぐにおれを見つめ返す。まるで逃げ出す事を許さないというかのようなその目におれは瞬きすら出来ない。
「エースがこっちに来れないと思うなら、私が無理矢理にでもこっち側に引きずり込んでやる」
「は…?」
「エースが嫌がっても力づくでなんとかする。そう簡単には引き下がらない。引き下がりたくない」
さっきまで、べそべそ泣いていたのがまるで幻だったかのように挑発的な笑みを浮かべておれを見据えてくるのを見て呆気に取られる。こんな反応が返って来るとは思ってなくて、どうしていいのか分からず狼狽えてしまう。
「欲しい物は奪うのが海賊、でしょ?」
ナマエは太陽のようにニカッと笑ってから、踵を返して数歩進む。そして、ピタリと歩を止めて首だけで振り返った。
「本当は、私がエースと一緒に居たいだけ。ごめんね、自分勝手な理由で」
エースは私のことを考えて言ってくれているのにね、と呟き、今度は月のように静かに笑う唇は微かに震えていて、さっきの挑発的な表情はただの虚勢だった事を知る。
そうまでして、おれを繋ぎ止めようとしてくれた事が嬉しくて、胸が苦しい。
どうして、こんなにも必死に飛び越えて来ようとするのか。
傷付けたくない、でも、傍に居て欲しい。
2つの感情がせめぎ合い、辛くなる。
誤魔化すかのように、視線を逸らして海の方へ目をやれば沈みかけている真っ赤な太陽がやけに目に染みる。内側から焦がすように熱くて、視界さえもぼやけて、頬まで熱くなった気がした。
雑用も終わったし、特にやる事もないからサッチに料理の為に炎を出してくれと頼まれ、厨房で能力を使って手伝いをしていた。
毎日のように頼まれるので、なんでこんな事にメラメラの実の能力を使わなきゃならないんだと前に文句を言ったら「料理が不味くなっても良いのか」と完膚なきまでに論破され、それ以来はサッチの細かい指示通り、炎を使っている。
メシが旨い事に越したことはねェからな。
「なァ、頼まれごとをしてくれねェか」
「今もしてんだろ」
「これとは別件でさ、ナマエの所に行って買い出しに必要なモノを確認して来て欲しいんだ」
「あいつ、どこいんの」
「今、自分の部屋に籠ってる」
いつもならサッチと一緒に厨房に居る事が多いあいつが今日は部屋に籠っているなんて珍しいなと思いつつ、今朝にマルコとした会話を思い出す。
今日の昼には目的の島に着くとか何とか言っていた。その買い出しのメモを部屋でしているらしい。
手から炎を出すのを止め、サッチの頼み事の為に部屋に向かった。
だけど、ナマエの部屋がどこにあるのかを知らない事に厨房を出て少し船内を歩いてからハッと気が付く。
サッチの所に戻って場所を尋ねるか、片っ端から部屋を当たるか…その二択で頭を悩ませていると、ちょうど良いタイミングで目の前からハルタがやって来るのが見えた。
「お、ハルタ!いいとこに来た」
「あ、エース。どうした?」
「ナマエの部屋ってどこだ?サッチに頼まれたんだけどよ。場所知らねェんだ」
「ナマエの部屋なら、そこだよ」
ハルタはそこだとおれとハルタの間にある扉を指差す。
知らぬ間に通りすぎてしまう所だったので、偶然にも良いところで出会えたハルタに感謝をして深々と頭を下げる。
ハルタは「どういたしまして」と爽やかに笑つてそのまま廊下の角を曲がって姿を消した。
部屋の扉を開いて中に入ると、机に向かっていたナマエは突然扉が開いた事に驚いたようで身体をビクリと跳ねさせて、目を大きく見開いておれの顔を見ている。
「ビックリした…。入る前にノックくらいしてよね」
「悪ィ、忘れてた」
この男世帯でノックなんてそんなモノをする奴なんてほぼ居ない。オヤジの部屋に入る前は声をかけるくらいは一応するが。
そもそも、女の部屋に出向く事自体が初めてでそんな部屋に入る時の礼儀作法なんて知らない。
でも、確かにいきなり入った時に着替えてたりしたら申し訳ないし、またデュース辺りに「お前はデリカシーがない」と小言を言われるだろう。
次からはちゃんとノックしようと心に決めた所でナマエが「エースが私の部屋に来るの珍しいね」と言いながら、手に持っていたペンを机の上に置いて、身体をおれの方へ向けた。
その時に正面からハッキリと見た顔に違和感を覚える。
いつもと何かが違う…と普段の姿を脳裏に思い浮かべるとその違和感の正体が判明した。
「メガネか!」
「ん?あァ、これね。本読む時とか文字書く時だけかけてるの」
普段、見れない姿が結構新鮮でいいな、と思った矢先、メガネを外してしまう。
もう一回だけメガネ姿が見たいと思ったが、それを言ったら不審がられる気がしたのでその言葉はグッと飲み込んだ。
「で、どうしたの?」
「サッチに買い出しに必要な物を聞いて来てくれって頼まれてさ」
「んー…あと少しで完成するから、部屋の中で待ってて」
ナマエは再度メガネを掛けて机に向き直ったので、言われた通りに待とうと部屋の中に足を踏み入れ、机のほうに寄って行き手元を覗き込む。
なにかズラズラと文字と数字が書かれていて、買い出しリストにしては細かいな、と考えていると「レシピ考案してるんだ」と教えてくれた。
「へェ。お前も考えたりすんだな」
「サッチの許可が降りたらメニュー化出来るの。これが書き終わったら提案しに行くから、それまでコタツと遊んでて」
指をさす方へ視線を向けると、ベッドの中央でコタツが大きな身体を丸めて気持ちよさそうに眠っていた。
コタツは巨大なオオヤマネコでスペード海賊団時代からの仲間だ。島で密猟者の罠に掛かって怪我をしている所をおれが助けて以来、懐いてそのまま仲間になった。
大型ネコ科の猛獣のコタツは唸り声は猛獣さながらだが、鳴き声は普通の猫と変わらず、愛くるしい。
モビーに来てからはと言うと、一番最初に働き始めたのはコタツだった。
餌を貰った恩の代わりに狩りに行くという行動を取った、仁義が分かっている賢いネコだ。
ベッドの縁に腰掛けて、眠っているコタツの頭を軽く撫でると起きてしまったようで、普通の猫と同じようにググッと伸びをした。
そして「ニャーン」とひと鳴きして、ベッドから飛び降り、椅子に座っているナマエの膝の上に前足をかけた。
「珍しいな、コタツが懐くなんて」
「サッチにも懐いてるよ。ご飯あげたら一番に懐いてた」
警戒心が強く、おれ以外にはあまり懐かなかったコタツがナマエとサッチには懐いているようで、少し安心する。
ちゃんとコタツも心を許せる人間に出会え、可愛がって貰っているようだ。
今も甘えるようにナマエの頬に頭を擦り付けて可愛らしく鳴いている。
だけど、コタツは巨大な為、ナマエよりも大きいから襲われているようにすら見えてしまう。
「擽ったいよ、コタツ。これ書き終わったら遊ぼう。それまではエースに構ってもらってて」
引き取れという合図だろうと察して、のしかかるように甘えているコタツを抱き上げてベッドへ戻した。
コタツはベッドの上で腹を出して甘えて来たので、腹を撫でてやるとまた気持ち良さそうに鳴き、おれの身体にぴったりと寄り添って来る。
メラメラの実の能力で体温が高いのが寒がりのコタツには心地良いらしく、しょっちゅうこうやって寄り添って来ていた。
スペード時代はそのままよく一緒に昼寝をしたものだ。
ゴロゴロとしているコタツの姿を見ていたら、釣られて眠くなって来てしまい、欠伸を噛み殺しながら一緒になって横になる。
コタツの体温と布団の柔らかさと甘い香りに包まれ、ついつい瞼が重くなって来てしまう。
コタツの鳴き声を遠くに感じながら睡魔には逆らえずに目を閉じた。
「エース!起きて!」
おれを呼ぶ声と肩を揺さぶられるような振動で目を覚ますとナマエとコタツが顔を覗き込んでいる。
ゆっくりと身体を起こして周囲を見渡すと、見慣れない景色が広がっており、まだぼんやりとする頭で寝る前の記憶を遡るとこの部屋に来て、横になったらそのまま寝てしまった事を思い出した。
「どんくらい寝てたんだ?」
「30分くらいだよ。レシピ考案終わったから、サッチの所に行こう」
手を差し出して起こしてくれようとしていたのでその手を取るとグッと力を込めて引っ張られる。
だけど、寝起きでぼんやりとした頭とまだ眠いと欲望に忠実な身体ではすぐに起き上がる事は出来ずにいるせいで、ナマエの力では引っ張り上げる事は出来ず「ぎゃっ!」と悲鳴を上げておれの上に倒れ込んで来た。
「ちょっと。ちゃんと起きてよ」
「まだ眠ィ」
「じゃあ、私だけ行ってくるから、エースは寝てたら?」
ナマエが起き上がろうとした瞬間にふわりとあの甘い香りが鼻腔を突く。
香水とかのキツい甘さじゃなくて、フトした瞬間に香るふんわりと柔らかい甘さ。
それがなんなのか気になり、上から退こうとしている腕を掴んで引き止めて少しだけ体を起こし、首あたりに鼻先を近付けるとさっきよりもあの甘さが濃く感じ取れた。
「これ、なんの匂い」
「え、どれ?」
「なんか、甘い匂い」
「んー…ボディソープかな?」
「へェ。おれ、これ好き」
「あ、そうなの。でも、分けてあげないよ。あのボディソープ、いい値段するから」
凄ェドケチ発言が飛び出した気もするが別に自分の身体からこの匂いがして欲しいかと言われたら、それはまた別問題だ。
動いたナマエの耳から掛けていた髪の毛がさらりと落ちて、おれの鼻先に触れる。
それからもまた別のいい匂いが鼻を掠めた。
こっちはシャンプーかと引き寄せられるように顔を近付けた瞬間に部屋の扉が勢いよく開き「買い出しリストまだ?」とサッチの声が飛び込んで来る。
おれたちは同時にドアの方へ顔を向け、サッチと目が合うと目を丸くしておれらを凝視した後に「あ、お取り込み中失礼」と言って素早く扉を閉じた。
2人でなんの事かと顔を見合せて首を傾げた途端に今のおれたちの状況を理解する。ナマエも理解したようで一気に顔を赤くして同時に叫んだ。
考えた事は同じでおれの上から飛び退いたナマエと飛び起きるようにベッドから降りたおれは我先にと扉へ向かい、雪崩込むように部屋の外に出て「「誤解だ!!」」と弁明する。
だが、廊下に居るサッチは気持ち悪いくらいにニヤニヤとしていて「空気読めなくて悪かった」と口では言っているが、全く悪びれた様子は伺えない。
「いや、本当にサッチが考えているような事はしてないって」
「じゃあ、聞くけど、なにしてたの?」
「寝てたエースを起こそうとしたけど、重くて失敗しただけ」
「へェ…そう、ふーん…そうなんだ?」
弁解をしても相も変わらず、ニヤニヤ顔を崩さないサッチの脇腹を肘でド突けば、脇腹を押えて苦しそうに呻いている。
そんなサッチにお構いなしにナマエは「そんな事より、レシピ考案したから見て」とノートを差し出した。
「あのさ、ナマエちゃん。今のおれの状況わかってる?肘打ち喰らって苦しんでんの」
「自業自得じゃない?」
冷たく言い放ちグイグイとサッチの顔にノートを押付けている。
涙を浮かべたサッチは深呼吸をして痛みを逃し、押し付けられたノートを受け取りパラパラと捲って、文字がビッシリと書かれたページをジッと見つめた。
その無言の間、ナマエは緊張しているかのような面持ちで指先を弄りながらサッチの反応を待っている。
「ん、いいんじゃない。採用」
サッチがニッと笑うと安心したかのように頬を緩めた。
普段は、おちゃらけているサッチとアホ丸出しのナマエは料理の事になると真面目で誰よりも真剣になる。自分の仕事に誇りを持っている所は素直に尊敬出来る。
「じゃあ、今日の買い出しはこれとナマエの考えたレシピに必要なモノね。エースと二人で行ってきて」
「うん、いいよ」
「昼前には着くみたいだから、買い出しついでに二人でメシでも食って来たらどうだ」
「えー…、エースと?」
「ンだよ、おれとは嫌なのかよ」
不満げな声色を出すナマエにムッとしてジロリと睨みつければ、「だって、エース食い逃げ…」と言い出す。そこまで聞いて、慌てて後ろから腕を回して口を手で覆って言葉を遮る。
手の中でモゴモゴしているナマエを他所に疑わしい目で見て来るサッチに「なんでもねェ」と首を横に振れば「あー、そう?」と眉を上下させた。
ウチのシマでの食い逃げを取り締まる仕事をしている時にサッチは食い逃げについて強く非難していた。
昔の事とはいえ、食い逃げをしたとバレたら怒られるだろう。前に黙ってろと言ったのに、シレッとバラしそうになりやがって…と心の中で文句をいう。
「そろそろ、手離してやったらどうだ。顔、真っ青だぞ」
「…あ?」
下を見れば、今にも死にそうな顔をしているのが視界に入り、慌てて手を離すのと同時に酸素を吸い込む息遣いが聞こえて来て、相当苦しかった事が伺える。
「そのうち、エースに殺されそうな気がする…」
涙目でジロリと睨んで来るが、悪気はなかった事を伝えると「バカ」と言って腕を軽く叩かれた。
そのまま三人で食堂に向かい、サッチが淹れてくれた茶を飲みながら次の島がどんな場所なのかを話しているうちに船は次の島へと着いたようで、甲板では慌ただしく上陸の準備が進められている。
「買い出し、よろしく」
「はーい。じゃあ、行こっか」
買い出しメモを受け取り、一緒に並んで食堂を出て、船を降りて街へ向かう。
港には人ひとり見当たらなかったから、そんな賑わった島ではないのかと思っていたが、島の中心へと進むと意外にも街は繁盛しているようだった。
至る所からメシのいい匂いがして、本能的にふらふらと匂いのする方へ歩を進めると、急にばバシンという音ともに後頭部に痛みが走る。
振り返れば、ナマエが武装色の覇気を纏った右手を掲げており、殴られたのだと察した。
なんで覇気纏って殴られたのかが分からず、打たれた頭を押さえながら「なにすんだよ」と言えば、おれの鼻をギュッと摘んで来る。
「勝手に行動するの禁止!迷子のエースを探すの大変なんだよ!」
「迷子になんてなった事なんて、ねェだろ!」
「前回のこと忘れたとは言わせないよ」
ナマエはおれの腕に自身の腕を絡め、ぐいぐいと引っ張りながら街を進んでいく。
いやいやいや、こいつ距離感バカなんじゃねェの…?もろもろ当たってるし。
今朝は今より距離感がおかしかったが、あれは寝惚けていたというのもあったし、あの時は本気で意識をしていなかったから平気だったが今は違う。
腕に当たる柔らかい感触についつい意識を持っていかれそうになり、指摘しようとしたが言ったらまた覇気使ってぶん殴られそうな気がしたので、黙っている事にした。
意識しないようにしてみてもどうしても意識はそこにいってしまうのが男の性というもので。
余計に意識してしまい、自爆しているような気分だ。
「エース、聞いてる?」
「…あ?」
「だから、お店。どこ入る?」
脳はもう正常な判断をしてくれないので、適当に真横にある店を指差して「そこでいい」と言えば、ナマエは眉を顰めて表情を曇らせた。
いや、曇らせたというよりかは、まるでゴミを見るような目でおれを見て「本気?」と言う。
「なんだよ、その目。感じ悪りィな」
「…一人で行けば。私は絶対行かない」
「はァ?一人で行動すんなって言ったり、一人で行けって言ったりなんだよ!」
「知らない!エースのバーカ!」
活火山のように突発的に噴火して、掴んでいた腕を離してズンズンと先に行ってしまった。
何も悪い事をしていないのにいきなりブチギレられ、追いかけるのも癪で離れていく背中を睨み付けるように見つめる。
「ンだよ、おれがなにしたってんだよ」
普通に店を選んだだけじゃねェか。まさか適当に選んだ事がバレてムカついたのか。
そんな事で怒る事ねェだろ、と適当に指さした店に1人で入ってやろうと看板を見てみると、あいつが嫌がった理由を知る。
知らずに選んだ店はサッチやティーチが好みそうな…所謂、そういう店だった。
コレはまずい…と血の気が引いていき、慌ててもう見えなくなってしまった姿を追いかける。
真昼間から女が居る店を選び、女を連れて行くとか普通に考えて頭がおかしい。
そりゃ、一人で行けとブチギレられるはずだ。
そもそも、前に打ち上げと称して四人で飲んだ時もナマエは軟派な男は好きじゃないと言っていたから余計に嫌悪感があったのだろう。
やっちまった…と、額に手を当てて天を仰いだが、そんな事している暇があったら追いかけてさっさと誤解を解いた方がいいと思い直しナマエ、が歩いて行った方へ走り出した。
全力で走ればすぐにナマエの後ろ姿を見付ける事が出来、安堵する。
名前を呼んで後ろから腕を掴んで無理矢理振り向かせて、視界に映り込んで来た顔は悲しみに歪んでいるように見えた。
怒ったような視線を初めて向けられ、危うく掴んだ手を離しそうになったが、グッと腕を掴んだ手に力を込める。
「…悪かった。その、そういう店だと知らずに言った。適当にそこでいいって言っちまって、よくよく見たら、その、アレだった」
酷く情けないくらいに言い訳めいたことを口にすれば、強ばった顔を緩めてポカンとした表情に変えた。
「本当に知らなかったの?」
「知らなかった。さっき、ちゃんと見て知った」
「てっきり、本物の色気お姉さんでも見ろって喧嘩売って来たんだと思ってた」
「ンな事するわけねェだろ。そもそも、前にそのままのお前でいいって言ってんのに」
帽子を脱いで深々と頭を下げるとナマエは声をあげて笑った。「普通、そんな間違いする?」と。もう一切怒っていないようで、ツボに入ったのかゲラゲラと腹を抱えて笑っている。
笑ってくれた事に安心して、おれも頬を緩めた。
「お前に嫌われたかと思って、焦った」
「嫌う訳ないじゃん。ムカついたけど」
怒ったように頬を膨らませた後に、また思い出したかのように吹き出して笑う。
「お色気お姉さんになれるのはまだまだだから、気長に待ってて」と呑気に言い、おれがそのままでいいと言ったことなんてなかったかのように話している事に少しムッとしてしまう。
おれなんかの言葉に左右される必要なんてねェのかもしれねェけど、少しくらいは受け取ってくれてもいいだろ、と思ったら、何だかイラついてしまった。
無言で ナマエの額を指で弾き、やり場のないモヤモヤをぶつければ、額を抑えて「痛い!急に何するの!」と騒いで睨み付けて来る。
ギャンギャンと騒ぐナマエを横目に街中を進んで行く途中で妙におれたちを凝視して来る奴が居ることに気が付き、ピタリと足を止めた。
「エース?どうしたの?」
突然、足を止めたおれを不思議がって顔を覗いてくるナマエにチラリと視線を移してからまた視線を元に戻す。
そいつはおれと目が合っても一切、目を逸らさない。…いや、正確には見ているのはおれじゃなくて、ナマエだった。
「…… ナマエ?」
ぽつり、そう呟かれた声におれたちは目を見開く。知り合いかと尋ねようとナマエの方を見れば、驚いたかのような表情を浮かべながら固まっていて、唇だけが微かに震えている。
「……あんた、生きてたの…?」
「…うん」
2人が交わしたたった二言の会話だけで、分かってしまった。この目の前に居る女が昔、ナマエを捨てた母親だと。よく見れば目元とか似ているような気もする。
2人は信じられないものを見たというような目でお互いを見ていた。
「………てっきり、死んだものだと…」
「は?おい、あんたなァ…!」
仮にも自分の娘に向かってその言い草はねェだろ、とカチンと来て一歩前に足を踏み出すと腕を掴まれて引き留められる。
離せと腕を引くと思ったよりも勢いがついてしまい、パシンと乾いた音を立てて手を振り払ってしまった。
ナマエは無機質な表情から一変して、貼り付けたような笑みを浮かべ直して小さく首を横に振って「いいから」と呟き、母親にそのぎこちない笑みを向ける。
「…生きてて、ごめんなさい」
口元には笑みを浮かべているのに声は頼りなく震え、今にも泣き出しそうに聞こえて、そのちぐはぐな表情と声色が歪で今にも壊れてしまいそうに見え、胸が痛くなる。
ナマエの口から聞きたくもない言葉が脳裏にこびり付いて離れない。
血が滲む程に強く唇を噛み締める。そうでもしなければ、母親に向けて暴力にも似た言葉を投げつけてしまいそうだったからだ。
いつだってそうだ。勝手な親の都合で生まれたガキは親の勝手な都合で幸せにだって不幸にだってなり得る。
おれたちはいつだってその後者だった。
生まれる事を望まれなかったおれと生きているのを望まれなかったナマエ。
サッチやマルコたちが何年もかけて、凍りついてしまった心を解いて溶かして来たというのに、一瞬にして元に、それ以上に壊そうとする母親に怒りを超えた感情が湧き上がって来る。
こんな所に居させたくなくて、手を取って早くこの場を去ってやろうと手を伸ばすがその手をすり抜けて、踵を返して走り出してしまった。
目の前に居る母親は追いかける事もせず、最悪な言葉を言ってしまった事の罪悪感に苛まれるような表情をするわけでもなく、ただ無表情で走り去るナマエの後姿を見ている。
「あいつに対して良心の呵責とかあったりしねェのかよ」
「…海賊だろ、あんた。海賊に良心がどうとかって言われる筋合いはないはずよ。全てを奪った海賊に何も言われたくない」
「おれはあんたもあいつから全てを奪ったうちの一人だと思うけどな」
その言葉に母親はぐしゃりと顔を歪めた。それは捨てた事への後悔ではなく、自分が咎められた事に顔を歪めたように見え、苛立ちが募ってしまう。
話にもならないような人間にいつまでも時間を割いているのが勿体なく感じ、早くナマエの元へ駆け付けたい衝動に駆られる。
もどかしい想いから舌打ちを落とすと自分に向けられたものかと思った母親は怯えたような目でおれを見ている。
だけど、そんな視線すらどうでもよくて。母親を真っ直ぐに見た。
この人だって被害者なのかもしれない。こんな時代の、おれの父親、海賊王が幕開けた碌でもない時代の被害者なのかもしれないけど、それでもナマエを傷付けた事実は変わりない。
「…あいつは、あんたの事、恨んでねェって言ってたぜ」
おれの言葉に驚いたように目を見張り、震えた唇が薄く開く。そんな言葉を投げられるとは予想もしていなかったようだ。
「一度、捨てちまったとしてもあんたはあいつの母親だろ。だから、さっきの言葉をおれは許せねェ」
吐き捨てるように言えば、母親は瞳を揺らしてまるで涙がこぼれ落ちないようにするかのように必死に天を仰ぐ。
過去に手離してしまった手をもう一度、取ってやって欲しいとは言わない。ただ、生きていた事を喜んでやってほしかった。
そうすれば、あいつは笑っていれたはずだ。
自分勝手な親のせいでナマエが傷つくのはもう見たくねェ。
今すぐにナマエの元に向かおうと、背を向けると後ろから嗚咽の漏れた声が聞こえたが振り返ることはせずにそのまま走り出した。
滴り落ちる汗を拭うこともしないでひたすら足を動かしていると、遠くに見慣れた小さな背中が見え、走る速度を上げる。
腕を掴んで引き止めるとナマエはゆっくりと振り返った。その目には涙は浮かんではいなくて、代わりに未だに貼り付けられたような笑顔を浮かんでいる。まるで自分の意思では取れない仮面を被っているようで眉を顰めてしまった。
「変な所見せちゃってごめんね。まさか、こんな場所で会うとは思わなかったな」
あはは、と乾いた笑いを作り出す姿を見ていられなくて瞼をギュッと閉じる。
数秒してゆっくりと瞼を持ち上げると、視界に写ったナマエはまた曖昧な表情で口元だけ笑っていた。
だけど、その唇も歪な形を縁取り、もう取り繕うの嫌がっているようにすら見えてしまう。
「まァ、どうでもいいけど」
「…良くねェだろ」
「意味なんて、ないの。私の感情も生きている事も全部」
「意味なくねェ!!」
それ以上聞きたくなくてかき消す様に声を荒げてしまったが俯いてしまい、もう何も言わない。
いつも顔を上げておれの目を見てくれる話してくれるから、おれはナマエの事がわかるのに顔を上げてくれなきゃ、何も見えなくて何も分からねェ。
「顔、上げてくれねェか」
そう頼んでも顔を上げてくれる事はなく、小さな声で「一人に、なりたい。先に船戻ってて」と呟くだけだった。
下を向いたまま、また踵を返してどこかへ行こうとする。
一人にして欲しいと言っていたが、このまま行かせてしまったら、もう二度と戻っては来ないような気がして、慌てて小さな手を掴んでしまった。ずっと、掴む事を躊躇っていたその手を。
おれが掴んだその手は予想通りと言うべきか、そうなる事は必然のようにおれの手を拒んだ。
突発的にではなく、意志を持って拒否をするかのように静かに手を押し退けられ、おれの手は行き場を無くしてしまった。
「どうせ、いつか離す気なら最初から掴まないで」
苦しそうに吐き捨てられた言葉に一瞬、呼吸が出来なくなる。
おれの躊躇いや戸惑いを見透かしたような台詞はおれの心を抉るのに充分だった。
「私のことなんて、放っておいて」
おれたちの間を吹き抜けた風にさえ、かき消されてしまいそうなくらい小さな声は確かに届いてしまって、おれの鼓膜を揺らす。
逃げ出すかのように駆け出す背中をただ見つめることしか出来なかった。
追いかけたいのにナマエに言われた「いつか離す気なら最初から掴まないで」の言葉が脳内で反芻して、足が地面に縫いつけられたかのように動かす事が出来ない。
道のど真ん中で呆然と立ち尽くしているせいで通行人と何度も肩がぶつかる。
その衝撃でよろけたままふらりと歩き出し、いく宛もなく覚束ない足取りで歩き出す。
ぼんやりとした頭で辿り着いた街の広場のベンチに投げやるように腰を下ろし、何気なしに空を見上げてみる。
頭ん中、空っぽだ。最適解が見つからねェ。
どれぐらいそうしていたのか分からない。
船に戻る気にはならなくて、でも追いかけるにはまだ躊躇ってしまって。
あれほど、清々しい蒼色をしていた空はもう朱に染まり始めていた。
「どうすりゃいいんだよ…」
独りごちたその言葉は虚に消えて行く。
おれが海賊王の息子じゃなければ…おれじゃなければ良かったのに。
そう思った瞬間、脳裏にサッチがおれに「あいつの事、頼むよ」と言った事とデュースの「案外簡単に答えは見つかるもんだぜ。お前のココに素直になれば、な」という言葉が思い浮かんだ。
…今、ごちゃごちゃ考えても仕方ねェ。
サッチに頼まれたのは他の誰でもなく、おれだ。
後のことなんて、今は知らねェ。
自分の思ったままに行動しようと腰を上げる。
とにかく、今はナマエを探す事だけに集中しようと決め、走り出した。
街中を走り回って探しているが一向に見つからず、焦燥感に駆られる。
暫く走り続けていると、船を止めた岸とは反対の海辺で膝を抱えて砂浜に座っているナマエの後姿を見つけた。
安堵して、すぐ様に駆け寄ろうとしたが、第一声に迷ってしまい、足を止めてしまう。
どうするべきか、小さな背中を見てい考えていると、前にサッチが言っていた事を思い出した。
「ただ、いつも朝から晩まで船の隅っこで膝を抱えて自分の故郷の方角をジッと見つめてた」
もしかしたら、あっちの海の先にあいつの故郷があるのかもしれない。
そうやってジッと親の姿を探すように海を見つめていた幼い頃の姿を今の後ろ姿に重ねてしまい、居ても立っても居られなくなって、また足を動かし始めた。
変に慰めの言葉なんていらねェ。逆にウザったいだけだ。
一人にして欲しいと言われたが、おれがナマエの傍に居たいという勝手な感情のままに行動に移した。
砂を噛む音が辺りに響いているような気もするが、きっと波の音がかき消してナマエには届いていないだろう。
人ひとり分の距離を空けて、隣に胡座をかいて腰を下ろす。
おれに気が付いているはずなのに顔をこっちに向ける訳でもなく、ただ静かに真っ直ぐに海を見つめ続けていた。
なんとなく、居心地が悪くて右足を立てたりと何度も座り直してしまう。
そうしているうちに、最初胡座だったのにいつまにかナマエと同じように両膝を立てた座り方になってしまっていた。
あっちに行けとか一人にしろとか言って来ないのでセーフだと勝手に判断し少しだけ肩の力を抜きながら、手持ち無沙汰になっている指先を遊ばせる。
同じようにただ真っ直ぐに水平線を見つめていると微かに音が聞こえて、左隣に顔を向けるとナマエはもう海は見ていなくて膝に顔を埋めていた。
ほぼ無意識だったが、おれは凝りもせずにまた手を伸ばして頭に手を乗せた。そのまま軽く撫でると更に身体を縮こませてしまう。
鼻を啜るような音が聞こえ、撫でていた手がピタリと止まる。
こういう時、どうしたらいいのか分からなくなるなんて、情けねェ。
泣き虫だったルフィには「泣き虫も甘たったれも嫌いだ」なんて厳しくも出来るのに。
ナマエは泣きたいハズなのにいつも変に笑っているのを知っているから、おれの前でくらい弱音を吐いたり、泣いたってすればいいのに、と思う。
おれはサッチみたいに気の利いた言葉を言えるわけでもねェし、イゾウみたいに特別な優しさを持っているわけでもない。
こいつを笑わせてやる事も本音を吐かせてやることすら、何も出来ない不甲斐なさに打ちのめさてしまう。
無力な自分が歯痒くて悔しくて、奥歯を噛み締めた。
「…エース、ごめん。さっきの、嘘」
膝に顔を埋めたまま絞り出した声はくぐもっていて聞こえずらかったけど絶対に聞き漏らしたくなくて、自分の呼吸音すら煩わしく思えて、馬鹿みたいに息を止めて耳を傾ける。
「本当は...本音は、寂しかった」
ゆっくりと顔を上げてまた海を眺めながらそう言ったナマエの横顔を見つめていると、大粒の涙が瞳からポロリと零れ落ち、頬をゆっくりと伝う。
その雫は悲しいほどの夕暮れに染められていて、それを見たら時が止まってしまったかのようにおれは動けなくなってしまった。
「本当はお母さんに愛されてたって、いつか迎えに来てくれるって信じていたかった…。だけど、それも私の都合の良い妄想だったみたい。馬鹿みたいだよね」
「…馬鹿じゃねェ」
作った笑顔で無理矢理に堰き止められていた感情が溢れ出したかのように止まらないのを見たら、身体は勝手に動いてしまう。
人ひとり分の距離を詰めて、包み込むように横から抱き締めた。
警鐘が鳴り響くように心臓が鳴るが、そんな事今はどうでもいい。
今、ここで何もしなかったら今度こそ本当に消えてしまう気がして、離すことが出来ない。
微かに揺れた肩が徐々に震えて、回ったおれの腕に静かに手が触れる。
また振り払われるかと思ったが今度はそうではなくて、触れた手はきゅっと力が込められた。
「…エースは、居なくならないで 」
腕の中に感じる暖かな温もりを確かめるように腕の力を込めればナマエが生きている証を感じ取れて安心感を覚えた。
オレンジに染まった海に溶けて消えてしまわないように、炎のような空に飲み込まれていってしまわないようにと、ガキみたいに無我夢中で願ってしまう。
大切な誰かをもう二度と喪いたくなくて強くなりたかった。強くなったと思ったのにおれはまだまだ弱い。大事な奴さえも守れないほど、まだちっぽけな人間だ。
「…悪りィ」
自分勝手な感情のまま抱きしめてしまった腕をゆっくりと離すと顔を上げておれの顔を見た。その瞳は濡れていて、未だに揺れていた。
心臓を鋭利な刃物で刺されたかのように痛くなって息が詰まる。
きっと、いつかこのまま隣に居てしまったら、今度はこんな顔を自分がさせてしまうだろうと怖くなってしまった。
「おれは、お前の傍に居ちゃダメだなんだ。これ以上は…踏み込めねェ」
「どうして…?」
傷ついたように眉を下げて、また一つ涙を瞳からこぼれ落ちたのが見え、見ていられなくなって視線を逸らして少し下を向く。
おれのたった一つの言葉で好きなヤツの涙を生んでしまう。だから、これ以上の涙を生まない為に隠していた事を話さなければならないと心に決めた。
これを話したら、今までのようには隣に居られなくなる事は分かっているけれど、今のおれにはそうする事しか出来ない。
その手に触れてしまったこと、自分の腕の中に抱いてしまったこと、ナマエの隣で生きたいと思ってしまったこと。その全てが罪だったというのに。
「おれは海賊王、ゴールド・ロジャーの息子だ。いつかその事実がお前を傷つける時が必ず来る」
息を呑む音が聞こえ、鼓動が早くなる。
ナマエの反応が怖くて顔を見れない。
未だに俯いたまま、唇を噛みして瞼を固く閉じた。昔、言われて来た言葉たちを思い返しながら、深呼吸をしてその傷をもう一度受ける準備をする。
ゆっくりと息を吐いてから顔を上げて、ナマエの顔をしっかりと真正面から見据えて、口を開く。
「おれはナマエの居る所には行けねェし、お前をこっち側に来させる訳にもいかねェ。だから…」
最初から用意していたかのようにスラスラと口から出る言葉を何処か他人事のように感じながら伝えていると、ナマエは何も言わずに手を伸ばして、おれの腕を自分の方に引っ張って距離を詰めた。
「な…ッ、おい!」
「理由はそれだけ?そっち側とかこっち側とか私には分からない」
ナマエは意志の宿ったような瞳で真っ直ぐにおれを見つめ返す。まるで逃げ出す事を許さないというかのようなその目におれは瞬きすら出来ない。
「エースがこっちに来れないと思うなら、私が無理矢理にでもこっち側に引きずり込んでやる」
「は…?」
「エースが嫌がっても力づくでなんとかする。そう簡単には引き下がらない。引き下がりたくない」
さっきまで、べそべそ泣いていたのがまるで幻だったかのように挑発的な笑みを浮かべておれを見据えてくるのを見て呆気に取られる。こんな反応が返って来るとは思ってなくて、どうしていいのか分からず狼狽えてしまう。
「欲しい物は奪うのが海賊、でしょ?」
ナマエは太陽のようにニカッと笑ってから、踵を返して数歩進む。そして、ピタリと歩を止めて首だけで振り返った。
「本当は、私がエースと一緒に居たいだけ。ごめんね、自分勝手な理由で」
エースは私のことを考えて言ってくれているのにね、と呟き、今度は月のように静かに笑う唇は微かに震えていて、さっきの挑発的な表情はただの虚勢だった事を知る。
そうまでして、おれを繋ぎ止めようとしてくれた事が嬉しくて、胸が苦しい。
どうして、こんなにも必死に飛び越えて来ようとするのか。
傷付けたくない、でも、傍に居て欲しい。
2つの感情がせめぎ合い、辛くなる。
誤魔化すかのように、視線を逸らして海の方へ目をやれば沈みかけている真っ赤な太陽がやけに目に染みる。内側から焦がすように熱くて、視界さえもぼやけて、頬まで熱くなった気がした。