真Ⅴ
赤黒い空の下で、油のように黒く波がうねっている。実際淀んだ潮の匂いに混じって、ほんの微かに工業用の油の匂いがしてくる。
崖は悠にその辺に突っ立ってるビルの残骸より高くて、下で小さく白波を立てる水面に叩きつけられれば無事では済まないことがわかる。
落ちたい。
アオガミによるセーフティが働いているのか、崖にかけた脚はもう一歩どころか1ミリも前進してくれない。馬鹿みたいにただ断崖に突っ立って生ぬるいダアトの潮風を浴び続けている。不快さも通り越して、いっそこの停滞した時間に安堵すら覚える。
もはやこの命は自分のものではない、厳密に言えばアオガミは身体の自由を自分の意思に委ねているのだから、まだ命は自分の領分ではあるのかもしれない。でもこの身体は、マガツヒを啜ることを敵を切り裂くことを無尽に駆けることを由とするこの身体のどこが自分の命なのだろう。いや、そんなことを言えば造られた東京に生きる造られた人間である自分の、どこが本当に自分の命と呼べるものなのだろう。
落ちたい。
港区でも度々胸によぎった感情が膨れ上がって脳を苛む。かすかに蒼く光る指を太陽なのか月なのかなんだかわからない意味不明な光源に晒しても血の管が赤く透けることはないのに、戦えば自分の身体は愚直に血を流す。この血はどこからくるのか。誰のものなのか。
落ちたい。落ちてバラバラに砕けて何も無くなればいい。マガツヒも血も髪も肌も骨も肉も脂も全て輪郭を無くしてぐちゃぐちゃになって黒い海に飲まれてしまえばいい。昨日までの全てが嘘になるなら明日を望まなければいい。
「アオガミ」
落ちようよ。そう言葉を作ろうとして、舌は動かなかった。胸の内には何の願いも浮かばなかった。
何の願いも?
「死にたくないよ」
『……君を守る為、力を尽くそう』
数拍おいて頭の中に返答が響く。
アオガミがセーフティをかけていたのはきっと事実なのだろうけど、そんなものなくても俺は多分1ミリも、海へ歩み寄れなかったことを理解した。
死にたくない。消えたくない。どこへも帰りたくない。痛みは平気じゃない。戦いたくなんて、ない。
落ちたくなんてなかった。
赤黒い空の下でうねる油のような暗い海よりずっと、自分の本能が恐ろしくて俺はえずいた。
胃液さえも出てこなかった。
崖は悠にその辺に突っ立ってるビルの残骸より高くて、下で小さく白波を立てる水面に叩きつけられれば無事では済まないことがわかる。
落ちたい。
アオガミによるセーフティが働いているのか、崖にかけた脚はもう一歩どころか1ミリも前進してくれない。馬鹿みたいにただ断崖に突っ立って生ぬるいダアトの潮風を浴び続けている。不快さも通り越して、いっそこの停滞した時間に安堵すら覚える。
もはやこの命は自分のものではない、厳密に言えばアオガミは身体の自由を自分の意思に委ねているのだから、まだ命は自分の領分ではあるのかもしれない。でもこの身体は、マガツヒを啜ることを敵を切り裂くことを無尽に駆けることを由とするこの身体のどこが自分の命なのだろう。いや、そんなことを言えば造られた東京に生きる造られた人間である自分の、どこが本当に自分の命と呼べるものなのだろう。
落ちたい。
港区でも度々胸によぎった感情が膨れ上がって脳を苛む。かすかに蒼く光る指を太陽なのか月なのかなんだかわからない意味不明な光源に晒しても血の管が赤く透けることはないのに、戦えば自分の身体は愚直に血を流す。この血はどこからくるのか。誰のものなのか。
落ちたい。落ちてバラバラに砕けて何も無くなればいい。マガツヒも血も髪も肌も骨も肉も脂も全て輪郭を無くしてぐちゃぐちゃになって黒い海に飲まれてしまえばいい。昨日までの全てが嘘になるなら明日を望まなければいい。
「アオガミ」
落ちようよ。そう言葉を作ろうとして、舌は動かなかった。胸の内には何の願いも浮かばなかった。
何の願いも?
「死にたくないよ」
『……君を守る為、力を尽くそう』
数拍おいて頭の中に返答が響く。
アオガミがセーフティをかけていたのはきっと事実なのだろうけど、そんなものなくても俺は多分1ミリも、海へ歩み寄れなかったことを理解した。
死にたくない。消えたくない。どこへも帰りたくない。痛みは平気じゃない。戦いたくなんて、ない。
落ちたくなんてなかった。
赤黒い空の下でうねる油のような暗い海よりずっと、自分の本能が恐ろしくて俺はえずいた。
胃液さえも出てこなかった。
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