真Ⅴ
「兄弟、何かやり残したことはないか」
穏やかな朝だった。人間だった頃ならサラダをつついてパンにバターを塗りながら、淹れたての珈琲を飲んでいるような朝だった。
乳よりも冷たく、白く、まろい床に脚を降ろす。兄が恭しく手を差し伸べる。
食事はとうに必要なくなっていた。必要なのは信仰とマガツヒだけだった。創世を為したこの身には有り余る信仰が寄せられた。マガツヒも夜の間に満ちていた。
足りないものはなかった。
ないはずだったが、兄の不意の問いかけに少し頭を捻った。
「俺さ、友達がいない」
「そうだな」
「いやそうだなじゃなくてさ、否定してよ」
「捨てただろう。友垣は」
創世の折に。
そう言われて万古の神殿で戦ったナホビノ達を思い出した。
友達だったのだろうか。
彼は自分に友誼を抱いていたのだろうか。
俺は別に、太宰を嫌いだと思ったことはなかった。太宰を嫌いだと思ったことがなかったことに、たった今気がついた。
俺を生き返らせる為に死んだ聖女を思い出した。
友達だった気がする。そう呼んでも違和感のない関係だったと思う。
至聖女は事象の女神として俺を座に導き消えた。
「……そうだね。俺が殺したんだった」
友人と呼べる関係の人間が一人いた。
殺せなかった。友人とその生命が語る世界の理想に頷いてしまったから。
殺す前に殺されてしまったから。
斃されたはずの神の似姿を写しとることは創世神の力なら容易かった。一分違わず作り上げたツクヨミの器は、その魂に知恵と生命の記憶を持たなかった。
それでもここは俺達の創った天津神の統べる世界なのだと伝えれば、ただ一言「そうか」と得心した。たとえお前も俺が殺したのだと言っていたとしても、兄は怒りもせず納得しそうだった。
「俺さあ」
どうして兄を殺したのが自分なのだと嘘をつかなかったのか忘れてしまった。至高天ではどのナホビノが座に着いてもおかしくなかった。兄が王となっていても、おかしくはなかった。
「ラーメン食いに行きたいな」
「そうか」
ただ俺が、誰よりも強かっただけだ。
多分、兄よりも。
破壊衝動の中に生きていても人間は秩序を持つ。
原始的な信仰と種族の維持に必要な程度の秩序によって生まれた国家を、俺は他の国家とある程度足並みを揃えつつ多少弄っていた。
文字とかをあげたり。詩歌を作ってみたり。印刷とか輸入してみたり。特に他意はない。
なんとなく文明もできてきた。ラーメン屋もある。
創世神が願えばラーメンくらいポッと作れるはすだが俺に足りないのは「ラーメン」ではなく「ラーメン屋にラーメンを食いにいくこと」だったのでわざわざ人界に降りた。
ツクヨミと共に、人間の姿をとって。
「醤油か味噌しかねえ〜……せめて塩……多様性が聞いて泣いてるよ……」
「醤油か味噌ではダメなのか」
「ダメじゃないし一周回ってシンプルな中華そばがやっぱ最高だねとか言うの逆に通っぽくていいけどそうじゃねぇ〜……選択肢がさあ……ていうか全マシとか無性に食いたい時が……」
「ダメなのか」
「ダメじゃないです。入りましょう」
空気を湿らせる程度の小雨が降っていた。
寒いというのはこういう感覚なのだな。久しく感じていなかった。
兄が怒ると骨まで凍るような霜を投げつけてきたがそれとはまた違う感覚だった。
掘立て小屋のような店内に入り席に着く。
「昭和だあ〜……」
「醤油かい?」
「ウィッス。それで」
「私も同じものを」
「まいど〜、醤油二丁ね」
厨房の角のゴキブリホイホイの中身がとても気になるが、考えないことにした。世の中には知らない方がいいこともある。
窓が結露していて、傘立てに濡れた傘が数本刺さっていた。店内にはちらほら客がいたが互いに無関心だ。ツクヨミと俺が人目を避ける術を使っていなくても多分数時間、数分後には俺達の姿が記憶から消えているに違いない。
「こうしてるとさあ」
お冷のグラスが2つ置かれる。
少しだけ口に入れて冷たい水道水の味を確かめて、また置く。
「なんだ」
「デートしてるみたいだね」
「そうだな」
はぁー、と深い息を吐いて、テーブルに突っ伏した。
ツクヨミはそうだな、と思ったからそうだな、と言ったのだ。それ以上でも以下でもない。
「俺はさあ、すごい真剣にさあ、愛とか込めてさあ」
「来たぞ」
「……アザーッス」
「愛している」
「は?」
醤油ラーメンが湯気を立てている。そんなことは今はいい。聞き捨てならないセリフを吐かれた気がして、思わず聞き返した。
「我も、お前を愛している。弟として」
「そっかあ……」
ツクヨミにとっては俺が何をしても弟の、そして自分の器を創り上げた王の児戯なのだろう。
「食べなさい」
そう言ってツクヨミは自分の分のラーメンに乗っていたチャーシューを俺の分のラーメンに乗せてきた。
「わーいありがと、俺チャーシュー大好き」
「そうか」
そういってラーメンを黙々と啜る、その目元が少し緩んでいることを、この世で認識できるのは多分俺だけだった。
「叶うなら兄上と友達になりたかったな」
丼の底のネギを執拗に追い回しながらそう言った。
「こうしているのは、友達ではないのか」
「いや…きょうだいだからさ。友達の前に、きょうだいが来るじゃん」
ツクヨミが微笑んでいる。それが視覚でわかるだけで、俺は普段より饒舌になった。
「俺さ、敦田とラーメン食いに行く時いつも敦田のチャーシュー貰ってたけど、別にチャーシューがめちゃくちゃ好きだった訳じゃなくて、敦田にちょっとだけ迷惑かけたかったんだよ」
「わかっていたよ」
「……そっか」
普段より饒舌になった俺は少し余計な感傷をツクヨミにぶつけた。
返ってきたのは柔らかな言葉だった。かつて俺の友人だった男が、俺にかけていたような。それはツクヨミが想定から作り上げた、存在しない記憶のはずだった。
俺にはもう、友人がいない。
「帰ろう」
座に。二柱の在るべきところに。
「スサノオ、」
「あるよ。でももう、いい」
やり残したことがないか、きっと聞いてくれるはずだと、それくらいは兄のことを理解していた。
合っていたのか間違っていたのかわからないが、ツクヨミはそれ以上口を開かなかった。
座で互いの肉にマガツヒを満たし、眠りついた後。
目覚めるとツクヨミは跡形もなく消えていた。
穏やかな朝だった。人間だった頃ならサラダをつついてパンにバターを塗りながら、淹れたての珈琲を飲んでいるような朝だった。
乳よりも冷たく、白く、まろい床に脚を降ろす。兄が恭しく手を差し伸べる。
食事はとうに必要なくなっていた。必要なのは信仰とマガツヒだけだった。創世を為したこの身には有り余る信仰が寄せられた。マガツヒも夜の間に満ちていた。
足りないものはなかった。
ないはずだったが、兄の不意の問いかけに少し頭を捻った。
「俺さ、友達がいない」
「そうだな」
「いやそうだなじゃなくてさ、否定してよ」
「捨てただろう。友垣は」
創世の折に。
そう言われて万古の神殿で戦ったナホビノ達を思い出した。
友達だったのだろうか。
彼は自分に友誼を抱いていたのだろうか。
俺は別に、太宰を嫌いだと思ったことはなかった。太宰を嫌いだと思ったことがなかったことに、たった今気がついた。
俺を生き返らせる為に死んだ聖女を思い出した。
友達だった気がする。そう呼んでも違和感のない関係だったと思う。
至聖女は事象の女神として俺を座に導き消えた。
「……そうだね。俺が殺したんだった」
友人と呼べる関係の人間が一人いた。
殺せなかった。友人とその生命が語る世界の理想に頷いてしまったから。
殺す前に殺されてしまったから。
斃されたはずの神の似姿を写しとることは創世神の力なら容易かった。一分違わず作り上げたツクヨミの器は、その魂に知恵と生命の記憶を持たなかった。
それでもここは俺達の創った天津神の統べる世界なのだと伝えれば、ただ一言「そうか」と得心した。たとえお前も俺が殺したのだと言っていたとしても、兄は怒りもせず納得しそうだった。
「俺さあ」
どうして兄を殺したのが自分なのだと嘘をつかなかったのか忘れてしまった。至高天ではどのナホビノが座に着いてもおかしくなかった。兄が王となっていても、おかしくはなかった。
「ラーメン食いに行きたいな」
「そうか」
ただ俺が、誰よりも強かっただけだ。
多分、兄よりも。
破壊衝動の中に生きていても人間は秩序を持つ。
原始的な信仰と種族の維持に必要な程度の秩序によって生まれた国家を、俺は他の国家とある程度足並みを揃えつつ多少弄っていた。
文字とかをあげたり。詩歌を作ってみたり。印刷とか輸入してみたり。特に他意はない。
なんとなく文明もできてきた。ラーメン屋もある。
創世神が願えばラーメンくらいポッと作れるはすだが俺に足りないのは「ラーメン」ではなく「ラーメン屋にラーメンを食いにいくこと」だったのでわざわざ人界に降りた。
ツクヨミと共に、人間の姿をとって。
「醤油か味噌しかねえ〜……せめて塩……多様性が聞いて泣いてるよ……」
「醤油か味噌ではダメなのか」
「ダメじゃないし一周回ってシンプルな中華そばがやっぱ最高だねとか言うの逆に通っぽくていいけどそうじゃねぇ〜……選択肢がさあ……ていうか全マシとか無性に食いたい時が……」
「ダメなのか」
「ダメじゃないです。入りましょう」
空気を湿らせる程度の小雨が降っていた。
寒いというのはこういう感覚なのだな。久しく感じていなかった。
兄が怒ると骨まで凍るような霜を投げつけてきたがそれとはまた違う感覚だった。
掘立て小屋のような店内に入り席に着く。
「昭和だあ〜……」
「醤油かい?」
「ウィッス。それで」
「私も同じものを」
「まいど〜、醤油二丁ね」
厨房の角のゴキブリホイホイの中身がとても気になるが、考えないことにした。世の中には知らない方がいいこともある。
窓が結露していて、傘立てに濡れた傘が数本刺さっていた。店内にはちらほら客がいたが互いに無関心だ。ツクヨミと俺が人目を避ける術を使っていなくても多分数時間、数分後には俺達の姿が記憶から消えているに違いない。
「こうしてるとさあ」
お冷のグラスが2つ置かれる。
少しだけ口に入れて冷たい水道水の味を確かめて、また置く。
「なんだ」
「デートしてるみたいだね」
「そうだな」
はぁー、と深い息を吐いて、テーブルに突っ伏した。
ツクヨミはそうだな、と思ったからそうだな、と言ったのだ。それ以上でも以下でもない。
「俺はさあ、すごい真剣にさあ、愛とか込めてさあ」
「来たぞ」
「……アザーッス」
「愛している」
「は?」
醤油ラーメンが湯気を立てている。そんなことは今はいい。聞き捨てならないセリフを吐かれた気がして、思わず聞き返した。
「我も、お前を愛している。弟として」
「そっかあ……」
ツクヨミにとっては俺が何をしても弟の、そして自分の器を創り上げた王の児戯なのだろう。
「食べなさい」
そう言ってツクヨミは自分の分のラーメンに乗っていたチャーシューを俺の分のラーメンに乗せてきた。
「わーいありがと、俺チャーシュー大好き」
「そうか」
そういってラーメンを黙々と啜る、その目元が少し緩んでいることを、この世で認識できるのは多分俺だけだった。
「叶うなら兄上と友達になりたかったな」
丼の底のネギを執拗に追い回しながらそう言った。
「こうしているのは、友達ではないのか」
「いや…きょうだいだからさ。友達の前に、きょうだいが来るじゃん」
ツクヨミが微笑んでいる。それが視覚でわかるだけで、俺は普段より饒舌になった。
「俺さ、敦田とラーメン食いに行く時いつも敦田のチャーシュー貰ってたけど、別にチャーシューがめちゃくちゃ好きだった訳じゃなくて、敦田にちょっとだけ迷惑かけたかったんだよ」
「わかっていたよ」
「……そっか」
普段より饒舌になった俺は少し余計な感傷をツクヨミにぶつけた。
返ってきたのは柔らかな言葉だった。かつて俺の友人だった男が、俺にかけていたような。それはツクヨミが想定から作り上げた、存在しない記憶のはずだった。
俺にはもう、友人がいない。
「帰ろう」
座に。二柱の在るべきところに。
「スサノオ、」
「あるよ。でももう、いい」
やり残したことがないか、きっと聞いてくれるはずだと、それくらいは兄のことを理解していた。
合っていたのか間違っていたのかわからないが、ツクヨミはそれ以上口を開かなかった。
座で互いの肉にマガツヒを満たし、眠りついた後。
目覚めるとツクヨミは跡形もなく消えていた。