あの日彼女がくしゃみをしたから。(バッファローマン夢小説)
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思惑
昨晩は遅くなってから雨が降った。寝つけなかったせいで、そのことを知っている。
しかし、朝になって目を覚ますとバッファローマンはベッドにおらず、日課のジョギングに行っていた。おそらく彼女が寝たあとで雨は止んだのだろう。眠れなかった原因については分かっている、「バッファローマンのプロポーズに対してとっさに口をついた自分の返答」に衝撃をうけたせいだ。「バッファローマンが彼女にプロポーズを申し込んだこと」にではない。
ジョギングを終えたバッファローマンはいつもの時間に帰ってきて、いつものようにシャワーを浴びて、そして食卓についた。今朝は和食だ。炊きたての白いご飯、ふっくら焼いたアジの開き、春の柔らかな新ワカメと豆腐の味噌汁、夕べの残りの白菜で作った即席漬け。
二人でいる時はたいてい彼女がしゃべっている。バッファローマンはふうん、とかそうか、などと相づちは返すが基本、無口だ。しかし、今朝の彼女はつい口をつぐんでしまう。取りとめもない話ならいくらでも思いつくが、なぜか昨夜の返事をするまでは戯れ言を慎まなければならない気がしていた。バッファローマンはそんなことなどお構いなしに、箸で魚の身をほぐしつつ「このアジは塩が効いてて旨いな」などと思っていた。だけど何となく夕べから神妙な雰囲気が続いていることには気がついている。
バッファローマンは10時前には家を出るつもりでいた。白のボタンのダウンシャツのうえに、そろそろ季節外れになりそうなグリーンのツイードのジャケットを羽織る。パンツがグレーなので足元も同系色のローファーを選んだ。彼女の差し出す靴ベラで踵を押込みながら「じゃあ、行ってくる」と告げた。
「あのね?」
「ん?」
「昨日の提案だけど、有効期限はあるのかな?」
「別に。だがあまり長く待つのは性に合わねえんだ、分かるだろ?」
「うん」
「じゃ、そういうことで」
マンションを出たあと、バッファローマンはずっと「彼女がプロポーズをどんな気持ちで受け止めたのだろう」と、考えながら歩いていた。そのため気がつくといつもよりだいぶ早く駅に着いた。
どんなに考えても、他人の頭の中など真実理解することは出来ないことは、理解している。それでもあの瞬間はもう少し違った反応が返ってくると思っていた。
ひとつ屋根の下、二人で暮らしてきて特に不都合もなかったのだから、いずれは俎上にのる話だったろう。それが昨夜だったというだけのことだ。
前フリなしに言い出したから突飛に感じただろうが。
だから本当のことをいえば、今日はバッファローマンは二人で銀座に行くつもりでいた。小さいくせにバカ高いアレ――指輪を買いに。今までだってその時々のパートナーに何度も贈っていた。
彼女にもかつて何度か「買ってやる」と言ったが、当の本人が欲しがらなかったのだ。
「それよりも何か美味しいものを食べよう」とか、「せっかく買ってもらっても仕舞いっぱなしになるからもったいない」とか、いつもそんな答えが返ってきていた。
彼女はバッファローマンが出かけたあとずっと、キッチンのシンクに立っていた。袖を肘までまくり上げて、メラミンスポンジでシンクを磨いている。クルマのワイパーのように右に左にスポンジが行き来して、腕と肩だけが自分の全てであるように感じていた。だけど、頭のなかで昨日のシーンが幾度も再現されていた。
今まではバッファローマンが表向き独身者で通していたため、図らずも知らないフリをしていられたが、彼の来歴や社会的地位を鑑みるに、もしも彼の正式なパートナーになったら、その務めを果たすのはなかなかに骨が折れるだろうと、かねてから思っていた。
すぐに思いつくところでは、固定電話にかかってくる外国からの電話。受話器の向こう側に応える彼はたぶんスペイン語を話している。生まれてこの方、彼女はスペイン語を習う機会など一度もなかった。
それから郵便受けに届くたくさんの書類、マイノリティゆえの煩雑で込み入った諸手続き。
そして、世界中にいる人々との交流。人間だけではない、ありとあらゆる超人もそこには含まれる。
そんな事どもに自分は上手く対処できるだろうか。そう考えるとひどくプレッシャーを感じる。
いつもは居心地のよいこの家が、何だか今は少し息苦しい。
「……転地療法しよう」
昼下がりを過ぎた頃、彼女は都心を離れて郊外に向かう電車に乗っていた。
こんな風に、当てどもなく車窓を眺めてぼんやりするのはいつぶりだろう。家にいればやりたいことが沢山ある。ふいに思い立って家じゅうの大掃除をしたり、通りすがりの花屋さんで季節の一番乗りの花を買って部屋に飾ったり。その店はちょっと首が曲がっているような(それでも充分キレイだ)生花を安く売っている。行きつけのスーパーは鮮魚の品ぞろえが良くて、はしりの、例えば春先ならピカピカのサワラを並べている。キラキラ光る身の締まったいかにも美味しそうな姿をみると、たまには奮発して一匹買って半身は刺身、残りはふんわりサックリとしたフライ、それとも木の芽焼きに、などと夕飯のメニューに熟慮を重ねたりする。
そうこうしているうちに、あっという間に一日が過ぎていく。
だからデート以外では、何かの手続きや「これだけは劇場で観たい」という映画でもなければ、彼女は日々のほとんどを自宅とその周辺で過ごしていた。
やがて、彼女を乗せた電車は大きな橋を渡った。その規模に見合った幅広の川は晴天続きで流れが痩せ、川床の一部が顔をのぞかせていた。そこから先は同じ都道府県でも明確に郊外の様相を見せ始めるる。
ウィークデイの昼下がりとあって、しばしの後に降りた駅は閑散としていた。彼女が選んだのは、日帰り登山におあつらえの山と古くから信仰をあつめてきた寺院で有名な場所だった。今夜は帰らないつもりだから、駅前のビジネスホテルにシングルの部屋をとった。
陽が落ちた頃、緒用をすませて帰宅したバッファローマンがリビングのドアを開けると、シンと静まり返った暗い空間が彼を出迎えた。ライトをつけ、テーブルにおかれた一辺の紙片が目にとまり手に取ると『昨日のこと、少し一人で考えさせてください。明日には帰ります』と、記されていた。
「――いい歳して家出かよ」
色々と面倒くさくなったバッファローマンは、帰宅したときの姿のまま食事をしに外へ出た。コートを忘れてきたが、今夜はずいぶん暖かい。大通りに出ると、蕎麦屋の立て看板に「春の天ぷら蕎麦」と記されているのが、ふと目についた。料理の写真では白魚と青のりのかき揚げや山菜の天ぷらに、手打ちの蕎麦がついているようだ。その瞬間、バッファローマンの胃が「この店にしろ」と、きゅっとすぼまった。
店の間口は狭かったが、扉を開けると店内は広々としていて、奥まったところには座敷席まであった。突然のっそりと現れた巨躯の超人に、店員は一瞬目を丸くしたが、気を利かせて座敷の一番奥の席をバッファローマンにすすめてくれた。そこなら彼も周囲を気にせず二人分のスペースに一人でゆったりと座ることができる。席にあがったバッファローマンがどっしりあぐらをかいて、小さな品書きに手を伸ばすと、そこには酒呑みの心を絶妙にくすぐる品々が並んでいた。
箸と温かい茶を運んできた店員に、彼はまず、フキノトウ味噌とコゴミのお浸しを注文した。合わせる酒は真澄のぬる燗だ。厳冬の頃にはもどかしい、どっちつかずの温度も、この季節には素直に楽しめて、大らかな心持ちになってくる。しばらく手酌でそれをかたむけ、二本目の徳利が空になった頃、表の品書きにあった『春の天ぷら蕎麦』を三本目の徳利と共に頼んだ。
蕎麦を待ちながら、猪口に残った真澄をチビチビなめていると、隣の卓にいる若い親子連れの様子が目についた。
座卓の片側には年の頃三十代ぐらいの父親が、反対には同じ年頃の母親と二~三歳とおぼしき幼児が並んで座っている。父親は天ザルを、母親はなにかの暖かいうどんを食べていた。母親は自分のうどんを子供のためにちいさなプラスチックの碗に移しかえている。その椀が子どもの前にさし出されると、その子は小さなフォークをつっこんで格闘し、ツルツルと逃げ回っていたうどんをやっと一本仕留めると、あんぐりと口にふくんだ。
「おいしい?」と母親が子どもに問いかけると、子どもはこぼれるような笑みを浮かべてコクリとうなずいた。つられて両親も笑みを浮かべている。そしてバッファローマンは、自分の口元もほころんでいることに気がついた。
とうとつに、彼女の姿が思いうかんだ。彼女は細やかで愛情深いからきっと母親に向いているのではないか。
超人と人間が子を設けることは不可能だといわれているし、昨日の返事しだいではチャレンジする機会も失われる恐れがでてきたから、そういう機会があれば、の話だが。それにバッファローマン自身は入籍がご破算になっても関係を終わらせるつもりはないが、相手はどうだろうか。変に生真面目で不器用だからプロポーズを断ったのだから、もう一緒にはいられないと、一方的に身を引いてしまうかもしれない。
「……もしかしてヤブヘビだったのか?」
昨晩は遅くなってから雨が降った。寝つけなかったせいで、そのことを知っている。
しかし、朝になって目を覚ますとバッファローマンはベッドにおらず、日課のジョギングに行っていた。おそらく彼女が寝たあとで雨は止んだのだろう。眠れなかった原因については分かっている、「バッファローマンのプロポーズに対してとっさに口をついた自分の返答」に衝撃をうけたせいだ。「バッファローマンが彼女にプロポーズを申し込んだこと」にではない。
ジョギングを終えたバッファローマンはいつもの時間に帰ってきて、いつものようにシャワーを浴びて、そして食卓についた。今朝は和食だ。炊きたての白いご飯、ふっくら焼いたアジの開き、春の柔らかな新ワカメと豆腐の味噌汁、夕べの残りの白菜で作った即席漬け。
二人でいる時はたいてい彼女がしゃべっている。バッファローマンはふうん、とかそうか、などと相づちは返すが基本、無口だ。しかし、今朝の彼女はつい口をつぐんでしまう。取りとめもない話ならいくらでも思いつくが、なぜか昨夜の返事をするまでは戯れ言を慎まなければならない気がしていた。バッファローマンはそんなことなどお構いなしに、箸で魚の身をほぐしつつ「このアジは塩が効いてて旨いな」などと思っていた。だけど何となく夕べから神妙な雰囲気が続いていることには気がついている。
バッファローマンは10時前には家を出るつもりでいた。白のボタンのダウンシャツのうえに、そろそろ季節外れになりそうなグリーンのツイードのジャケットを羽織る。パンツがグレーなので足元も同系色のローファーを選んだ。彼女の差し出す靴ベラで踵を押込みながら「じゃあ、行ってくる」と告げた。
「あのね?」
「ん?」
「昨日の提案だけど、有効期限はあるのかな?」
「別に。だがあまり長く待つのは性に合わねえんだ、分かるだろ?」
「うん」
「じゃ、そういうことで」
マンションを出たあと、バッファローマンはずっと「彼女がプロポーズをどんな気持ちで受け止めたのだろう」と、考えながら歩いていた。そのため気がつくといつもよりだいぶ早く駅に着いた。
どんなに考えても、他人の頭の中など真実理解することは出来ないことは、理解している。それでもあの瞬間はもう少し違った反応が返ってくると思っていた。
ひとつ屋根の下、二人で暮らしてきて特に不都合もなかったのだから、いずれは俎上にのる話だったろう。それが昨夜だったというだけのことだ。
前フリなしに言い出したから突飛に感じただろうが。
だから本当のことをいえば、今日はバッファローマンは二人で銀座に行くつもりでいた。小さいくせにバカ高いアレ――指輪を買いに。今までだってその時々のパートナーに何度も贈っていた。
彼女にもかつて何度か「買ってやる」と言ったが、当の本人が欲しがらなかったのだ。
「それよりも何か美味しいものを食べよう」とか、「せっかく買ってもらっても仕舞いっぱなしになるからもったいない」とか、いつもそんな答えが返ってきていた。
彼女はバッファローマンが出かけたあとずっと、キッチンのシンクに立っていた。袖を肘までまくり上げて、メラミンスポンジでシンクを磨いている。クルマのワイパーのように右に左にスポンジが行き来して、腕と肩だけが自分の全てであるように感じていた。だけど、頭のなかで昨日のシーンが幾度も再現されていた。
今まではバッファローマンが表向き独身者で通していたため、図らずも知らないフリをしていられたが、彼の来歴や社会的地位を鑑みるに、もしも彼の正式なパートナーになったら、その務めを果たすのはなかなかに骨が折れるだろうと、かねてから思っていた。
すぐに思いつくところでは、固定電話にかかってくる外国からの電話。受話器の向こう側に応える彼はたぶんスペイン語を話している。生まれてこの方、彼女はスペイン語を習う機会など一度もなかった。
それから郵便受けに届くたくさんの書類、マイノリティゆえの煩雑で込み入った諸手続き。
そして、世界中にいる人々との交流。人間だけではない、ありとあらゆる超人もそこには含まれる。
そんな事どもに自分は上手く対処できるだろうか。そう考えるとひどくプレッシャーを感じる。
いつもは居心地のよいこの家が、何だか今は少し息苦しい。
「……転地療法しよう」
昼下がりを過ぎた頃、彼女は都心を離れて郊外に向かう電車に乗っていた。
こんな風に、当てどもなく車窓を眺めてぼんやりするのはいつぶりだろう。家にいればやりたいことが沢山ある。ふいに思い立って家じゅうの大掃除をしたり、通りすがりの花屋さんで季節の一番乗りの花を買って部屋に飾ったり。その店はちょっと首が曲がっているような(それでも充分キレイだ)生花を安く売っている。行きつけのスーパーは鮮魚の品ぞろえが良くて、はしりの、例えば春先ならピカピカのサワラを並べている。キラキラ光る身の締まったいかにも美味しそうな姿をみると、たまには奮発して一匹買って半身は刺身、残りはふんわりサックリとしたフライ、それとも木の芽焼きに、などと夕飯のメニューに熟慮を重ねたりする。
そうこうしているうちに、あっという間に一日が過ぎていく。
だからデート以外では、何かの手続きや「これだけは劇場で観たい」という映画でもなければ、彼女は日々のほとんどを自宅とその周辺で過ごしていた。
やがて、彼女を乗せた電車は大きな橋を渡った。その規模に見合った幅広の川は晴天続きで流れが痩せ、川床の一部が顔をのぞかせていた。そこから先は同じ都道府県でも明確に郊外の様相を見せ始めるる。
ウィークデイの昼下がりとあって、しばしの後に降りた駅は閑散としていた。彼女が選んだのは、日帰り登山におあつらえの山と古くから信仰をあつめてきた寺院で有名な場所だった。今夜は帰らないつもりだから、駅前のビジネスホテルにシングルの部屋をとった。
陽が落ちた頃、緒用をすませて帰宅したバッファローマンがリビングのドアを開けると、シンと静まり返った暗い空間が彼を出迎えた。ライトをつけ、テーブルにおかれた一辺の紙片が目にとまり手に取ると『昨日のこと、少し一人で考えさせてください。明日には帰ります』と、記されていた。
「――いい歳して家出かよ」
色々と面倒くさくなったバッファローマンは、帰宅したときの姿のまま食事をしに外へ出た。コートを忘れてきたが、今夜はずいぶん暖かい。大通りに出ると、蕎麦屋の立て看板に「春の天ぷら蕎麦」と記されているのが、ふと目についた。料理の写真では白魚と青のりのかき揚げや山菜の天ぷらに、手打ちの蕎麦がついているようだ。その瞬間、バッファローマンの胃が「この店にしろ」と、きゅっとすぼまった。
店の間口は狭かったが、扉を開けると店内は広々としていて、奥まったところには座敷席まであった。突然のっそりと現れた巨躯の超人に、店員は一瞬目を丸くしたが、気を利かせて座敷の一番奥の席をバッファローマンにすすめてくれた。そこなら彼も周囲を気にせず二人分のスペースに一人でゆったりと座ることができる。席にあがったバッファローマンがどっしりあぐらをかいて、小さな品書きに手を伸ばすと、そこには酒呑みの心を絶妙にくすぐる品々が並んでいた。
箸と温かい茶を運んできた店員に、彼はまず、フキノトウ味噌とコゴミのお浸しを注文した。合わせる酒は真澄のぬる燗だ。厳冬の頃にはもどかしい、どっちつかずの温度も、この季節には素直に楽しめて、大らかな心持ちになってくる。しばらく手酌でそれをかたむけ、二本目の徳利が空になった頃、表の品書きにあった『春の天ぷら蕎麦』を三本目の徳利と共に頼んだ。
蕎麦を待ちながら、猪口に残った真澄をチビチビなめていると、隣の卓にいる若い親子連れの様子が目についた。
座卓の片側には年の頃三十代ぐらいの父親が、反対には同じ年頃の母親と二~三歳とおぼしき幼児が並んで座っている。父親は天ザルを、母親はなにかの暖かいうどんを食べていた。母親は自分のうどんを子供のためにちいさなプラスチックの碗に移しかえている。その椀が子どもの前にさし出されると、その子は小さなフォークをつっこんで格闘し、ツルツルと逃げ回っていたうどんをやっと一本仕留めると、あんぐりと口にふくんだ。
「おいしい?」と母親が子どもに問いかけると、子どもはこぼれるような笑みを浮かべてコクリとうなずいた。つられて両親も笑みを浮かべている。そしてバッファローマンは、自分の口元もほころんでいることに気がついた。
とうとつに、彼女の姿が思いうかんだ。彼女は細やかで愛情深いからきっと母親に向いているのではないか。
超人と人間が子を設けることは不可能だといわれているし、昨日の返事しだいではチャレンジする機会も失われる恐れがでてきたから、そういう機会があれば、の話だが。それにバッファローマン自身は入籍がご破算になっても関係を終わらせるつもりはないが、相手はどうだろうか。変に生真面目で不器用だからプロポーズを断ったのだから、もう一緒にはいられないと、一方的に身を引いてしまうかもしれない。
「……もしかしてヤブヘビだったのか?」