その他CP
それが海の怪物 だと気づいた時にはもう遅く、幾人もの人間を乗せた船はあっけなく転覆した。
ぶくぶくと沈む船の荷物に邪魔をされて思うように海面へ上がることが出来ない。
たくさんの海水を飲み込んで、息も辛くなって意識を手放した。
***
むせ返りながら目が覚めた。
「あ……起きた」
最初に視界に入ったのは、若い女性の顔。
飛び起きてはじめて、背中に生えた翼と鳥のような鉤爪の生えた脚を視認した。
紛れもなく、先程私が乗っていた船を転覆させたセイレーンだった。
「な、な……」
「驚いて声も出ぇへんの?」
薄汚れた白い翼は意志を持った生き物のように動いて、羽を散らした。
海の怪物というのだからもっと醜く恐ろしい容貌をしていると思っていたばかりに、その人懐こそうな笑い方に胸を撫で下ろすような気持ちになった。
「わたしが、口付けて息するの手伝ってあげたんよ」
「く……っくち!?」
ほんの少し血色の悪い唇をにぃっと横に伸ばして笑う目の前の怪物は、とても日頃人間を食い殺すようなものに見えなかった。
「セイレーンが、なんで」
私を……人間を助けたのだろう。
「いつもすぐに食い殺してまうから、たまには話でも聞いてみようかと」
おもろい話持ってる?と言ってずい、と顔を近づけられた時に血なまぐさい臭いがしてようやく、彼女が本当に人を食べるのだと思い知った。
笑った時に鋭い犬歯がちらりと覗いて少し怖くなり、私はとりあえず何か話さねばと思いずぶ濡れの身体のまま彼女に話を聞かせてやることにした。
***
固くてごつごつと不安定な岩の上で、私は彼女に陸での話をした。
「〜〜で、そうまさに、その……あな、あなた……」
「キキ」
「キ、キキ……?」
「気安く呼ばんといて、"さん"付けて、"さん"」
「キキ、さん……」
彼女はさん付けで呼ばれることをいたく気に入り、私に積極的にそう呼ばせた。
色んな人間の話をするたび、キキさんとどっちが綺麗?と聞いてくる。
会話の節々に発生するこのどっちが綺麗かの問題は、機嫌を損ねるのが怖いので絶対にキキさんと答えている。
事実、彼女はとても綺麗だった。一糸纏わぬ姿だというのにいやらしさはそこに無く、大きな翼と逞しい鉤爪が綺麗な人間の顔に相まって神秘的ですらあった。
「人間は何食べんの?」
「えぇ……えっと……人間は雑食なので色々と」
「それじゃよくわからんなぁ、あんた……ずんちゃんは何食べてんの」
「えっ、なんで私の」
「船に乗ってた他の奴が、あんたのことそう呼んでたから」
キキさんの口から発せられた私のあだ名は、呼ばれ慣れているはずなのに彼女に呼ばれると奇妙で、変な心地がした。
話に持ち出されてはっと、少し前まで一緒に船に乗っていた人達のことを思い出す。
そんな私を見て表情から察したのか彼女は一言、
「一応言っとくけどずんちゃん以外はみーんな食べちゃったから」
と言って悪い笑みを浮かべた。
察してはいたけれども、本当にこの華奢な身体の彼女があれだけの人数をぺろりと食べてしまったのだと思うとおぞましさで背中に嫌な汗をかいてしまう。
「それで?ずんちゃんは何食べて生きてんの」
「ええと、直近で言うと……牛のお肉?」
「へぇ、牛の肉って人の肉より美味いんかなぁ」
牛と人の肉の妄想でもしているのか、キキさんはぼうっと上を見上げながら持て余すように足をぱたぱたと動かした。
「さあ……わ、私は食べたことがないからなんとも……」
もし今度牛の肉持ってる人間がいたら根こそぎ奪ってやろうっと、と呟く彼女はいたずらっ子のようで、そのような言葉や仕草を目の当たりにするたびにだんだんと親近感が湧いていった。
***
むき出しの岩の上ということも、海のど真ん中怪物と二人きりというのも、時間も、すべて忘れて私は話をすることに夢中になった。
もっと言えば、彼女に夢中になった。
私が何か面白い話をすると、翼を触らせてくれる。脚を触らせてくれる。
表情をころころ変えながらこどものように目を輝かせて話を聞いてくれるキキさんに、抱いてはいけない感情を抱きつつあった。
たった数時間、されど数時間。恋をするには十分な時間だ。
気づけば二人の上には月が昇り、海に反射した月の光がきらきらと揺らめいて彼女を照らした。
「……すみません、まくし立てて話しちゃった」
「ええよ、楽しかったから」
もうこんな時間かぁとキキさんは細い腕を天高く伸ばして欠伸をする。
そういえば私も、こんな海の真ん中でどう夜を過ごせば良いのか、どう帰れば良いのかわからない。
私が海面を睨んでいると、横から視線が飛んできていることに気がついてキキさんのほうを見た。
「ずんちゃん」
血の気の無い白い腕がすうっと伸びて、私は不安定な岩場へ押し倒された。
私に微笑みかけてくれているであろうキキさんの顔は、月が私たちの真上にあるせいか暗すぎてあまりよく見えない。
綺麗な彼女の顔を前に、動悸がする。
「お別れやね」
きゅっと困り眉になりながらキキさんは心底残念そうな声色でそう言った。
突然告げられた言葉に口をぱくぱくさせる私をお構い無しに、彼女は私の額に唇を落とす。
「人間の話、楽しかったなあ」
「……あ、の」
「ずんちゃんの顔が可愛くてなんかもったいなかったから特別にこうやって岩場に上がらせたんよ、私」
ちゅ、と私の首筋に彼女の柔らかくも冷たい唇が押し当てられる。
くすぐったいけど、とても笑い声を上げられなかった。
「すぐ食べちゃわなくて良かった、面白い話たくさん聞けたから」
は、は、と短く呼吸を繰り返す私の顔を見て吹き出すキキさんは、それはそれは普通の人間の女の子のようであったけれど、今はただ怖かった。
「喉を噛みちぎられてすぐに死にたいか、足とか手とかの端から食べられるのが良いか、選ばせてあげる。これもずんちゃんだけの特別サービスやからね」
私に馬乗りになっているキキさんは、伸びた爪で私の首をつつつ、と撫でる。
いつそれを突き立てられてもおかしくない状況に、喉を詰まらせそうな思いだった。
彼女からしたらやっぱり私はただの食い物でしかなくて、私の想いはがらがらと音を立てて崩れ落ちた。
私を助けたんじゃなかった。思えば、助けたなんて一言も言ってなくて。
勝手な思い込みと期待をしていた私が愚かだった。
「……は、」
「"は"?」
一思いに殺して欲しいと思った。だけど、この美しい生き物がどのように人を、私を食らうのかに興味があった。
「端から……端からがいい、出来れば、足から」
元々、船が転覆した時に無くなったと思った命。それがセイレーンの気まぐれでほんのちょっと、延命されただけ。
彼女の美しさを知れただけで、儲けものなんだろう。本来その姿をまともに拝むことなく食い殺されるのだから。
「痛さでショック死するかもわからんよ」
「私を食べるキキさんをしっかり目に焼き付けて、冥土の土産にしたいのでがんばります」
「おもろい子やなあ」
鋭利な犬歯が私の肌に突き刺さる瞬間は、ゆっくりと時が流れていくようだった。
もたらされる激痛によってそれも過ぎ、あとはひたすら私の肉を噛みちぎり流れ出る血をも啜る彼女の姿を見つめるのみ。
「おいしい、細身の人間にしてはかなり」
痛さでどうにかなりそうだった。やっぱりすぐにでも死んでしまいたいと思うくらいだけど、キキさんがご機嫌に鼻歌を歌っているのを聴いて気休めにした。
鼻歌でも、やっぱりセイレーンは上手い。時折歌詞のようなものを口ずさんでは、うろ覚えなのかふんふんと適当に流すのが可愛らしいなと思う余裕すら何故かある。
どくどくと生暖かい血が岩を濡らし、どんどん私から血の気が引いていく。
怪物の名に不相応なくらいそれはそれは綺麗に、口の周りに一切の血を付けることなく、キキさんは私を食べる。
喋ることもつらいので黙って彼女を見つめていると目が合って、にぃ、と微笑まれた。
「ずんちゃん」
私が手を伸ばすと彼女はそれをとって頬ずりした。
「今日は楽しかったから、覚えておくわ。ずんちゃんの名前も顔も声も、味も」
セイレーンの一生なんて私たち人間なんかよりきっと遥かに長くて、長くて、気が遠くなるくらい長いんだろう。
覚えておく、なんて絶対無理だろうし、キキさんの性格なら尚更。
だけどそうやって口にして一応"約束"の体にしてくれたことはとても嬉しかった。
「色んな話聞かせてくれてありがとうね。唯一の心残りは、あだ名じゃないちゃんとしたずんちゃんの名前を聞きそびれたことだけ」
キキさんがそう言って私に口付けてくれて、それでもう、もういいか、と思った。
***
普通なら骨は適当に、放置するか海に投げ捨てるか、そういうふうにしてきた。
だけどこの子はちょっと特別で、ちょっとだけ愛おしかったから。
近くの島の、人間なんかが足を運べないようなところに埋めた。
長い長い私の一生においてあんな小さくて細っこい女の子なんか、ただの夜食みたいなものだったけど。
「人間みたいにメモでもとっておこうかなあ」
特別サービス。柄にもなく約束してしまったから。
ぶくぶくと沈む船の荷物に邪魔をされて思うように海面へ上がることが出来ない。
たくさんの海水を飲み込んで、息も辛くなって意識を手放した。
***
むせ返りながら目が覚めた。
「あ……起きた」
最初に視界に入ったのは、若い女性の顔。
飛び起きてはじめて、背中に生えた翼と鳥のような鉤爪の生えた脚を視認した。
紛れもなく、先程私が乗っていた船を転覆させたセイレーンだった。
「な、な……」
「驚いて声も出ぇへんの?」
薄汚れた白い翼は意志を持った生き物のように動いて、羽を散らした。
海の怪物というのだからもっと醜く恐ろしい容貌をしていると思っていたばかりに、その人懐こそうな笑い方に胸を撫で下ろすような気持ちになった。
「わたしが、口付けて息するの手伝ってあげたんよ」
「く……っくち!?」
ほんの少し血色の悪い唇をにぃっと横に伸ばして笑う目の前の怪物は、とても日頃人間を食い殺すようなものに見えなかった。
「セイレーンが、なんで」
私を……人間を助けたのだろう。
「いつもすぐに食い殺してまうから、たまには話でも聞いてみようかと」
おもろい話持ってる?と言ってずい、と顔を近づけられた時に血なまぐさい臭いがしてようやく、彼女が本当に人を食べるのだと思い知った。
笑った時に鋭い犬歯がちらりと覗いて少し怖くなり、私はとりあえず何か話さねばと思いずぶ濡れの身体のまま彼女に話を聞かせてやることにした。
***
固くてごつごつと不安定な岩の上で、私は彼女に陸での話をした。
「〜〜で、そうまさに、その……あな、あなた……」
「キキ」
「キ、キキ……?」
「気安く呼ばんといて、"さん"付けて、"さん"」
「キキ、さん……」
彼女はさん付けで呼ばれることをいたく気に入り、私に積極的にそう呼ばせた。
色んな人間の話をするたび、キキさんとどっちが綺麗?と聞いてくる。
会話の節々に発生するこのどっちが綺麗かの問題は、機嫌を損ねるのが怖いので絶対にキキさんと答えている。
事実、彼女はとても綺麗だった。一糸纏わぬ姿だというのにいやらしさはそこに無く、大きな翼と逞しい鉤爪が綺麗な人間の顔に相まって神秘的ですらあった。
「人間は何食べんの?」
「えぇ……えっと……人間は雑食なので色々と」
「それじゃよくわからんなぁ、あんた……ずんちゃんは何食べてんの」
「えっ、なんで私の」
「船に乗ってた他の奴が、あんたのことそう呼んでたから」
キキさんの口から発せられた私のあだ名は、呼ばれ慣れているはずなのに彼女に呼ばれると奇妙で、変な心地がした。
話に持ち出されてはっと、少し前まで一緒に船に乗っていた人達のことを思い出す。
そんな私を見て表情から察したのか彼女は一言、
「一応言っとくけどずんちゃん以外はみーんな食べちゃったから」
と言って悪い笑みを浮かべた。
察してはいたけれども、本当にこの華奢な身体の彼女があれだけの人数をぺろりと食べてしまったのだと思うとおぞましさで背中に嫌な汗をかいてしまう。
「それで?ずんちゃんは何食べて生きてんの」
「ええと、直近で言うと……牛のお肉?」
「へぇ、牛の肉って人の肉より美味いんかなぁ」
牛と人の肉の妄想でもしているのか、キキさんはぼうっと上を見上げながら持て余すように足をぱたぱたと動かした。
「さあ……わ、私は食べたことがないからなんとも……」
もし今度牛の肉持ってる人間がいたら根こそぎ奪ってやろうっと、と呟く彼女はいたずらっ子のようで、そのような言葉や仕草を目の当たりにするたびにだんだんと親近感が湧いていった。
***
むき出しの岩の上ということも、海のど真ん中怪物と二人きりというのも、時間も、すべて忘れて私は話をすることに夢中になった。
もっと言えば、彼女に夢中になった。
私が何か面白い話をすると、翼を触らせてくれる。脚を触らせてくれる。
表情をころころ変えながらこどものように目を輝かせて話を聞いてくれるキキさんに、抱いてはいけない感情を抱きつつあった。
たった数時間、されど数時間。恋をするには十分な時間だ。
気づけば二人の上には月が昇り、海に反射した月の光がきらきらと揺らめいて彼女を照らした。
「……すみません、まくし立てて話しちゃった」
「ええよ、楽しかったから」
もうこんな時間かぁとキキさんは細い腕を天高く伸ばして欠伸をする。
そういえば私も、こんな海の真ん中でどう夜を過ごせば良いのか、どう帰れば良いのかわからない。
私が海面を睨んでいると、横から視線が飛んできていることに気がついてキキさんのほうを見た。
「ずんちゃん」
血の気の無い白い腕がすうっと伸びて、私は不安定な岩場へ押し倒された。
私に微笑みかけてくれているであろうキキさんの顔は、月が私たちの真上にあるせいか暗すぎてあまりよく見えない。
綺麗な彼女の顔を前に、動悸がする。
「お別れやね」
きゅっと困り眉になりながらキキさんは心底残念そうな声色でそう言った。
突然告げられた言葉に口をぱくぱくさせる私をお構い無しに、彼女は私の額に唇を落とす。
「人間の話、楽しかったなあ」
「……あ、の」
「ずんちゃんの顔が可愛くてなんかもったいなかったから特別にこうやって岩場に上がらせたんよ、私」
ちゅ、と私の首筋に彼女の柔らかくも冷たい唇が押し当てられる。
くすぐったいけど、とても笑い声を上げられなかった。
「すぐ食べちゃわなくて良かった、面白い話たくさん聞けたから」
は、は、と短く呼吸を繰り返す私の顔を見て吹き出すキキさんは、それはそれは普通の人間の女の子のようであったけれど、今はただ怖かった。
「喉を噛みちぎられてすぐに死にたいか、足とか手とかの端から食べられるのが良いか、選ばせてあげる。これもずんちゃんだけの特別サービスやからね」
私に馬乗りになっているキキさんは、伸びた爪で私の首をつつつ、と撫でる。
いつそれを突き立てられてもおかしくない状況に、喉を詰まらせそうな思いだった。
彼女からしたらやっぱり私はただの食い物でしかなくて、私の想いはがらがらと音を立てて崩れ落ちた。
私を助けたんじゃなかった。思えば、助けたなんて一言も言ってなくて。
勝手な思い込みと期待をしていた私が愚かだった。
「……は、」
「"は"?」
一思いに殺して欲しいと思った。だけど、この美しい生き物がどのように人を、私を食らうのかに興味があった。
「端から……端からがいい、出来れば、足から」
元々、船が転覆した時に無くなったと思った命。それがセイレーンの気まぐれでほんのちょっと、延命されただけ。
彼女の美しさを知れただけで、儲けものなんだろう。本来その姿をまともに拝むことなく食い殺されるのだから。
「痛さでショック死するかもわからんよ」
「私を食べるキキさんをしっかり目に焼き付けて、冥土の土産にしたいのでがんばります」
「おもろい子やなあ」
鋭利な犬歯が私の肌に突き刺さる瞬間は、ゆっくりと時が流れていくようだった。
もたらされる激痛によってそれも過ぎ、あとはひたすら私の肉を噛みちぎり流れ出る血をも啜る彼女の姿を見つめるのみ。
「おいしい、細身の人間にしてはかなり」
痛さでどうにかなりそうだった。やっぱりすぐにでも死んでしまいたいと思うくらいだけど、キキさんがご機嫌に鼻歌を歌っているのを聴いて気休めにした。
鼻歌でも、やっぱりセイレーンは上手い。時折歌詞のようなものを口ずさんでは、うろ覚えなのかふんふんと適当に流すのが可愛らしいなと思う余裕すら何故かある。
どくどくと生暖かい血が岩を濡らし、どんどん私から血の気が引いていく。
怪物の名に不相応なくらいそれはそれは綺麗に、口の周りに一切の血を付けることなく、キキさんは私を食べる。
喋ることもつらいので黙って彼女を見つめていると目が合って、にぃ、と微笑まれた。
「ずんちゃん」
私が手を伸ばすと彼女はそれをとって頬ずりした。
「今日は楽しかったから、覚えておくわ。ずんちゃんの名前も顔も声も、味も」
セイレーンの一生なんて私たち人間なんかよりきっと遥かに長くて、長くて、気が遠くなるくらい長いんだろう。
覚えておく、なんて絶対無理だろうし、キキさんの性格なら尚更。
だけどそうやって口にして一応"約束"の体にしてくれたことはとても嬉しかった。
「色んな話聞かせてくれてありがとうね。唯一の心残りは、あだ名じゃないちゃんとしたずんちゃんの名前を聞きそびれたことだけ」
キキさんがそう言って私に口付けてくれて、それでもう、もういいか、と思った。
***
普通なら骨は適当に、放置するか海に投げ捨てるか、そういうふうにしてきた。
だけどこの子はちょっと特別で、ちょっとだけ愛おしかったから。
近くの島の、人間なんかが足を運べないようなところに埋めた。
長い長い私の一生においてあんな小さくて細っこい女の子なんか、ただの夜食みたいなものだったけど。
「人間みたいにメモでもとっておこうかなあ」
特別サービス。柄にもなく約束してしまったから。