あの日彼女がくしゃみをしたから。(バッファローマン夢小説)
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残り香
もう幾らもしないうちに暦は四月になろうとする、暖かな春の夜だった。外出先から帰宅したバッファローマンは、自宅のマンションの集合ポスト前で背後から「こんばんは」と声をかけられた。ふり返った先には、はち切れそうな腹を抱えた妊婦がいた。手には小さなコンビニ袋を片手にさげている。バッファローマンは「こんばんは」と、あいさつを返しながら「意外なこともあるものだ」と思った。
バッファローマンが子供や女性から気安い挨拶をかけられることはめったにない。ましてや女性が妊娠中であれば尚のこと。
理由の一つには彼が巨躯の持ち主ということがあると、バッファローマン自身は考えている。
身長250センチメートル、体重220キロというサイズに「粗暴さ」というイメージが投影されているのだ。
しかし、目の前の女性はそんな気おくれなどみじんも感じさせずにバッファローマンの脇を通り抜け、自分のポストの郵便物を確かめたあとで「奥さま、お元気ですか?」と、彼にたずねた。
(……オクサマ?)
もしかして、いや十中八九、彼女のことだろう。そう判断したバッファローマンは「ええ、おかげさまで」と、素知らぬ顔をして答えた。すると女性は「この間はお世話になりました。よろしくお伝えくださいね」そう言ってニコリとほほ笑み、共用廊下を歩み去った。無防備で暖かなその様子が、残り香のように彼の心のうちに印象づけられた。
夕飯どき、バッファローマンは彼女と差し向かいでしゃぶしゃぶの鍋を囲んでいた。リングケーキの金型のようなステンレスのしゃぶしゃぶ鍋のなかではそろそろ湯が煮立つ頃で、底に沈んだ出汁昆布がプツプツと泡をまとっている。彼女は頃合いを見ながら薄く切った牛肉を花びら状に並べた平皿を手元に引き寄せた。バッファローマンはすり鉢で白ゴマをすりつぶしている。ゴリゴリと動く盛り上がった上腕二頭筋が、上等な仕上がりになることを請け負っている。とくに何か祝い事があったわけでもないが、シンプルで素材の良さが如実に分かるこの料理がバッファローマンは好きだ。
その席で、先ほどの出来事をバッファローマンが彼女に伝えると「お腹がおっきいなら、一階の人だと思う」と答えがかえってきた。
「知り合いか?」
「こないだマンション前の道でその人が鍵を落としてて、かがむの大変そうだからかわりに拾ってあげたの。それでそのあとエントランスのなかまで歩きながら話したから」
「ふうん」
「それでね、その時『ご主人、背が高いですね』って言われたの」女性は二人が並んで歩いているところを幾度か見かけたことがあったらしい。「バッファのこと、ただ『背が高い』ってすごく大ざっぱな表現だよね」
彼女は思い出し笑いをしながら、赤身に美しく白いサシの入った牛肉を長い菜箸ですくい上げた。
「いれるよー」
肉は煮え立つ湯のなかへ差し入れられた瞬間、さっと色を変え、箸の動きに従ってそろりとたゆたった。
その様子を眺めながら、バッファローマンは卓上のポン酢を手元に引き寄せた。だし醤油を絞りたての柑橘系果汁で割った自家製だ。それをとんすいに注ぎ、熱々で柔らかな肉がやってくるのを大人しく待っている。その様子はまるで、腹を減らした超大型犬のようだ。肉にやや赤い色が残った絶妙の段階で彼女はさっと箸を引き上げ、バッファローマンのとんすいにそっと落とした。
「はいどうぞ、召し上がれー」
肉がポン酢に浸かったのもつかの間、バッファローマンはすぐにそれを箸ですくい上げ、口に運んだ。二度か三度の咀嚼のあとで、大きな喉仏がゴクンと動いて、肉はあっという間に飲み下された。それなりに値の張る国産牛のロース肉なのだが、この超人にとっては小さな紙きれみたいなものだ。すぐさま次の肉が湯から引き上げられ、同じように彼の器におとされる。そんな息のあったやりとりがそんな風に数度続いたあと、バッファローマンは「そろそろおまえも食えよ」と告げて、ビールのグラスをかたむけた。
鍋の表面に浮いた牛肉のアクを小さな玉じゃくしですくっている彼女の姿を眺めつつ、バッファローマンはいいようのない充足感を覚えていた。
温かな湯気と美味、気に入った相手と過ごすくつろぎの時間。昔だったらこんな時間を退屈だと感じたかもしれない。
アイドル超人として世界を股にかけていた時代はもちろんのこと、それよりもっと前の、悪魔超人として血気盛んな頃の自分が、今のこの様子を見たら、どんな表情を浮かべるだろうか。
生きとし生けるものはみな歳をとる。長く生きて年老いたものは自分が歩んできた道をやがては若いものに譲る。
それは簡潔にいえば後がつかえているからだ。自分もかつてはそんな風に道を譲られ、その時に様々なものを受け渡された。
帰りしなに会ったあの妊婦もいつかそうやって腹のなかの子に自分が築き上げ、蓄えてきたものを譲り渡すのだろう。
そんな巨牛の物思いなど知るよしもなく、彼女は鍋から引き上げた肉のひとひらを口に運ぶところだった。タレは先ほどバッファローマンの擦ったゴマに生醤油を足したもの。香ばしくしっとりとしたすりゴマに、肉をちょんとつける。
食べるたびにひとつまみずつ上からゴマを振ってもいいのだが、信玄餅のきな粉のようにねっとりとなったゴマを箸ですくって食べるのも楽しいのだ。
(次もすりゴマで食べて、その後でポン酢にしようかな)
そんなやくたいもないことに頭を悩ませている彼女に、バッファローマンはふと呼びかけた。
「――なあ、奥さん」
「ひぇっ!?」
すっとんきょうな声音に相手は苦笑いを浮かべた。
「なんだよ、そのおかしな返事」
「いきなり変な呼び方したから」
いまだかつてこの超人からそんな風に呼ばれたことなどない。呼ばれることを想像したことはあるが。
「おまえ、オレの正真正銘の奥さんになる気はあるか?」
『正真正銘の奥さん』とは戸籍上の妻、もっと正確にいえば法律上の婚姻関係を結んで、彼の配偶者になるということだろうか――ゴクリ、と自分の喉が唾をのみ込む音が聞こえた。
「ええと、勘違いしてないか確認してもいいかな?それって要するに入籍……しないかってこと?」
「まあ、挙げたきゃ式もやっていいが」
「何かあった?」
「何でだ?」
何故、と問うのか。それは、つとめて気にかけないようしていた事だった。バッファローマンのようなタイプは、そういう類の話を煩わしく感じるだろうと思っていたから。現在(いま)与えらていれるものだけで満足し、自分からはあえて何も求めないようにしてきたつもりだ。
心の奥底で「そういう日が来たらいいな」とは思ってはいた。
――だけど。
「ちょっと考えさせてもらってもいいかな」
もう幾らもしないうちに暦は四月になろうとする、暖かな春の夜だった。外出先から帰宅したバッファローマンは、自宅のマンションの集合ポスト前で背後から「こんばんは」と声をかけられた。ふり返った先には、はち切れそうな腹を抱えた妊婦がいた。手には小さなコンビニ袋を片手にさげている。バッファローマンは「こんばんは」と、あいさつを返しながら「意外なこともあるものだ」と思った。
バッファローマンが子供や女性から気安い挨拶をかけられることはめったにない。ましてや女性が妊娠中であれば尚のこと。
理由の一つには彼が巨躯の持ち主ということがあると、バッファローマン自身は考えている。
身長250センチメートル、体重220キロというサイズに「粗暴さ」というイメージが投影されているのだ。
しかし、目の前の女性はそんな気おくれなどみじんも感じさせずにバッファローマンの脇を通り抜け、自分のポストの郵便物を確かめたあとで「奥さま、お元気ですか?」と、彼にたずねた。
(……オクサマ?)
もしかして、いや十中八九、彼女のことだろう。そう判断したバッファローマンは「ええ、おかげさまで」と、素知らぬ顔をして答えた。すると女性は「この間はお世話になりました。よろしくお伝えくださいね」そう言ってニコリとほほ笑み、共用廊下を歩み去った。無防備で暖かなその様子が、残り香のように彼の心のうちに印象づけられた。
夕飯どき、バッファローマンは彼女と差し向かいでしゃぶしゃぶの鍋を囲んでいた。リングケーキの金型のようなステンレスのしゃぶしゃぶ鍋のなかではそろそろ湯が煮立つ頃で、底に沈んだ出汁昆布がプツプツと泡をまとっている。彼女は頃合いを見ながら薄く切った牛肉を花びら状に並べた平皿を手元に引き寄せた。バッファローマンはすり鉢で白ゴマをすりつぶしている。ゴリゴリと動く盛り上がった上腕二頭筋が、上等な仕上がりになることを請け負っている。とくに何か祝い事があったわけでもないが、シンプルで素材の良さが如実に分かるこの料理がバッファローマンは好きだ。
その席で、先ほどの出来事をバッファローマンが彼女に伝えると「お腹がおっきいなら、一階の人だと思う」と答えがかえってきた。
「知り合いか?」
「こないだマンション前の道でその人が鍵を落としてて、かがむの大変そうだからかわりに拾ってあげたの。それでそのあとエントランスのなかまで歩きながら話したから」
「ふうん」
「それでね、その時『ご主人、背が高いですね』って言われたの」女性は二人が並んで歩いているところを幾度か見かけたことがあったらしい。「バッファのこと、ただ『背が高い』ってすごく大ざっぱな表現だよね」
彼女は思い出し笑いをしながら、赤身に美しく白いサシの入った牛肉を長い菜箸ですくい上げた。
「いれるよー」
肉は煮え立つ湯のなかへ差し入れられた瞬間、さっと色を変え、箸の動きに従ってそろりとたゆたった。
その様子を眺めながら、バッファローマンは卓上のポン酢を手元に引き寄せた。だし醤油を絞りたての柑橘系果汁で割った自家製だ。それをとんすいに注ぎ、熱々で柔らかな肉がやってくるのを大人しく待っている。その様子はまるで、腹を減らした超大型犬のようだ。肉にやや赤い色が残った絶妙の段階で彼女はさっと箸を引き上げ、バッファローマンのとんすいにそっと落とした。
「はいどうぞ、召し上がれー」
肉がポン酢に浸かったのもつかの間、バッファローマンはすぐにそれを箸ですくい上げ、口に運んだ。二度か三度の咀嚼のあとで、大きな喉仏がゴクンと動いて、肉はあっという間に飲み下された。それなりに値の張る国産牛のロース肉なのだが、この超人にとっては小さな紙きれみたいなものだ。すぐさま次の肉が湯から引き上げられ、同じように彼の器におとされる。そんな息のあったやりとりがそんな風に数度続いたあと、バッファローマンは「そろそろおまえも食えよ」と告げて、ビールのグラスをかたむけた。
鍋の表面に浮いた牛肉のアクを小さな玉じゃくしですくっている彼女の姿を眺めつつ、バッファローマンはいいようのない充足感を覚えていた。
温かな湯気と美味、気に入った相手と過ごすくつろぎの時間。昔だったらこんな時間を退屈だと感じたかもしれない。
アイドル超人として世界を股にかけていた時代はもちろんのこと、それよりもっと前の、悪魔超人として血気盛んな頃の自分が、今のこの様子を見たら、どんな表情を浮かべるだろうか。
生きとし生けるものはみな歳をとる。長く生きて年老いたものは自分が歩んできた道をやがては若いものに譲る。
それは簡潔にいえば後がつかえているからだ。自分もかつてはそんな風に道を譲られ、その時に様々なものを受け渡された。
帰りしなに会ったあの妊婦もいつかそうやって腹のなかの子に自分が築き上げ、蓄えてきたものを譲り渡すのだろう。
そんな巨牛の物思いなど知るよしもなく、彼女は鍋から引き上げた肉のひとひらを口に運ぶところだった。タレは先ほどバッファローマンの擦ったゴマに生醤油を足したもの。香ばしくしっとりとしたすりゴマに、肉をちょんとつける。
食べるたびにひとつまみずつ上からゴマを振ってもいいのだが、信玄餅のきな粉のようにねっとりとなったゴマを箸ですくって食べるのも楽しいのだ。
(次もすりゴマで食べて、その後でポン酢にしようかな)
そんなやくたいもないことに頭を悩ませている彼女に、バッファローマンはふと呼びかけた。
「――なあ、奥さん」
「ひぇっ!?」
すっとんきょうな声音に相手は苦笑いを浮かべた。
「なんだよ、そのおかしな返事」
「いきなり変な呼び方したから」
いまだかつてこの超人からそんな風に呼ばれたことなどない。呼ばれることを想像したことはあるが。
「おまえ、オレの正真正銘の奥さんになる気はあるか?」
『正真正銘の奥さん』とは戸籍上の妻、もっと正確にいえば法律上の婚姻関係を結んで、彼の配偶者になるということだろうか――ゴクリ、と自分の喉が唾をのみ込む音が聞こえた。
「ええと、勘違いしてないか確認してもいいかな?それって要するに入籍……しないかってこと?」
「まあ、挙げたきゃ式もやっていいが」
「何かあった?」
「何でだ?」
何故、と問うのか。それは、つとめて気にかけないようしていた事だった。バッファローマンのようなタイプは、そういう類の話を煩わしく感じるだろうと思っていたから。現在(いま)与えらていれるものだけで満足し、自分からはあえて何も求めないようにしてきたつもりだ。
心の奥底で「そういう日が来たらいいな」とは思ってはいた。
――だけど。
「ちょっと考えさせてもらってもいいかな」
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