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創作

「誤診ですよ先輩」
医局で僕のハッピーターンをボリボリかじりながら、汐見くんはカルテを指先で叩いた。
「消化器症状はありますけどこの血算の数字なら炎症ではないでしょう。エコー撮りました?」
「あ…撮ってない。XPの指示は出したけど」
「エコーを撮った方がいいでしょう」
汐見くんはカルテをずい、と僕に差し出しながら、何個目かのハッピーターンを取り出した。袋の中は随分寂しくなっている。見るからに口の中がパサパサしていそうなので給茶機からお茶を汲んで渡す。汐見くんはありがとうございますと礼を述べて悠然とお茶を啜った。

汐見くんは医学部の後輩で、優秀な、とても優秀な学生だった。図書館で膨大な資料を借りてはすぐに返却していた。夜遅くまで資料と向き合って課題をこなし、自主学習をしていたのだ。
僕のーー冴木家は個人院で、父は医者、母は看護師だった。だから自然に僕も漠然と医者を目指し、両親もそのつもりで進学させていた。だから成績も特別優秀でなく、さりとて落第になるようなものでもなく、ゆるゆると過ごしていた。ただ両親の世話になりっぱなしなのも申し訳無かったので、奨学金を借りて週一程度のアルバイトをしていた。

そんな低空飛行の僕の元に、何故か汐見くんは過去問を借りに来ていた。他に優秀な奴は幾らでもいるから紹介すると言っても、何故か冴木先輩の過去問が一番わかりやすいと言って聞かなかった。
汐見くんほど教科書も副読本も読み込んでいたら過去問なんていらないんじゃないかと思った。実際汐見くんが授業時間外に学習しているところを冷やかしに言っても、すらすらと問題を解いていて舌を巻くばかりだった。
真剣に机に向かっている所をしばらく眺めていたが、手持ち無沙汰だったのでたまたま持ち合わせていたチョコレートを汐見くんの口に突っ込んでみた。汐見くんは無表情で机に向かったまま口を動かし、「甘い」と一言ぼそりと呟いた。
はて、とチョコレートの空袋を見たが、「カカオ80%」という文字が確かに踊っていた。
「甘いの?」
聞いてみたが答えはなく、ただ筆記具が紙の上を走る音とページを捲る音だけが積もっていった。
僕はしばらくぼんやりそれを眺めていたが、その内に飽きてチョコレートをもう一袋そっと汐見くんの前に置いて、「頑張ってね」とかそんなことを言ってその場を後にした。

汐見くんは人当たりも良く、誰にも勉強を教えてあげていた。同窓生なら誰しも、「汐見に聞けば分かる」という認識を持っていたようだ。
だけど汐見くんは付き合いは悪かった。誰の誘いにも乗らず、食事にも飲みにも行かなかった。
誰もが、「汐見はそんな時間があったら勉強に充てる」と思っていた。

ある時汐見くんが過去問を取りに来ないことがあった。
今回は過去問が必要ない程に余裕だったのだろうかと思いつつ、汐見くんと比較的親しくしてるらしい後輩たちに聞いて回り、汐見くんが寮で暮らしていることを知った。
そういえば汐見くん自身から身の上話を聞いたことがない。教師から寮の場所を聞いて、今回の範囲の過去問を持って行った。
寮は耐震設備があるのか怪しい木造二階建ての建物で、窓には磨りガラスが嵌っていて、廊下には酒瓶と縛られた古紙が放置されていた。
二階の端から二番目の開けたスペースにある、端材がベリベリに剥がれたドアの前に立ち尽くす。インターフォンすらない。ドアを控えめに二回、ノックする。返事はない。ドアを強めに二回、ノックする。返事はない。留守だろうか、と思ってドアノブを回してみる。当然鍵が掛かっている。踵を返しかけたとき、微かに何かを引きずるような音がした。ぎこちなく首を回し、耳を澄ます。ガチャリと開錠の音がした。
「すみません、どちら様…」
言いさして僕を見た汐見くんが固まった。そんなことはどうでもいい。汐見くんの顔色が尋常じゃない程に悪い。見れば玄関に寄りかかってなんとか姿勢を保っている。
「さえき、せんぱい、なんで…」
「いや、過去問取りに来なかったから、要らないかもしれないけど一応持ってきたんだけど…体調悪いの?」
「すみません、先輩、すみません…」
汐見くんがただでさえ顔色がわるいのに表情をくしゃくしゃにさせるので胸が痛んだ。肩を貸して室内にお邪魔する。ベッドに横たえて服を寛げ、咽頭を確認した。上気道炎の炎症があるらしいということはわかる。
「汐見くん、医者行った方がいいよ」
体温計の場所を聞いて体温を測る。37.5℃。風邪だ。
「こんな時間に医者なんて…それに…」
「それに?」
「俺、金無いんです」
見れば殺風景な部屋のテーブルに後発の市販感冒薬が置かれていた。体調不良を誤魔化して一人で耐えていたらしい。
「汐見くん、汐見くんが良ければうちに泊まっていきなよ。父さんが診てくれるから。ていうか診させるから」
えっ、とか、でも、とか言う汐見くんを無視して母親に迎えに来てもらうように連絡した。「お友達を連れてくるなら早く言いなさい!家の片付けがあるんだから!」と怒鳴られたが、体調不良だと聞いて一転すぐに迎えに行くと返事が来た。安堵して横たわる汐見くんの方に目をやる。
汐見くんは固く口を引き結んでいた。なんだか泣きそうに思えて、恐る恐る頭を撫でた。
「頑張ったね」
強張っていた汐見くんの表情が緩んで、泣きそうな微笑みを浮かべた。
「はい、俺、頑張ったんです、先輩。でも駄目でした。みんなにご迷惑をかけて…先輩にも」
「全然迷惑じゃないよ。俺が勝手にやってることだから。それより家騒々しいからゆっくり休めないかもしんないけどごめんな」

家に着いたら父さんがすぐに汐見くんを診て処方を出した。うちに入院設備は無いので、薬を飲んだ汐見くんを僕のベッドに寝かせる。汐見くんは恐縮がっていたけど父親と母親のやたら高いテンションに押し切られて大人しく寝かされた。ついでに俺は居間のソファーで寝かされた。
3日くらい僕の家で寝泊まりしていた汐見くんは、大分体調が良くなったようだ。僕の父に寮に帰っても良いだろうと判断され、母に送られて寮に帰って行った。ちなみに汐見くんの診察費は何故か僕のバイト代から天引きされた。別に構わないのだが。

それからたまに汐見くんの寮に顔を出すようになった。汐見くんは自炊をしていたが1日1食とかで済ませていることが判明した。1日1食、夜遅くまで自主学習。身体を壊さない方がおかしい。僕は適当にコンビニとかでサラダやおにぎりやお弁当を見繕って汐見くんに押し付けた。
汐見くんがそこまで必死になっているのは、汐見くんの家庭が別に医者の家庭ではなく、ただ汐見くん自身が医者になって人の役に立ちたいという純粋な思いに駆られてこの道を志したかららしかった。

僕が卒業して研修医になった後、汐見くんとはごく稀に連絡をとるくらいだった。彼は当然のように国家試験に合格し、僕の後から研修医として忙しくやっているようだった。

僕は奨学金免除のため、研修医時代にお世話になった辺鄙な土地の個人病院に勤めることにした。外来にご老人が多く来院し、平行線の話をのらりくらり聞いてなんとか主訴を聞き出す。西洋医学にものすごく偏見を持っている人達をなんとか説得していく。なんかものすごい勢いのナース達にあれやこれや言われながら指示を出す。
日々に追われながらもそこそこやり甲斐はあった。

そこに、研修医になった汐見くんがやってきた。
汐見くんは指導ドクターの教えを海綿のように吸収する。患者にも看護師にも人気がある。そして僕に逆に指摘をしてくる。
他に研修先はあったはずなのにわざわざ僕のいる病院を選んだことで、流石の僕にも察することが出来た。
汐見くんは僕の何らかの行為を根に持っている。そして機会を伺って反撃を試みている。
僕の診断に一々突っかかってくるのもそうだし、僕のお菓子を半分以上我が物顔で食べるのもそうだと思う。刺されないだけましだ。

「先輩、聞いてました?ボーッとしてないでください。」
ハッピーターンに飽きたのか、僕のデスクの引き出しを漁ってチョコレートを引っ張り出し、僕に手渡す。別に僕にくれた訳ではない。何故か汐見くんは僕がチョコレートを手渡すのを要求する。
「ねえ、汐見くん、カカオ80%と75%どっちが好きなの?」
インスタントコーヒーを二杯淹れながら汐見くんに問う。
「俺、ミルクチョコレートが好きです」
コーヒーを1杯受け取りながら汐見くんが答える。意外だ。いつも高カカオチョコレートを食べているからそれが好きなのだと思っていた。
「それより冴木先輩、診察はくれぐれも慎重にお願いしますよ。俺、先輩に医者辞めて欲しくないですから」

ひょっとしてこの子は研修期間が終わったらこの病院に来て壮絶な復讐をするつもりじゃないだろうな?
杞憂に終わることを願って、自分の分のコーヒーに口をつけた。
取り出したカカオ80%のチョコレートは、少し苦い。
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