高く掲げよ(ネプチューンマン夢小説)
名前を変える
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ネプチューンマンに連れていかれたのは、いかにもくつろげる雰囲気の古びたパブだった。ほの暗い店内にムーディーな音楽。丈の低いテーブルに、座り心地のよさそうな肘かけつきの椅子。そっと腰かけると、いかにも英国風と言った感じのビロードばりの表面は、ところどころ毛羽がすり切れて、遠目には模様のようにもみえる。
「なんでも好きなものを頼んでくれ」と、ネプチューンマンに言われ、彼女はエッグノックを選んだ。ややあって、トロリとした乳白色の飲み物で充たされたガラスのカップが運ばれてきた。表面は湯気をたて、ほんのりとシナモンの香りが漂っている。この冬初めてのエッグノックだった。ヤケドしないように気をつけながら口をつける。温かく甘く、まろやかでこくがあり、いかにも心を落ち着けてくれそうで、どこか懐かしい。この季節ならではの味わいだ。
ネプチューンマンは、彼女の向かいにどっしりと腰を落ちつけて、年代物のドランブイをロックスタイルで味わっていた。。グラスを鼻に近づけてゆっくり回し、ハチミツのようなコクのある薫りを楽しんだあと、舌を灼くほどに甘い液体でチビリと口を湿らせる。あいまに彼女から聞かされた身の上話を、あらためて俎上に載せた。
「母国から遠く離れた国で、頼る者も滞在資格も失くした、というわけか」
「……そうです」
「今すぐにでもジャパンに帰るのだな、それが一番だ」
「そんなこと」
みなまで言えず彼女は口をつぐんだ。言われなくても、アタマでは痛いほど判っている。それでもなお、諦めきれない思いがふたたび口を開かせた。
「ここに来たとき、わたし、何も持ってなくて。だけど、ステージで歌ったら皆が喜んでくれて。だからこの国で歌手になろうって決めて、そのために生きてきたんです、それしかなかったから。来たときと同じまま手ぶらで帰りたくない。チャンスさえあれば、絶対に夢を叶えられるはずなんです」
「こう言っては何だが、若い時分の夢など叶わないほうが普通だ」
「やってみないと判りません。ネプチューンマンさんは、わたしの歌を聞いたこと、ないじゃないですか」
「ほう、そうきたか」
かつての自分と同じく「世間から評価されない」という憤懣を胸に抱いた姿を見ていると、その心中の歯がゆさや、もどかしさがどういうものか、ネプチューンマンには容易に察せられた。
そして完璧超人となったが故に、今となっては滅多に抱くことのないその懊悩が、無意識に彼の心をかき乱す。この小さな苛立ちは、彼女に対してなのか、それもかつての自分に対してなのか。
憤りに見合うだけの実力を本当にこの娘は己の中に蓄えているのか。ネプチューンマンはそれを確かめてみたくなり、意地悪めいた思いつきを口にした。
「ならば、賭けをしよう。もし本当に自分の歌唱力に自信があるのなら、今すぐこの場で歌ってみせろ。それで拍手がひとつでももらえたら、先ほど話していたそのコンクールまでの間、衣食住の面倒を私が見てやる。しかし、歌い終えるまえに店の人間に止められたり、ブーイングを受けたりしたら……そうだな、いまこの店で飲んでいる客全員に、詫びとしてお前が一杯ずつ酒をおごる。これでどうだ」
「え!?」
「どうした?『聞いたことがないだろう』と言ったではないか。どれほど美しいのかぜひ歌ってみせてくれ」
「で、でも許可くらいとった方が」
ネプチューンマンはヒラヒラと手を左右に振って否定した。
「本当に聴くに値する歌であれば、そんなものは必要ない」
話を聞いてくれると言ったのに、急にこんな無理難題を吹っかけるなんて。ゴクリ、と彼女は唾を飲みこんだ。さっきの物言いがカンにさわったのだろうか。完璧超人というだけあって、もの凄くプライドが高いのかもしれない。
人前で歌うことは慣れている。問題は失敗した場合、全員の酒代を払ったら下手をすると日本に帰ることすら出来なくなってしまうということだ。
だけど、ここまで言われたら逆に彼にぜひ自分の歌を聴いてほしい。
彼女はカップをテーブルに置くと立ち上がり、すうっと一息吸ってから歌いだした。
――Amazing grace
how sweet the sound
That saved a wretch like me ………
「Amazing Grace」は、イギリスの牧師が作詞した古い讃美歌だ。この国に来てからずっと、歌うことは彼女にとって導きであり救いであり恵みであった。今もまた、それが彼女を導いてくれる、そう信じてこれを選んだ。
突然始まった歌に、パブにいた客全員が彼女に視線をそそいだ。そして、美しく朗々と響く声に、彼らの眼差しはすぐに優しいものに変わった。「歌え」と、命じたネプチューンマン自身もつい、聴きいった。
最後まで彼女を止める者も揶揄する者も現れることはなかった。彼女は見事に歌い上げると、聴衆にむかって感謝の念をこめて深々とお辞儀をした。
ネプチューンマンは真っ先に立ち上がり、おそろしく大きな両手を打ち合わせて拍手をおくった。それに続いて、他の客からも次々と拍手が巻き起こった。
こうして彼女はみごとに実力で、コンクールまでの滞在手段を確保したのだった。
この上なく美しい朝だった。よく整えられたフカフカのベッド。窓から差しこむ朝日。
目を覚ました彼女は、自分はいま一体どこにいるのだろうといぶかしみ、次の瞬間、昨夜の出来事を思い出した。
彼女は、完璧超人ネプチューンマンの自宅にある、客間の一室で朝を迎えたのだった。
「お、おはようございます」
身支度を整えた彼女がダイニングに足を運ぶと、ネプチューンマンがキッチンに立っていた。シーツのような大布で出来たエプロンを身につけている。
「おはよう、眠れたか。朝食の支度が出来たから、そろそろ声をかけようと思っていた。座るといい」
彼女が席につくと、テーブルにはサラダ、目玉焼き、ソーセージ、ベイクド・ビーンズの載せられた皿とトーストに紅茶、牛乳とイングリッシュブレックファーストそのままの料理がずらりと並べられていた。
二人は差し向かいで食事を始めた。
「美味しい……すみません、手伝わなくて」
「いや、いい。面倒を見ると言ったのは私だ。それに食事には気を使っているので、他人には任せたりしないのだ」
ネプチューンマンが切り分けた目玉焼きを口に運ぶ。咀嚼にしたがって、きれいに整えられた鼻の下の口ひげがモソモソと動いた。一本一本が細く美しい金の色をしている。彼女はそれを眺めながら、マスクの下はどんな顔をしているのだろうと、何となく考えた。
「どうした?ボーっとして」
「い、いえ別に」
朝食のあとで、「歌の練習にはこの部屋を使え」と、広い客間に連れていかれた。部屋の隅にピアノが置かれていたが、もう何年も使われていないようで、ピアノカバーはうっすらホコリをかぶっていた。
アパートの部屋では歌うことなどできないので、今まではスタジオを借りて練習していたが、ここなら好きな時間に、好きなだけ歌うことが出来る。彼女は嬉しくなってて、午後はずっと課題曲に取り組んで過ごした。
その日の夕食も、ネプチューンマン手ずからの料理がテーブルに並んだ。うずらの卵をしこんだミートローフと、たっぷりのグリーンサラダ。美味しいと盛んにほめそやす彼女に、「完璧超人の私が作ったのだから当たり前だ」と、得意げにネプチューンマンは答えるのだった。
夜もふけ、彼女はあてがわれた部屋に引きとるとシャワーをすませた。ふと気がつくと階下のどこかからアコースティックギターをつま弾く音が聞こえてくる。ビートルズの「ゴールデン・スランバー」。
あの、見上げるほどの大男(本人に訊ねたら身長240センチとのことだった)が、あんな優しい音色を奏でているのだと思うと、大きな熊に抱きしめられたような、温かく幸せな気持ちがこみ上げてきて、ギターの音色に合わせて彼女はそっと歌を口ずさんだ。
朝昼晩とネプチューンマンの作った料理を食べ、歌う事だけを考えて、今日が昨日になり、明日が今日になる。そんな毎日を繰り返していたらあっという間にコンクールの当日になった。
「行ってきます!」
「ああ、精一杯やってくるといい」
朝早くネプチューンマンに見送られて、彼女はバスをいくつも乗り継いで、コンクール会場のあるロンドンへ出向いた。
会場にズラリと並んだ参加者はみな実力伯仲だったけれど、自分を出し切って歌えた、と彼女はコンクールで実感できた。
しかし残念なことに、それを結果に結びつけることは出来なかった。
日暮れ前、肩を落として帰り着いた彼女の姿を見て、ネプチューンマンは聞くまでもなくその結果を察していた。
「優勝、できませんでした……完璧に歌えたって思ったんですけど。それでも、ダメだったみたいです」
下を向いたまま、ポソリと呟いた彼女の細い方が小さく震えている。
その肩に、完璧超人の武骨な手がそっとおかれた。
「この一か月をお前がどう過ごしたか、私がちゃんと知っている。顔をあげろ」
彼女は涙で頬を濡らしたまま、ネプチューンマンを見上げた。マスクの向こう側がら、彼の眼が彼女をはっしととらえた。
「『完璧に歌えた』と言ったな。完璧超人のレゾンデートルは『完璧を求め続ける心』にある――少なくとも私はそう思っている。お前は超人ではないが同じ志を持っているから、あえて言おう。
満足せず、追い求めろ。そして絶対に、自分を見限るな」
「ネプチューンマンさん……」
「いつも心の中に星をひとつ置け。いや、掲げろ――こんな風に」
ネプチューンマンはそう言うと、いつもリングで行うように、右腕を高く掲げて、人差し指で天を指した。
誇り高く顔を上げ宙を指し示すその姿は、この広い宇宙で自分は唯一無二の強者であると、高らかに宣言しているようにもみえた。
そこに、励ましや慰撫の言葉は一切なかったけれど、自分が彼に対等な存在として認めてもらえたようで、彼女はとても嬉しかった。
――一週間後。
ついにイギリスを去る日がやってきた。空港まではネプチューンマンが車で送ってくれた。
あのあとも彼女はネプチューンマンの家で過ごした。コンクールまでの日々とはうって変わって、庭仕事や菓子作りなどをして、思い出作りに精をだした。
「たくさんお世話になりました。このご恩は一生忘れません」
「ああ。また、いつかロンドンへ来たら連絡をするといい」
ネプチューンマンは入場ゲートをくぐり抜けて、じょじょに小さくなっていく背中を見送っていた。
すると、彼女がとつぜんクルリとふり向いた。
「ネプチューンマンさん!」
大声で彼の名を呼びながら笑みを浮かべ、右腕を高く上げ人差し指で天を指し示した。
「ナンバーワン!」
その呼びかけにネプチューンマンはニヤリと笑みを浮かべると、エールを返すようにそれに倣った。
「ナンバーワン!」
end
(初出:「夢みる頃を過ぎても」 2022.09)
「なんでも好きなものを頼んでくれ」と、ネプチューンマンに言われ、彼女はエッグノックを選んだ。ややあって、トロリとした乳白色の飲み物で充たされたガラスのカップが運ばれてきた。表面は湯気をたて、ほんのりとシナモンの香りが漂っている。この冬初めてのエッグノックだった。ヤケドしないように気をつけながら口をつける。温かく甘く、まろやかでこくがあり、いかにも心を落ち着けてくれそうで、どこか懐かしい。この季節ならではの味わいだ。
ネプチューンマンは、彼女の向かいにどっしりと腰を落ちつけて、年代物のドランブイをロックスタイルで味わっていた。。グラスを鼻に近づけてゆっくり回し、ハチミツのようなコクのある薫りを楽しんだあと、舌を灼くほどに甘い液体でチビリと口を湿らせる。あいまに彼女から聞かされた身の上話を、あらためて俎上に載せた。
「母国から遠く離れた国で、頼る者も滞在資格も失くした、というわけか」
「……そうです」
「今すぐにでもジャパンに帰るのだな、それが一番だ」
「そんなこと」
みなまで言えず彼女は口をつぐんだ。言われなくても、アタマでは痛いほど判っている。それでもなお、諦めきれない思いがふたたび口を開かせた。
「ここに来たとき、わたし、何も持ってなくて。だけど、ステージで歌ったら皆が喜んでくれて。だからこの国で歌手になろうって決めて、そのために生きてきたんです、それしかなかったから。来たときと同じまま手ぶらで帰りたくない。チャンスさえあれば、絶対に夢を叶えられるはずなんです」
「こう言っては何だが、若い時分の夢など叶わないほうが普通だ」
「やってみないと判りません。ネプチューンマンさんは、わたしの歌を聞いたこと、ないじゃないですか」
「ほう、そうきたか」
かつての自分と同じく「世間から評価されない」という憤懣を胸に抱いた姿を見ていると、その心中の歯がゆさや、もどかしさがどういうものか、ネプチューンマンには容易に察せられた。
そして完璧超人となったが故に、今となっては滅多に抱くことのないその懊悩が、無意識に彼の心をかき乱す。この小さな苛立ちは、彼女に対してなのか、それもかつての自分に対してなのか。
憤りに見合うだけの実力を本当にこの娘は己の中に蓄えているのか。ネプチューンマンはそれを確かめてみたくなり、意地悪めいた思いつきを口にした。
「ならば、賭けをしよう。もし本当に自分の歌唱力に自信があるのなら、今すぐこの場で歌ってみせろ。それで拍手がひとつでももらえたら、先ほど話していたそのコンクールまでの間、衣食住の面倒を私が見てやる。しかし、歌い終えるまえに店の人間に止められたり、ブーイングを受けたりしたら……そうだな、いまこの店で飲んでいる客全員に、詫びとしてお前が一杯ずつ酒をおごる。これでどうだ」
「え!?」
「どうした?『聞いたことがないだろう』と言ったではないか。どれほど美しいのかぜひ歌ってみせてくれ」
「で、でも許可くらいとった方が」
ネプチューンマンはヒラヒラと手を左右に振って否定した。
「本当に聴くに値する歌であれば、そんなものは必要ない」
話を聞いてくれると言ったのに、急にこんな無理難題を吹っかけるなんて。ゴクリ、と彼女は唾を飲みこんだ。さっきの物言いがカンにさわったのだろうか。完璧超人というだけあって、もの凄くプライドが高いのかもしれない。
人前で歌うことは慣れている。問題は失敗した場合、全員の酒代を払ったら下手をすると日本に帰ることすら出来なくなってしまうということだ。
だけど、ここまで言われたら逆に彼にぜひ自分の歌を聴いてほしい。
彼女はカップをテーブルに置くと立ち上がり、すうっと一息吸ってから歌いだした。
――Amazing grace
how sweet the sound
That saved a wretch like me ………
「Amazing Grace」は、イギリスの牧師が作詞した古い讃美歌だ。この国に来てからずっと、歌うことは彼女にとって導きであり救いであり恵みであった。今もまた、それが彼女を導いてくれる、そう信じてこれを選んだ。
突然始まった歌に、パブにいた客全員が彼女に視線をそそいだ。そして、美しく朗々と響く声に、彼らの眼差しはすぐに優しいものに変わった。「歌え」と、命じたネプチューンマン自身もつい、聴きいった。
最後まで彼女を止める者も揶揄する者も現れることはなかった。彼女は見事に歌い上げると、聴衆にむかって感謝の念をこめて深々とお辞儀をした。
ネプチューンマンは真っ先に立ち上がり、おそろしく大きな両手を打ち合わせて拍手をおくった。それに続いて、他の客からも次々と拍手が巻き起こった。
こうして彼女はみごとに実力で、コンクールまでの滞在手段を確保したのだった。
この上なく美しい朝だった。よく整えられたフカフカのベッド。窓から差しこむ朝日。
目を覚ました彼女は、自分はいま一体どこにいるのだろうといぶかしみ、次の瞬間、昨夜の出来事を思い出した。
彼女は、完璧超人ネプチューンマンの自宅にある、客間の一室で朝を迎えたのだった。
「お、おはようございます」
身支度を整えた彼女がダイニングに足を運ぶと、ネプチューンマンがキッチンに立っていた。シーツのような大布で出来たエプロンを身につけている。
「おはよう、眠れたか。朝食の支度が出来たから、そろそろ声をかけようと思っていた。座るといい」
彼女が席につくと、テーブルにはサラダ、目玉焼き、ソーセージ、ベイクド・ビーンズの載せられた皿とトーストに紅茶、牛乳とイングリッシュブレックファーストそのままの料理がずらりと並べられていた。
二人は差し向かいで食事を始めた。
「美味しい……すみません、手伝わなくて」
「いや、いい。面倒を見ると言ったのは私だ。それに食事には気を使っているので、他人には任せたりしないのだ」
ネプチューンマンが切り分けた目玉焼きを口に運ぶ。咀嚼にしたがって、きれいに整えられた鼻の下の口ひげがモソモソと動いた。一本一本が細く美しい金の色をしている。彼女はそれを眺めながら、マスクの下はどんな顔をしているのだろうと、何となく考えた。
「どうした?ボーっとして」
「い、いえ別に」
朝食のあとで、「歌の練習にはこの部屋を使え」と、広い客間に連れていかれた。部屋の隅にピアノが置かれていたが、もう何年も使われていないようで、ピアノカバーはうっすらホコリをかぶっていた。
アパートの部屋では歌うことなどできないので、今まではスタジオを借りて練習していたが、ここなら好きな時間に、好きなだけ歌うことが出来る。彼女は嬉しくなってて、午後はずっと課題曲に取り組んで過ごした。
その日の夕食も、ネプチューンマン手ずからの料理がテーブルに並んだ。うずらの卵をしこんだミートローフと、たっぷりのグリーンサラダ。美味しいと盛んにほめそやす彼女に、「完璧超人の私が作ったのだから当たり前だ」と、得意げにネプチューンマンは答えるのだった。
夜もふけ、彼女はあてがわれた部屋に引きとるとシャワーをすませた。ふと気がつくと階下のどこかからアコースティックギターをつま弾く音が聞こえてくる。ビートルズの「ゴールデン・スランバー」。
あの、見上げるほどの大男(本人に訊ねたら身長240センチとのことだった)が、あんな優しい音色を奏でているのだと思うと、大きな熊に抱きしめられたような、温かく幸せな気持ちがこみ上げてきて、ギターの音色に合わせて彼女はそっと歌を口ずさんだ。
朝昼晩とネプチューンマンの作った料理を食べ、歌う事だけを考えて、今日が昨日になり、明日が今日になる。そんな毎日を繰り返していたらあっという間にコンクールの当日になった。
「行ってきます!」
「ああ、精一杯やってくるといい」
朝早くネプチューンマンに見送られて、彼女はバスをいくつも乗り継いで、コンクール会場のあるロンドンへ出向いた。
会場にズラリと並んだ参加者はみな実力伯仲だったけれど、自分を出し切って歌えた、と彼女はコンクールで実感できた。
しかし残念なことに、それを結果に結びつけることは出来なかった。
日暮れ前、肩を落として帰り着いた彼女の姿を見て、ネプチューンマンは聞くまでもなくその結果を察していた。
「優勝、できませんでした……完璧に歌えたって思ったんですけど。それでも、ダメだったみたいです」
下を向いたまま、ポソリと呟いた彼女の細い方が小さく震えている。
その肩に、完璧超人の武骨な手がそっとおかれた。
「この一か月をお前がどう過ごしたか、私がちゃんと知っている。顔をあげろ」
彼女は涙で頬を濡らしたまま、ネプチューンマンを見上げた。マスクの向こう側がら、彼の眼が彼女をはっしととらえた。
「『完璧に歌えた』と言ったな。完璧超人のレゾンデートルは『完璧を求め続ける心』にある――少なくとも私はそう思っている。お前は超人ではないが同じ志を持っているから、あえて言おう。
満足せず、追い求めろ。そして絶対に、自分を見限るな」
「ネプチューンマンさん……」
「いつも心の中に星をひとつ置け。いや、掲げろ――こんな風に」
ネプチューンマンはそう言うと、いつもリングで行うように、右腕を高く掲げて、人差し指で天を指した。
誇り高く顔を上げ宙を指し示すその姿は、この広い宇宙で自分は唯一無二の強者であると、高らかに宣言しているようにもみえた。
そこに、励ましや慰撫の言葉は一切なかったけれど、自分が彼に対等な存在として認めてもらえたようで、彼女はとても嬉しかった。
――一週間後。
ついにイギリスを去る日がやってきた。空港まではネプチューンマンが車で送ってくれた。
あのあとも彼女はネプチューンマンの家で過ごした。コンクールまでの日々とはうって変わって、庭仕事や菓子作りなどをして、思い出作りに精をだした。
「たくさんお世話になりました。このご恩は一生忘れません」
「ああ。また、いつかロンドンへ来たら連絡をするといい」
ネプチューンマンは入場ゲートをくぐり抜けて、じょじょに小さくなっていく背中を見送っていた。
すると、彼女がとつぜんクルリとふり向いた。
「ネプチューンマンさん!」
大声で彼の名を呼びながら笑みを浮かべ、右腕を高く上げ人差し指で天を指し示した。
「ナンバーワン!」
その呼びかけにネプチューンマンはニヤリと笑みを浮かべると、エールを返すようにそれに倣った。
「ナンバーワン!」
end
(初出:「夢みる頃を過ぎても」 2022.09)
2/2ページ