高く掲げよ(ネプチューンマン夢小説)
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英国・ロンドン。辺りには霧が立ちこめ、時刻はそろそろ22時をまわろうとしていた。テムズ川にかかるサザークブリッジでは、ひとりの日本人女性――彼女が緑色の欄干にもたれかかっていた。彼女は眼下のテムズ川に視線をむけ、物憂げなため息をひとつついた。
昨日、仕事を失くした。
五年前、彼女は東京からロンドンに移り住んだ。さしたる特技もなかったが、歌だけは自信があった。フラリと入ったパブのオープンマイクで歌ったところをスカウトされ、レストランのステージにのぼり、愛や喜びや悲しみなど、様々な歌をうたって生計をたててきた。その店が昨日突然つぶれてしまったのだ。
そして今日、住む家も失くした。
ロンドンの賃貸物件は軒並み家賃が高い。そのためこちらで恋人が出来ると、いくらもしないうちに同棲を始めた。ずっと今のままでやっていけると思っていたが、気がつくと彼はほかの女性と恋に落ちていた。今朝になって突然「同棲を解消したいから出て行ってほしい」と無下なく家を追い出された。
つまり、就労ビザとパートナービザ、二つの所持資格をいちどきに失ってしまったことになる。
どうしてこう何もかも上手くいかないのだろう。
だけど来月開催されるミュージックコンクールにエントリーしている。優勝者は主催のレコード会社から、プロデビューが約束されているのだ。だから、何としても滞在を続けて最後のチャンスにかけてみたかった。
しかし財布の中身はすでに日本への渡航費にギリギリ足りるかどうか。
彼女の両親は渡英するずっと前に鬼籍に入ってしまっていたし、唯一の肉親である姉もすでに嫁いですっかり他家の人間だ。母国に帰って活かせるようなキャリアも資格もなく、生活の見通しは立ちそうにない。
それでも日本に帰るべきなのだろう、たぶん。
――Thames(テムズ川)は「暗い川」を意味する。
のぞき込んだ川面はどす黒く淀み、文字通り暗い。周囲で渦をまく霧の白さと相まって、両者は強いコントラストをなしていた。
「全てを己と同じ色に染め上げる黒」と「けして他者に染まろうとしない白」は自分以外の全てを拒絶しているという意味において同質だ。
いま彼女とともにあるのは黒と白の二つだけ。だから彼女はただひたすらに孤独だった。
ふと、言葉が口をついて出た。
「……しんじゃおっかな」
この橋の上から、ドボンと水に飛びこんだら、意識が無くなるまでどれくらいかかるだろう。
「聞き捨てならんな、それは」
とつぜんバスの利いた低い男の声が霧の向こうから届いた。次の瞬間、霧をかき分けて彼女の前に姿を現したのは、見上げるほどの背丈の大男だった。薄いベージュ色のトレンチコートに身を包み、同系色の中折れ帽をかぶっている。
背が高いだけではない。太い首に盛り上がった肩、張りだした胸板、彼女の太ももくらいありそうな腕まわり。コートの上からでもそれらの様子があきらかに見てとれた。肌の色はいかにも西洋人らしく透明感があり、顔面に額から鼻下までを覆う金属製の赤いマスクをあてている。ここイギリスで、テレビや雑誌などで何度も目にした姿だった。
(この人、完璧超人の……ネプチューンマン)
英国の超人界にこの人ありと謳われた、正義超人ロビンマスクと双璧をなす実力者として、巷間に広く知られているのが目の前の超人だった。
ネプチューンマンは彼女をじっと見下ろし、への字に結んだ口を再び開いた。
「若い女性が軽々しく死にたいなどと口にするのではない」
若い?もうそんな歳はとっくに過ぎた。みすぼらしい今の自分と比べて、見目好く堂々とした、いかにも大丈夫といった彼の姿にコンプレックスを刺激され、カチンときた彼女は、つい、つっけんどんな言葉を返してしまった。
「こっちの事情も知らないで、簡単にそういうことを言わないでください。それにもう若いって歳でもありませんし!」
予想だにしなかった反応に、ネプチューンマンは揶揄するように口の端を上げた。 「何だ、元気じゃないか」 。
その声音はどこか安堵しているようにも聞こえた。
「ええ、元気です。仕事も恋人も住むところもなくして、お財布もすっからかんで、生涯最悪の気分ですけどね」
言い終えた瞬間、彼女の眼から涙がポロリとこぼれ、それを機に堰をきったように泣きだした。
ネプチューンマンは、目の前でしゃくりあげながら泣く若い女性を眺め「いったい自分は何をしているのだろう」と、自問していた。
かつて正義超人だった頃の彼は「喧嘩男(ケンカマン)」の名を名乗っていた。実力は充分にありながらファイトスタイルが原因で正当な評価を受けられず、失意のあげく、テムズ川に身を投げた。まさに、今いるこの場所で。そして川底に沈んだ喧嘩男を待ち構えていたのが、あのネプチューンキングだった。彼と出会ったことで正義超人・喧嘩男は完璧超人・ネプチューンマンへと転生し、現在に至っている。
なにげなく夜の街を歩いていたネプチューンマンに、霧の向こうから聞こえた「死んでしまおうか」という呟き。それが呼び水となって、彼の心のなかに、あの時の忌まわしい記憶がまたたく間に蘇った――自分の人生はこれで終いなのだという絶望のもと、水中に没してからネプチューンキングが姿を現すまでのあいだに経験した感覚――鼻と口から浸入する、生臭い泥水の匂いと味、軟らかなドブにズブズブ足がのめり込むおぞましい感触、酸素をもとめて暴れる肺の痛み。それらがあまりにも生々しかったせいで、つい彼は足を止め、声の主に呼びかけてしまったのだった。
自らの意思で関わってしまった以上、泣いている相手を「はい、さようなら」とあっさり放置するわけにもいかず、どうしたものかとネプチューンマンは手をこまねいて立ち尽くしていた。そのうちに気持ちが落ちついたようで、彼女はバッグからハンカチを取り出し目元にあて、鼻をすすった。
「……事情も知らず失礼なことを言ったようで、すまなかった。詫びといってはなんだが、一杯奢らせてくれ。私のような相手でも構わないのなら話したらいい。吐き出したら気が楽になることもあるだろう」
昨日、仕事を失くした。
五年前、彼女は東京からロンドンに移り住んだ。さしたる特技もなかったが、歌だけは自信があった。フラリと入ったパブのオープンマイクで歌ったところをスカウトされ、レストランのステージにのぼり、愛や喜びや悲しみなど、様々な歌をうたって生計をたててきた。その店が昨日突然つぶれてしまったのだ。
そして今日、住む家も失くした。
ロンドンの賃貸物件は軒並み家賃が高い。そのためこちらで恋人が出来ると、いくらもしないうちに同棲を始めた。ずっと今のままでやっていけると思っていたが、気がつくと彼はほかの女性と恋に落ちていた。今朝になって突然「同棲を解消したいから出て行ってほしい」と無下なく家を追い出された。
つまり、就労ビザとパートナービザ、二つの所持資格をいちどきに失ってしまったことになる。
どうしてこう何もかも上手くいかないのだろう。
だけど来月開催されるミュージックコンクールにエントリーしている。優勝者は主催のレコード会社から、プロデビューが約束されているのだ。だから、何としても滞在を続けて最後のチャンスにかけてみたかった。
しかし財布の中身はすでに日本への渡航費にギリギリ足りるかどうか。
彼女の両親は渡英するずっと前に鬼籍に入ってしまっていたし、唯一の肉親である姉もすでに嫁いですっかり他家の人間だ。母国に帰って活かせるようなキャリアも資格もなく、生活の見通しは立ちそうにない。
それでも日本に帰るべきなのだろう、たぶん。
――Thames(テムズ川)は「暗い川」を意味する。
のぞき込んだ川面はどす黒く淀み、文字通り暗い。周囲で渦をまく霧の白さと相まって、両者は強いコントラストをなしていた。
「全てを己と同じ色に染め上げる黒」と「けして他者に染まろうとしない白」は自分以外の全てを拒絶しているという意味において同質だ。
いま彼女とともにあるのは黒と白の二つだけ。だから彼女はただひたすらに孤独だった。
ふと、言葉が口をついて出た。
「……しんじゃおっかな」
この橋の上から、ドボンと水に飛びこんだら、意識が無くなるまでどれくらいかかるだろう。
「聞き捨てならんな、それは」
とつぜんバスの利いた低い男の声が霧の向こうから届いた。次の瞬間、霧をかき分けて彼女の前に姿を現したのは、見上げるほどの背丈の大男だった。薄いベージュ色のトレンチコートに身を包み、同系色の中折れ帽をかぶっている。
背が高いだけではない。太い首に盛り上がった肩、張りだした胸板、彼女の太ももくらいありそうな腕まわり。コートの上からでもそれらの様子があきらかに見てとれた。肌の色はいかにも西洋人らしく透明感があり、顔面に額から鼻下までを覆う金属製の赤いマスクをあてている。ここイギリスで、テレビや雑誌などで何度も目にした姿だった。
(この人、完璧超人の……ネプチューンマン)
英国の超人界にこの人ありと謳われた、正義超人ロビンマスクと双璧をなす実力者として、巷間に広く知られているのが目の前の超人だった。
ネプチューンマンは彼女をじっと見下ろし、への字に結んだ口を再び開いた。
「若い女性が軽々しく死にたいなどと口にするのではない」
若い?もうそんな歳はとっくに過ぎた。みすぼらしい今の自分と比べて、見目好く堂々とした、いかにも大丈夫といった彼の姿にコンプレックスを刺激され、カチンときた彼女は、つい、つっけんどんな言葉を返してしまった。
「こっちの事情も知らないで、簡単にそういうことを言わないでください。それにもう若いって歳でもありませんし!」
予想だにしなかった反応に、ネプチューンマンは揶揄するように口の端を上げた。 「何だ、元気じゃないか」 。
その声音はどこか安堵しているようにも聞こえた。
「ええ、元気です。仕事も恋人も住むところもなくして、お財布もすっからかんで、生涯最悪の気分ですけどね」
言い終えた瞬間、彼女の眼から涙がポロリとこぼれ、それを機に堰をきったように泣きだした。
ネプチューンマンは、目の前でしゃくりあげながら泣く若い女性を眺め「いったい自分は何をしているのだろう」と、自問していた。
かつて正義超人だった頃の彼は「喧嘩男(ケンカマン)」の名を名乗っていた。実力は充分にありながらファイトスタイルが原因で正当な評価を受けられず、失意のあげく、テムズ川に身を投げた。まさに、今いるこの場所で。そして川底に沈んだ喧嘩男を待ち構えていたのが、あのネプチューンキングだった。彼と出会ったことで正義超人・喧嘩男は完璧超人・ネプチューンマンへと転生し、現在に至っている。
なにげなく夜の街を歩いていたネプチューンマンに、霧の向こうから聞こえた「死んでしまおうか」という呟き。それが呼び水となって、彼の心のなかに、あの時の忌まわしい記憶がまたたく間に蘇った――自分の人生はこれで終いなのだという絶望のもと、水中に没してからネプチューンキングが姿を現すまでのあいだに経験した感覚――鼻と口から浸入する、生臭い泥水の匂いと味、軟らかなドブにズブズブ足がのめり込むおぞましい感触、酸素をもとめて暴れる肺の痛み。それらがあまりにも生々しかったせいで、つい彼は足を止め、声の主に呼びかけてしまったのだった。
自らの意思で関わってしまった以上、泣いている相手を「はい、さようなら」とあっさり放置するわけにもいかず、どうしたものかとネプチューンマンは手をこまねいて立ち尽くしていた。そのうちに気持ちが落ちついたようで、彼女はバッグからハンカチを取り出し目元にあて、鼻をすすった。
「……事情も知らず失礼なことを言ったようで、すまなかった。詫びといってはなんだが、一杯奢らせてくれ。私のような相手でも構わないのなら話したらいい。吐き出したら気が楽になることもあるだろう」
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