真Ⅴ
東京が消えかけている。
煮詰めた飴のような西日の光の中で消えゆくシャカイナグローリーと、そう遠くないうちにおそらく身の振り方を考えなければいけないことを充分理解した上で、俺はアオガミの言葉に全力で甘え、当座の心残りを解消するために台東区のダアトからヤバいことになっている生まれ育った東京に戻ってきていた。
お菓子を作らなければならない。
それが俺の喉に引っかかった小骨のような後悔を解消するためにどうしても必要なことだった。
元々趣味で料理をしていたがなんとなくその日食べるものを作ってただけで凝った料理はたまにしか作っていない。そして、いつか菓子を作りたいと思いつつ薄暗い雰囲気最悪の寮のキッチン備え付けの時代錯誤すぎるオーブンと戦う意志が湧かず、作ったことはなかった。
お菓子を作らなければならない。簡単インスタントゼリーみたいなやつではなくそこそこ手の込んだ、しかして初心者にもハードルの低いお菓子を。
駅前の本屋で、200円引きになっていた「かんたん本格おやつ特集」の載っている料理番組のテキストを買い、その辺の植え込みにもたれてパラパラとめくる。
絶対に焼き菓子を作りたい。クッキーより凝っていて、ケーキより簡単な……
何度かページをはぐって、一つの菓子に目星をつけた。
「簡単でとってもおいしい アップルクランブル 出来立てでも、冷蔵庫で冷やしても」
材料も少なく調理時間もそこまで長くない。あとなんか名前がいい。
そうと決まれば決断的に材料を購入する必要がある。寮には薄力粉と砂糖くらいしかない。
林檎、レーズンバターとシナモン、くるみ。製菓には酸味の強い固い林檎がいいと聞くけど、林檎の種類などわかるはずもなく、とびきり赤いものを適当に手に取る。バニラアイスクリームはいらないかとも思ったが、おそらくここでアイスクリームを添えなかったら至高天とかいうところに行っても後悔すると思い、レディーボーデンのバニラを買った。そうなるとイタリアンパセリも欲しいところだが、狭いスーパーマーケットの中には見当たらず、探す気も起きなかったのでミントで代用することにした。
買い物をしたことにより、やる気スイッチみたいなものが完全にオンになった気がする。やらなきゃいけないことを後回しにしてやる遊びほど楽しいものはない。全く疲労を感じずに帰寮した。靴を脱いで階段を上がる。
手を洗い、材料を計量して、まずはクランブル生地を作る。薄力粉は振るわなくてもいいと書いてあったが、一応振るった。レシピではきび砂糖と書いてあったが普通の砂糖で代用する。振るった薄力粉と砂糖を合わせて、バターとくるみを加えて指で混ぜてそぼろ状になるまで練る。指にバターが付く感覚がなんとも落ち着かないが無心で混ぜる。出来た生地を寝かせて、林檎を切って砂糖とシナモンを馴染ませる。皮は剥いても剥かなくても、と書いてあったが、レシピの写真が皮付きだったので剥かないことにした。当然すこし味見をするわけだが、少し甘味が強い気がした。レモン汁でもあればいいのかもしれない。よく知らないが。
グラタン皿に林檎を敷き詰め、クランブル生地で埋める。化石みたいなオーブンで、焼き目が付くまで焼く。
焼き菓子の匂いに誘われて数名の生徒が声をかけてきた。余ったら分けると適当に返事をする。考えてみればお菓子を作りたい衝動に身を任せていただけでそこまで甘い物が好きなわけでもない。やたら大量に作ったのでおそらく一人では余る。そう考えるとちょうど良かった。
「という訳で、こちらが完成したアップルクランブルです」
「手は洗ったのか」
「洗いました。バカにしないでくれる?」
自室のテーブルの向かいに、ストックから呼んだセタンタがちょこんと座っている。座り方はちょこんとしているがまあまあ背丈がある武装した男が座っているので圧が強い。
盛り付けられたアップルクランブルにバニラアイスクリームとミントを添える。お供に、マグカップに注いだティーバッグの紅茶。
「先程も言ったが私がこれを食べても大したマガツヒにはならないぞ」
「知ってる。でもやっぱ雰囲気とかあるじゃん。敦田も太宰もいないし、アオガミはそもそも食べれないし」
部屋の隅でアオガミが微かに頷く気配がする。
「早く食べよ」
腰を下ろして自分の分の皿を手に取る。林檎と生地を掬って、溶けかけたアイスクリームを絡めて口に入れる。
「うま……」
「甘くて美味いな」
「ヤバい……俺は18年間もパティシエになり得る才能を腐らせてきたのか……」
大袈裟にリアクションして自室の床に倒れ込み、ついでに転がる。
「転がるな。行儀が悪いぞ。足も汚い」
「汚いのは靴下ですぅー俺の足は汚くない!」
騒ぎながらお菓子を食べる。セタンタはたしなめる素振りはするが淡々と食べ進めている。別にボロボロこぼしているわけではないがかといって上品な食べ方でもない。そういうところが我ながら良い人選(悪魔選?)だったと思える。
セタンタが手を止める。
「石ころが入っているんだが」
「ああそれね、フェーヴだよ」
「フェーヴ」
「当たりですね、セタンタには幸福が訪れるでしょう」
「私はよく知らないが、フェーヴとはガレット・デ・ロワに入っているものなのではないのか」
「これは俺の骨」
「話を聞いていないな?そしてこれはただの石ころだな」
「シャカイナグローリーのほんの一握りの残光に転がってたただの石と、俺の骨に、なんか違いってあるのかな」
セタンタは口をつぐんで、少し動きを止めて、ぎこちなく小石をよけて、またアップルクランブルを口に運んだ。
「あなたはそんな柄じゃないだろう。あなたは……捉えどころのない、激しい水のような……」
「それって俺の髪が青いから?」
「いや、それだけでは……あなたは苛烈に、勇猛に戦う」
自分の言葉に笑いそうになった、俺の髪は青くない。青いのは、ナホビノになった俺の髪だ。
「俺の骨食べてもいいからね」
「石ころはいらないが?」
林檎の焼き菓子を食べながらくつくつと笑う。笑ったら急に疲れが出てきて、身体を動かすのが億劫になる。お菓子を作るという目的を達成したことでアドレナリンが切れたのかもしれない。渋くなった紅茶を啜って考える。
屋上に置いた靴は、アオガミに取りに行ってもらおう。
煮詰めた飴のような西日の光の中で消えゆくシャカイナグローリーと、そう遠くないうちにおそらく身の振り方を考えなければいけないことを充分理解した上で、俺はアオガミの言葉に全力で甘え、当座の心残りを解消するために台東区のダアトからヤバいことになっている生まれ育った東京に戻ってきていた。
お菓子を作らなければならない。
それが俺の喉に引っかかった小骨のような後悔を解消するためにどうしても必要なことだった。
元々趣味で料理をしていたがなんとなくその日食べるものを作ってただけで凝った料理はたまにしか作っていない。そして、いつか菓子を作りたいと思いつつ薄暗い雰囲気最悪の寮のキッチン備え付けの時代錯誤すぎるオーブンと戦う意志が湧かず、作ったことはなかった。
お菓子を作らなければならない。簡単インスタントゼリーみたいなやつではなくそこそこ手の込んだ、しかして初心者にもハードルの低いお菓子を。
駅前の本屋で、200円引きになっていた「かんたん本格おやつ特集」の載っている料理番組のテキストを買い、その辺の植え込みにもたれてパラパラとめくる。
絶対に焼き菓子を作りたい。クッキーより凝っていて、ケーキより簡単な……
何度かページをはぐって、一つの菓子に目星をつけた。
「簡単でとってもおいしい アップルクランブル 出来立てでも、冷蔵庫で冷やしても」
材料も少なく調理時間もそこまで長くない。あとなんか名前がいい。
そうと決まれば決断的に材料を購入する必要がある。寮には薄力粉と砂糖くらいしかない。
林檎、レーズンバターとシナモン、くるみ。製菓には酸味の強い固い林檎がいいと聞くけど、林檎の種類などわかるはずもなく、とびきり赤いものを適当に手に取る。バニラアイスクリームはいらないかとも思ったが、おそらくここでアイスクリームを添えなかったら至高天とかいうところに行っても後悔すると思い、レディーボーデンのバニラを買った。そうなるとイタリアンパセリも欲しいところだが、狭いスーパーマーケットの中には見当たらず、探す気も起きなかったのでミントで代用することにした。
買い物をしたことにより、やる気スイッチみたいなものが完全にオンになった気がする。やらなきゃいけないことを後回しにしてやる遊びほど楽しいものはない。全く疲労を感じずに帰寮した。靴を脱いで階段を上がる。
手を洗い、材料を計量して、まずはクランブル生地を作る。薄力粉は振るわなくてもいいと書いてあったが、一応振るった。レシピではきび砂糖と書いてあったが普通の砂糖で代用する。振るった薄力粉と砂糖を合わせて、バターとくるみを加えて指で混ぜてそぼろ状になるまで練る。指にバターが付く感覚がなんとも落ち着かないが無心で混ぜる。出来た生地を寝かせて、林檎を切って砂糖とシナモンを馴染ませる。皮は剥いても剥かなくても、と書いてあったが、レシピの写真が皮付きだったので剥かないことにした。当然すこし味見をするわけだが、少し甘味が強い気がした。レモン汁でもあればいいのかもしれない。よく知らないが。
グラタン皿に林檎を敷き詰め、クランブル生地で埋める。化石みたいなオーブンで、焼き目が付くまで焼く。
焼き菓子の匂いに誘われて数名の生徒が声をかけてきた。余ったら分けると適当に返事をする。考えてみればお菓子を作りたい衝動に身を任せていただけでそこまで甘い物が好きなわけでもない。やたら大量に作ったのでおそらく一人では余る。そう考えるとちょうど良かった。
「という訳で、こちらが完成したアップルクランブルです」
「手は洗ったのか」
「洗いました。バカにしないでくれる?」
自室のテーブルの向かいに、ストックから呼んだセタンタがちょこんと座っている。座り方はちょこんとしているがまあまあ背丈がある武装した男が座っているので圧が強い。
盛り付けられたアップルクランブルにバニラアイスクリームとミントを添える。お供に、マグカップに注いだティーバッグの紅茶。
「先程も言ったが私がこれを食べても大したマガツヒにはならないぞ」
「知ってる。でもやっぱ雰囲気とかあるじゃん。敦田も太宰もいないし、アオガミはそもそも食べれないし」
部屋の隅でアオガミが微かに頷く気配がする。
「早く食べよ」
腰を下ろして自分の分の皿を手に取る。林檎と生地を掬って、溶けかけたアイスクリームを絡めて口に入れる。
「うま……」
「甘くて美味いな」
「ヤバい……俺は18年間もパティシエになり得る才能を腐らせてきたのか……」
大袈裟にリアクションして自室の床に倒れ込み、ついでに転がる。
「転がるな。行儀が悪いぞ。足も汚い」
「汚いのは靴下ですぅー俺の足は汚くない!」
騒ぎながらお菓子を食べる。セタンタはたしなめる素振りはするが淡々と食べ進めている。別にボロボロこぼしているわけではないがかといって上品な食べ方でもない。そういうところが我ながら良い人選(悪魔選?)だったと思える。
セタンタが手を止める。
「石ころが入っているんだが」
「ああそれね、フェーヴだよ」
「フェーヴ」
「当たりですね、セタンタには幸福が訪れるでしょう」
「私はよく知らないが、フェーヴとはガレット・デ・ロワに入っているものなのではないのか」
「これは俺の骨」
「話を聞いていないな?そしてこれはただの石ころだな」
「シャカイナグローリーのほんの一握りの残光に転がってたただの石と、俺の骨に、なんか違いってあるのかな」
セタンタは口をつぐんで、少し動きを止めて、ぎこちなく小石をよけて、またアップルクランブルを口に運んだ。
「あなたはそんな柄じゃないだろう。あなたは……捉えどころのない、激しい水のような……」
「それって俺の髪が青いから?」
「いや、それだけでは……あなたは苛烈に、勇猛に戦う」
自分の言葉に笑いそうになった、俺の髪は青くない。青いのは、ナホビノになった俺の髪だ。
「俺の骨食べてもいいからね」
「石ころはいらないが?」
林檎の焼き菓子を食べながらくつくつと笑う。笑ったら急に疲れが出てきて、身体を動かすのが億劫になる。お菓子を作るという目的を達成したことでアドレナリンが切れたのかもしれない。渋くなった紅茶を啜って考える。
屋上に置いた靴は、アオガミに取りに行ってもらおう。