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真4・真4F

その遺物が動くことは知っている、悪魔が蔓延る前の東京では移動手段として使われていたことも。
天井に穴が空き、光が注ぐようになった東京でも、未だ都市部以外での人影は疎らだ。小型のものとはいえエンジン音は異質であり、人ならざるものにも自らの位置を知らせる、危険な物であるはずだ。
まして久しく荒廃した天井の下で暮らしていたナナシが実際にバイクで走行している人間を見たのは初めてだ。

しかし考えてみれば、バイクに乗っている青年なら祓魔の魔法を唱える仲魔を使役しているのだし、多少の襲撃なら悪魔の囁きによって齎された魔法と銃を駆れば対処できるだろう。となれば問題は。
「…なんでそれ、動くの…」
何時もの青い外套を巻き込まれないように注意深く捌きながら、単車を降りてきた青年に声をかける。
「ガソリンを入れて、エンジンを入れるんだよ」
青年は足取り軽く、至極当たり前のことを宣いながら近づいて来る。何処から調達したのかわからないフルフェイスヘルメットを外さなくとも、少し困ったような柔和な笑みを浮かべているのがわかる、気がする。
「そうじゃなくてさ…そんな問題無く走れるもんなの?そもそもなんで運転できんの」
「バロウズにデータベースから運転の方法をサーチしてもらったんだ。この手の遺物はミカド国の修道院にもあったよ」
釣りの成果でも話すような呑気さで、バイクに乗った経緯を話す。要するに遺物として拾ったバイクを(バロウズの力を借りて)自力で修繕し、運転を覚え、足にしてきたということらしい。
以前は分断され、舗装の傷んでいた東京の交通網も、ハンター協会、阿修羅会、ガイア教が軋轢を残しながらも協力関係を結んだことで近頃は大分マシになってきている。主要な道路なら問題無く走行出来るだろう。
そもそも何故バイクに乗ろうとしたのか、という疑問は、フリンの眼が少年らしく輝いているのを見ると引っ込んでしまった。何より、
「おれも、乗れる…?」
率直に、興味深々だった。

ナナシは手持ちの服から羽織るものを引っ張り出して着ている。どちらにせよアドレナリンを出し、頬を紅潮させ眼を輝かせている彼には寒さなど感じられないだろう。外套を貸す必要は無さそうだ。
「ヘルメット貸すよ、もう君は頭がひしゃげても綺麗に元通りにしてもらえないんだからね。」
「んー、ダグザにめっちゃ頼んだら1回…2回…くらい?やってくれそうだけど。ぼく自前のあるし。」
なんだか聞き捨てられないセリフを聞いたような気がして振り返り、フリンは絶句した。頭蓋骨を模した被り物を身に付けたナナシがいた。
「悪趣味だな…」
「失敬だな。これなら頭全部覆うんだよ。じゃあ安全運転で飛ばしてね。」
「保証は出来ないよ。しっかりつかまってて」
「尻にか」
「…僕の腹に腕を回してね?」

風邪を切る感覚が心地良い。それほどスピードは出ていないのかもしれないが、モーターの駆動を感じながら見通しの良い道を行くのは快い。
「そういえばフリン、何しに来たの?」
フリンの耳元に叫ぶ。聞き取れないらしい。首を僅かに傾げる。諦めて、でたらめに鼻歌を歌った。幼い頃に教えられた、天井の出来る前の流行歌。聞こえなくても歌う気配は感じられるらしく、笑いを堪えたフリンが少し身を震わせるのを感じた。

「君を攫いに来たんだけどね」
「聞こえてたのかよ」
結局湾岸エリアくんだりまで遠乗りした挙句、聞こえなかった筈の話題を蒸し返してきた。
「忙しくしてるかなと思って」
「そこそこ働いて、フツーにサボってるけど。フリンは忙しくしてたみたいだね」
「それなりに…話、聞いてた?」
東京を、ミカド国を、人間を導いた救世主の躍進。フリンの活躍は華々しく聞こえていた。
その目覚ましい活躍の裏で、痛ましい程に心身を疲弊させているであろう姿が思い描けるほどに。
「いや、顔が毒食らって500歩歩いたみたいな感じだ」
「…普通に顔色悪いって言ってくれないかな」
面喰らったようにフリンが答えた。
細波が寄せる音がする。
「海が青い」
「本当だ。前は鈍色だったのに」
「ティルナノーグ程じゃないけど」
夢のように美しい水を湛えた海を瞼の裏に描く。妖精の森を住まいとしたダグザに頼めば、またあの景色に行けるかもしれない。だがそうしようとは思えなかった。
多分、今彼処に行けば、戻ろうとは思わないだろう。
微かな予想が、実感として思考の底に根を張った。苦痛のない現実から切り離された箱庭で、人間でも救世主でもなく、ナナシですらなくなる、存在からの解放の可能性が、抗い難い魅力として感じられた。

『水が可視光線の赤色の波長の領域に吸収帯を持っているのよ』
硬質な女声が響き、ナナシは我に返る。フリンのバロウズだ。
『光の中の赤い成分が吸収されて青色が反射されてるの』
マスターやニッカリさん、話好きの老人達に化学の話を聞くとなしに聞かされていた身でも、わかるようなわからないような話だ。まして特に教育を受けた身ではないフリンにはピンとこないんじゃないんだろうか。少し身を乗り出してフリンの表情を窺うと、神妙な顔をしている。
「水の中に赤色が閉じ込められているのか?」
得心いかないだろうフリンが唸るように呟く。詩人だ。
「要するに天井に穴が開いて陽光が注ぐから青く見えんの?」
『それも一因ね』
「それも?」
『海が青色に見えるだけの光量と水深があると思えないの。水中の有機物に反応しているんじゃないかしら』
「有機物…」
深く考えないでおこう。
岩盤に切り取られた海は、潮の満ち引きとは無縁に暗い青色を湛え、凪いでいる。
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