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STORY 1 千里の道を一歩目からすっ転ぶ

「………………………」

俺は何処で案の定、人生という名の下り坂の途中で道を踏み外しただろう。
分別すらされずに放り散らかされたゴミを摘み上げて俺は重い、重ーーーーい溜息を深々と吐いた。

換気のために開け放たれた窓から舞う風は雨の訪れを乗せ、頬を撫でる。
捲っていた袖を元に戻しながら俺は再び重い溜息と共に、自分の貴重すぎる休暇を何故部屋の掃除に費やしているのか嘆いた。

「……はぁ、残念すぎる……」
「…なんだよ、人の顔見て明らかに落胆した素振りして」
「落胆してるんですよ」

クリーニングのタグがついた靴下を半ば切れ気味に埃を払いながら床から救出する。
これじゃあクリーニングに出した意味が無いじゃないか。
……そろそろ、クリーニングの承る守備範囲が分からなくなりそうになりつつある。

雑巾を妙に斜め向きに構えながら、机を乱雑に拭いていくこの部屋の主の名は今大路峻。
すらりとした長身はゆうに180センチを超えており、そして何よりも整った甘い顔立ち。
錫色の少しシャープな目元は色素の薄い茶髪に軽くかかっていて、毛先の遊ばせ方は流石イケメン、と思わず称したくなる。まぁ、これは俺の主観。

耳に馴染みやすい、顔に引けを取らない爽やかで甘みのある声音はさぞ女性を魅了するのだろう、と以前の俺なら別次元の人間だと近寄られる前に線引きしてきた、……筈なのだが。

ちなみに彼の名字は片手で数えられるほどの数日前、そして彼の名前は今日の朝に知ったばかりだ。そんな何が好きかも、何が趣味か分からない初対面と言っても変わらない今大路の部屋に何故、赤の他人である俺、______ 若宮 瑞貴が潜り込んでいるのか。

それは少し刻の歯車を引き絞り、歯を戻す事から始まる。

⭐︎

「これ、すいません。貴方のバイクの鍵で合ってますか?」

側から見れば厚かましいアラサー3歩手前のサラリーマンに、美麗の相好を崩す事なく彼は少し目を見開いた。そしてその後、少し目尻を細めて安堵したように微笑む。

『あー、この鍵はイマオオジさんだわ。土日は大抵バイクあっからな」

確かあんたと同階だったよ、と運命以外何でもない事を言われ、はぁ、と小さな肯定と見せかけたため息を醸す。
イマオオジ。王子薫るその名字にまさに相応しい男性はお礼一つに俺の手から鍵を抜き取った。

「貴方が拾ってくださっていたんですね、ありがとうございます。見つからなくて冷や汗を掻いていたところです」

かしこまった口振りは洗練されており、仕事で板についたのだろう、流麗であった。
少し着崩し気味の革ジャンがこれまた長身短躯な体に恐ろしいほど似合っており、同じ人類か束の間疑った。俺が着たらきっとぶかぶかであろう。

(きっと10センチ近く違うよな………どこの部位が違うんだろう、足の長さ?座高…?)

身丈を心の中で測りながら「鍵とかって気が抜いた時に落としちゃいますよね」と相槌を返す。『届けましたからね、俺は帰ります』とは言い出せず、かと言って長居するわけにもいかなかった。

「……あの、手怪我されてませんか?」
「………はい?」

ふと、男性の視線が俺の右手に向かれていて、思わず右手を掲げた。
先日紙束で掻っ切った指先を指摘されたらしく俺は少し狼狽る。薄く滲み出る紅血は目立つ様な傷ではなかったけれど時折意識を向ける様な傷みを生じていた。よく気付いたな、と少し動揺する。

「あーー、仕事で書類扱ってる時にやらかしたんですよね。しかもそれが印鑑がいる書類で」
「まさにやらかしちゃいましたね。僕もしょっちゅうやらかします」

男性との会話はスルスルと怖いぐらいにスムーズだった。口を滑らせて自分の銀行のパスワードをぽろっと溢しちゃうくらいそうには。尋問か何かで男性にかけられたが最後の様な感覚を覚える。

何処か猟奇的な恐怖を覚えていると、「消毒液持ってきますね。細やかなお礼ですが」と何ヶ月ぶりかの人の善意を授かる。反応するよりも少しはやく彼は部屋の奥へ姿を消した。
ぽつん。少しばかりの静寂に思わず脱力のため息が漏れる。

(……めっっちゃ良い人なんですけど……矢の豪雨でも降るのだろうか)

仕事はブラックだわ、未だ良い出会いの1つもないわ、そろそろ全ブラック企業マイムマイムしようかと半分冗談で考えていた矢先に善行が降りかかってきた事にすら感動を覚えてしまう。

「お待たせしました。もしよろしければ治療は僕にやらせてください」
「ど、どうぞ……じゃなくて、ありがとうございます」

するり、と手を引かれて不覚にもその距離の近さにうろたえる。ち、近い近い。
端正な顔が近づくと男女問わず胸は高鳴るモノだと俺はまた一つ学習した。

「指、細いですね……パッと見華奢ですし」

華奢じゃないんです。体が身長よろしくヒョロいんです、違うんです。
少し無骨な指は器用に消毒を施してくれており、もしかして職は医者なのだろうか、と1人耽りその優秀さに我知らず憂いた。顔面と出世は比例しているのだろうか。辛い。
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