真1
小さい頃からの習慣がある。
始めたのは、なんと小学校に上がる前だ。その頃の僕の家にはまだ父親がいて、今より手狭だったが、それでも幼い僕にはとても大きく感じられていた。
僕は結構幼稚園に行くのを嫌がったようで、家の前で顔をぐしゃぐしゃにして先生に抱きかかえられた写真がある。それでも滅多に休まない子供だったらしい。元々頑丈なタチだった上に、隣に住んでいた女の子、さちこちゃんに満面の笑みで「いっしょにいこ!」と言われると、大人しくついていったのだと、母親はいつもニヤニヤしながら語る。
馬鹿だ。
そんな頃から僕はさちこちゃんが好きだった。
当時から千里の道も一歩から、を地で行っていた僕は、物心がついた頃から恋愛券の購入を考えていた。
大人になったら恋愛券を購入して、さちこちゃんに告白しよう。そう思って小学校に上がる前から、母親に対してお手伝いの対価としてお小遣いを寄越すように交渉していたのだ。
母親は小さな子供がお金を持つのにあまりいい顔をしなかったが、直接渡すのではなく僕の名義の口座を作り、そこに振り込むという条件で僕の要求を飲んだ。
お手伝いごとに決まった金額を自分で控えておいて、月末に母親にせがんで通帳を見せてもらい、納得してまたお手伝いに精を出す。
そのサイクルが確立すると、母親も僕に様々なお手伝いを割り振ってくれるようになった。
恋愛券の購入は15歳から許可される。そのくらいの歳になれば心身ともに成人のそれに近づき、概ね自らの希望する進路も明確になるから、ということだ。
其れまで優に10年近く、せっせとお小遣いやらお年玉やらを貯めていた。
小学校高学年にもなると欲しい物が出来たりもしたが、半分以上は貯金をしていた。
父が死んだ頃は通帳を確認することはなく、小遣いの事も言い出しはしなかったが、母親はしっかり僕の口座に振り込んでいた事を後々聞かされ、涙ぐんだものだ。
15歳の誕生日を迎える頃には、それなりの額の貯金があった。
それでも母親に「その貯金を使わせて」と言うことは躊躇われて、貯金を続ける一方で余った額で一枚ずつ、恋愛券を購入していた。机の引き出しの中に恋愛券が増えて行く度に、胸がざわつくような心持ちになっていった。
一方でそれを使うのは、受験を終えたら…中学を卒業したら…高校に入学したら…と、少しずつ延び延びになっていった。
別の高校に進むことを知ったのは、入試の一週間前になってからだった。
きっかけは夕食後、コーヒーを飲みながらの母との何気ない会話だった。「お隣の沙智子ちゃん、A高校に進むのね。毎日遅くまで勉強してて、偉いわ。」あなたもちゃんと勉強してるの?判定は合格圏内みたいだったけど、と続く母のぼやきに一瞬気を取られ、すこぶる間抜けな反応を晒していた。「え、何それ。A高校?B高校じゃなくて?」
僕は通っていた中学の大半の進学先になっていた普通高校を進路として選んでいた。しかし沙智子は、都内の進学校を受験しようとしていた。
「沙智子ちゃん、やっぱりお家がお医者さんだものね。お医者さんになるのかしら。」「さあ…ああいうのってよっぽど勉強しないと難しいんじゃないの。」動揺から生返事になるが、母は気にしない。部屋に戻る僕の背中に、勉強しとくのよーと呑気な声をかけた。
結果から言えば沙智子と僕はそれぞれ無事受験を終えて志望校に合格し、つつがなく高校へ入学、相も変わらずお隣さんの幼馴染である。だが、小さな頃のように、頻回に互いの家を行き来はしない。
「入学式、いつ?」「4日。そっちは?」「早いね。うちは6日。」「そう…2日違うんだね」という会話が1週間前だ。通学時間もつるんでる連中も、過ごす日々の何もかもの接点が希薄だった。いや、希薄どころかこれまで築いた関係性だけだ。何一つ更新されない。更新されないまま、お互いに目まぐるしく別の人間になっていく。
やろう、買ってしまおう。収まるところに全て収まるはずだ。通帳の場所はわかる、残高も知っている…
たかが高校生が持つには大き過ぎる金額を、全て恋愛券に費やすのは酷く勿体無いように感じられた。だけどそれだけの、勿体無い程の思いを、今の身長の半分もなかったような小さい頃から、無邪気に連ねてきたのだ。
そう認識するだけで、残高を表す数字の羅列が誇らしげにすら感じられた。
預金を下ろし、恋愛券の購入窓口を訪れる。手続きを申し込み、待合室に座る。若い男女が多いが、幅広い年齢層の人が順番待ちをしていた。しばらくカウンターに貼られた政府のお知らせのポスターを眺めながら時間を潰していると、ようやく呼び出しがかかった。窓口の担当者が申し訳無さそうな顔をしている。
「該当の方なのですが、先日恋愛券の交付がされまして…現在交際ステータスが更新されている状況です。発行した恋愛券の払い戻しには手数料が発生しますが…」
担当者の話は頭に入って来なかった。決死の思いで買った恋愛券はただの紙切れになったのだ。
「やられた!」という文字に脳の領域いっぱいを費やして、頭の中の回路が悲鳴を上げているようだった。
その癖、「そもそもなにも始まってなんかないじゃないか。あの子は最初から僕のものじゃなかったし、これからも違うんだろう。ずっと隣にいただけで、いつかは離れていくんだ。」と仕切りに自分に言い聞かせる声が聞こえた。煩くて堪らない。
どうやって帰ったのか定かで無い。
僕にとって恋愛券をーー思いの権利を買うことは博打ですらなかった。
芽生えたばかりの感情は例えようもなく無垢だったのに、年月を経て惰性と手垢に汚された思いは呪いだった。
それでも、恋をしたのだと思う。
良い事が三つあった。
一、小遣いが浮く。年頃の男というのは煩悩と物欲塗れだ。手持ちはあり過ぎるということはない。
二、友人が一人増えた。何を隠そう、沙智子のボーイフレンドだ。
当初、僕はやっかみのような気持ちをもって、沙智子の話す「誠くん」の姿ーーハンサムで気が利く、スマートな男ーーは、恋に盲目な少女の半ば空想に近い理想を多分含むのだろうとタカをくくって聞いてた。
そして上辺は取り繕って聞いていても、僕の本心など生まれてこの方離れたことのない幼馴染には筒抜けだ。
逆上した沙智子に「一度会ってみて!そしたら一郎だって良い人だってわかるから!」などと息巻かれ、のらりくらりと遠回しに行きたくない旨を伝えていたものの、ある日バッタリ行きあってしまった。
結論から言うと、恋人の盲目抜きでも誠は良い奴だった。気が利いて思慮深く、かつ優しい。そして程よくノリも良い、話していて楽しい人間だった。
そして三つ、幸いな事に、友情には券の購入の義務がない。だから僕は、特に申請もせず喫茶店のコーヒー一杯で友人と駄弁って過ごすことが出来る。
「最近どうなの、二人は。」
恐らく据わった眼で問いかけてるであろう僕の無愛想さなど意に介さず
「ああ、彼女は本当に良い子ですね。」と臆面なく答えてきた。
誠のこういう率直さが、人間的に好感が持てる。
「今度また3人で来ますか。」ととんでもないことを言い出す。
社交辞令だか本気だかわからないし、どちらにせよぞっとしない。
「でも誠程の男と付き合えて、沙智子も幸せだよな。分けて貰いたいよ」と大袈裟な身振りでぼやいた。誠はにかむような仕草で「そんなこと…」などと照れている。つくづく善人だ。
全くよく言うよ。僕の方が先に好きだった癖に。
始めたのは、なんと小学校に上がる前だ。その頃の僕の家にはまだ父親がいて、今より手狭だったが、それでも幼い僕にはとても大きく感じられていた。
僕は結構幼稚園に行くのを嫌がったようで、家の前で顔をぐしゃぐしゃにして先生に抱きかかえられた写真がある。それでも滅多に休まない子供だったらしい。元々頑丈なタチだった上に、隣に住んでいた女の子、さちこちゃんに満面の笑みで「いっしょにいこ!」と言われると、大人しくついていったのだと、母親はいつもニヤニヤしながら語る。
馬鹿だ。
そんな頃から僕はさちこちゃんが好きだった。
当時から千里の道も一歩から、を地で行っていた僕は、物心がついた頃から恋愛券の購入を考えていた。
大人になったら恋愛券を購入して、さちこちゃんに告白しよう。そう思って小学校に上がる前から、母親に対してお手伝いの対価としてお小遣いを寄越すように交渉していたのだ。
母親は小さな子供がお金を持つのにあまりいい顔をしなかったが、直接渡すのではなく僕の名義の口座を作り、そこに振り込むという条件で僕の要求を飲んだ。
お手伝いごとに決まった金額を自分で控えておいて、月末に母親にせがんで通帳を見せてもらい、納得してまたお手伝いに精を出す。
そのサイクルが確立すると、母親も僕に様々なお手伝いを割り振ってくれるようになった。
恋愛券の購入は15歳から許可される。そのくらいの歳になれば心身ともに成人のそれに近づき、概ね自らの希望する進路も明確になるから、ということだ。
其れまで優に10年近く、せっせとお小遣いやらお年玉やらを貯めていた。
小学校高学年にもなると欲しい物が出来たりもしたが、半分以上は貯金をしていた。
父が死んだ頃は通帳を確認することはなく、小遣いの事も言い出しはしなかったが、母親はしっかり僕の口座に振り込んでいた事を後々聞かされ、涙ぐんだものだ。
15歳の誕生日を迎える頃には、それなりの額の貯金があった。
それでも母親に「その貯金を使わせて」と言うことは躊躇われて、貯金を続ける一方で余った額で一枚ずつ、恋愛券を購入していた。机の引き出しの中に恋愛券が増えて行く度に、胸がざわつくような心持ちになっていった。
一方でそれを使うのは、受験を終えたら…中学を卒業したら…高校に入学したら…と、少しずつ延び延びになっていった。
別の高校に進むことを知ったのは、入試の一週間前になってからだった。
きっかけは夕食後、コーヒーを飲みながらの母との何気ない会話だった。「お隣の沙智子ちゃん、A高校に進むのね。毎日遅くまで勉強してて、偉いわ。」あなたもちゃんと勉強してるの?判定は合格圏内みたいだったけど、と続く母のぼやきに一瞬気を取られ、すこぶる間抜けな反応を晒していた。「え、何それ。A高校?B高校じゃなくて?」
僕は通っていた中学の大半の進学先になっていた普通高校を進路として選んでいた。しかし沙智子は、都内の進学校を受験しようとしていた。
「沙智子ちゃん、やっぱりお家がお医者さんだものね。お医者さんになるのかしら。」「さあ…ああいうのってよっぽど勉強しないと難しいんじゃないの。」動揺から生返事になるが、母は気にしない。部屋に戻る僕の背中に、勉強しとくのよーと呑気な声をかけた。
結果から言えば沙智子と僕はそれぞれ無事受験を終えて志望校に合格し、つつがなく高校へ入学、相も変わらずお隣さんの幼馴染である。だが、小さな頃のように、頻回に互いの家を行き来はしない。
「入学式、いつ?」「4日。そっちは?」「早いね。うちは6日。」「そう…2日違うんだね」という会話が1週間前だ。通学時間もつるんでる連中も、過ごす日々の何もかもの接点が希薄だった。いや、希薄どころかこれまで築いた関係性だけだ。何一つ更新されない。更新されないまま、お互いに目まぐるしく別の人間になっていく。
やろう、買ってしまおう。収まるところに全て収まるはずだ。通帳の場所はわかる、残高も知っている…
たかが高校生が持つには大き過ぎる金額を、全て恋愛券に費やすのは酷く勿体無いように感じられた。だけどそれだけの、勿体無い程の思いを、今の身長の半分もなかったような小さい頃から、無邪気に連ねてきたのだ。
そう認識するだけで、残高を表す数字の羅列が誇らしげにすら感じられた。
預金を下ろし、恋愛券の購入窓口を訪れる。手続きを申し込み、待合室に座る。若い男女が多いが、幅広い年齢層の人が順番待ちをしていた。しばらくカウンターに貼られた政府のお知らせのポスターを眺めながら時間を潰していると、ようやく呼び出しがかかった。窓口の担当者が申し訳無さそうな顔をしている。
「該当の方なのですが、先日恋愛券の交付がされまして…現在交際ステータスが更新されている状況です。発行した恋愛券の払い戻しには手数料が発生しますが…」
担当者の話は頭に入って来なかった。決死の思いで買った恋愛券はただの紙切れになったのだ。
「やられた!」という文字に脳の領域いっぱいを費やして、頭の中の回路が悲鳴を上げているようだった。
その癖、「そもそもなにも始まってなんかないじゃないか。あの子は最初から僕のものじゃなかったし、これからも違うんだろう。ずっと隣にいただけで、いつかは離れていくんだ。」と仕切りに自分に言い聞かせる声が聞こえた。煩くて堪らない。
どうやって帰ったのか定かで無い。
僕にとって恋愛券をーー思いの権利を買うことは博打ですらなかった。
芽生えたばかりの感情は例えようもなく無垢だったのに、年月を経て惰性と手垢に汚された思いは呪いだった。
それでも、恋をしたのだと思う。
良い事が三つあった。
一、小遣いが浮く。年頃の男というのは煩悩と物欲塗れだ。手持ちはあり過ぎるということはない。
二、友人が一人増えた。何を隠そう、沙智子のボーイフレンドだ。
当初、僕はやっかみのような気持ちをもって、沙智子の話す「誠くん」の姿ーーハンサムで気が利く、スマートな男ーーは、恋に盲目な少女の半ば空想に近い理想を多分含むのだろうとタカをくくって聞いてた。
そして上辺は取り繕って聞いていても、僕の本心など生まれてこの方離れたことのない幼馴染には筒抜けだ。
逆上した沙智子に「一度会ってみて!そしたら一郎だって良い人だってわかるから!」などと息巻かれ、のらりくらりと遠回しに行きたくない旨を伝えていたものの、ある日バッタリ行きあってしまった。
結論から言うと、恋人の盲目抜きでも誠は良い奴だった。気が利いて思慮深く、かつ優しい。そして程よくノリも良い、話していて楽しい人間だった。
そして三つ、幸いな事に、友情には券の購入の義務がない。だから僕は、特に申請もせず喫茶店のコーヒー一杯で友人と駄弁って過ごすことが出来る。
「最近どうなの、二人は。」
恐らく据わった眼で問いかけてるであろう僕の無愛想さなど意に介さず
「ああ、彼女は本当に良い子ですね。」と臆面なく答えてきた。
誠のこういう率直さが、人間的に好感が持てる。
「今度また3人で来ますか。」ととんでもないことを言い出す。
社交辞令だか本気だかわからないし、どちらにせよぞっとしない。
「でも誠程の男と付き合えて、沙智子も幸せだよな。分けて貰いたいよ」と大袈裟な身振りでぼやいた。誠はにかむような仕草で「そんなこと…」などと照れている。つくづく善人だ。
全くよく言うよ。僕の方が先に好きだった癖に。