山笑う(ザ・魔雲天夢小説)
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二人、いや彼女だけが傍らのベンチに腰を下ろした。魔雲天は地面に直接腰を下ろした。彼はベンチが自分の体重を支え切れないと判断したのだろう。
魔雲天が黒帯に挟んであった手拭いで流れ出る汗を拭うあいだ、彼女は手提げから二本のペットボトルを取り出した。
仕事が終わったあとにコンビニで買ったばかりのものだ。まだ表面に汗をかいていて、充分に冷たいだろう。水滴を軽くハンカチで拭って相手に手渡した。間近で見たその手は、岩石を荒く削ったようにゴツゴツと無骨な佇まいで、彼の人となりを形にしたようだった。
「どうぞ」
「ありがとう」
二人は間をおかずペットボトルを開けた。
ザ・魔雲天は「いただきます」と彼女に向かってペットボトルを目の高さまで上げてからそれに口をつけた。まるで酒席で「どうぞ一献」と酒を注がれたような、奇妙に愛らしさが漂う姿だった。
彼女もスポーツドリンクを口に含む。すっかり忘れていたが夜のあいだ立ち通しで仕事をしてきたのだ。疲れた身体に冷たく甘いドリンクがしみこむ快さに「ああ、美味しい」と、思わず声が出た。
その言葉に魔雲天がうなずいた。
「うん。体を動かしたあとの一杯は最高だ」
「何だかお酒を呑んでるみたいですね」
「そうだろうか」
「はい」
彼女の見立てどおり魔雲天は無口なタイプだった。そんなふうにこちらが話しかけた時にだけ、要点をおさえたごく短い返事が返ってきた。
ペットボトルがすっかり空になると、ザ・魔雲天は胴着のポケットから小さなガマ口を取り出して言った。
「飲み物をありがとう。幾らだろうか」
「いいえそんな。私が勝手にお誘いしたんですから、お代は結構です」
慌てて首をふる彼女に魔雲天は小さく眉根を寄せた。
「理由もなく他人に奢ってもらう趣味はない」
「本当に、大丈夫なんです。それに代金をいただいてしまったらもう買ってこられなくなります」
「……それじゃあ今日は有難くご馳走になろう」
無下に断るのも不粋だと思ったのか、魔雲天は肩をすくめてガマ口をもとあった場所に納めた。
身長160センチに満たない彼女から見た魔雲天は、いまにも山肌から転がり落ちようとする岩石のような迫力がある。そんな相手が自分に謝意を表している様子は、なんだか民話やSFの世界のような非現実な感じがした。
「ひとつ、聞いても構わないだろうか」
「ええ、どうぞ」
「オレの名前を知っているということはお前はオレがどんな超人なのか知っているのだろう?なのに何故こんな風に声をかけた?」
魔雲天は問いかける自分の声音に少しトゲが含まれていることを自覚していた。
彼は柔道の精神性や体系にひかれ、自らのファイトスタイルに取り入れている。そして人間がそれを作り出したものだということも承知している。だがしかし、人間と積極的に交流したいとは思っていない。
自分のような岩石超人と人間では、肉体の性質はもとより、ライフスタイルから価値観まで、全てにおいて違いすぎているのだ。そのことを思い知らされるような経験もたくさんした。
だからお互いに不快な思いをしないよう、あえて人間とは距離をおくようにしていたのに、彼女はお構いなしでそれを飛び越えてきた。
きっと、このささくれみたいな小さな苛立ちはそのせいだ。
魔雲天の問いに彼女は窮した。「どうして」、そんなことは考えもしなかった。強いて言うならいつもすれ違う不思議な相手のことをもう少し知りたくなった――それだけだ。
その時、彼女は魔雲天の眼窩の奥の暗がりにポツンと浮かぶ、紅い瞳に初めて気がついた。
まるで峻厳な岩山の奥底で煮えたぎる溶岩のようで、それは少しだけ彼女の背中をヒヤリとさせた。
修練にいそしんでいるあいだは朝霧のたなびく山の姿であったのが、険のある眼差しの今は、黒雲を背負った山に変わっていた。
「……話をしてみたかったんです。毎朝トレーニングを頑張っているから、凄いなって思って」
「修練など誰でもする」
「それからあなたの姿は大きな入道雲みたいで、見ているといつも元気が出たんです……でも何だか気を悪くさせてしまったみたいでごめんなさい。明日からはもうトレーニングの邪魔はしませんから」
彼女は立ち上がると魔雲天に向かってペコリとお辞儀をし、肩を落として去っていった。
その瞬間、魔雲天はいわれなく小さな生き物をいじめてしまったような罪悪感をおぼえ、腹のなかにしこりのような、おさまりの悪いものを感じていた。
翌朝。彼女はコンビニの夜勤を終えたあと、よほど公園以外のルートで帰ろうかと考えた。だけどそれをしてしまったら、もう二度とあの超人と話す勇気は出せないだろう。だから気後れする自分をはげまして、公園に足を踏み入れた。もしかしたら避けられているかも、それを恐れていたが、いつもの場所で白い胴着が目に入ったのでホッとした。
そうして重い足を進め、彼の前で立ち止まる。
「おはようございます」
とたんに、昨日までは全く感じることのなかった畏怖がこみ上げて、思わずつばを飲みこんだ。もしかすると、彼とリングで向き合ったらこんな気分になるのかもしれない。
だけど、魔雲天からは何事もなかったかのように、昨日と同じあいさつが返ってきた。
「おはよう」
よかった、これで元通り。そのことに安堵し、彼女が会釈して立ち去ろうとした瞬間、魔雲天はその背に声をかけた。
「今朝も暑いな」
驚きで飛びあがりそうになりながら、彼女はあわてて振り返った。
「あ、暑いですね」
「冷たい飲み物を持っているんだが、どうだろうか?」
てっきり嫌われたと思っていたのに。気がつくと目の前がじんわり滲んでいた。
「はい、ぜひ!」
二人は昨日と同じように腰を落ち着け、今度は彼女が魔雲天からペットボトルを受け取った。
魔雲天は飲み物に口をつけるとボソリとつぶやいた。
「温くなってしまった」
「でも、美味しいです」
「……人づきあいは得意じゃないんだ」
「実はわたしも苦手で、それで夜中のバイトしてるんです」
「ふむ」
「声をかけてくれてうれしかったです。魔雲天さんは大きくて、強くて……優しいんですね」
いかつい岩石超人にそんな言葉をかけてくる者など滅多にいない。若い女性ならばなおのこと。どんな顔をしたらいいのかさっぱり分からず、気恥ずかしくなった魔雲天は尖った頭をガリガリとかいた。
「変わってるな、お前は」
「普通だと思います。変わってるのは皆のほうです」
根拠のほどは定かではないが、自信に満ちた物言いに魔雲天はつい声を上げて笑った。
腹の底に響くような大きなその声につられ、彼女も笑いだす。
こうしてついに二人は始まりの朝を迎えたのだった。
end
(初出:「夢みる頃を過ぎても」 2022.09)
魔雲天が黒帯に挟んであった手拭いで流れ出る汗を拭うあいだ、彼女は手提げから二本のペットボトルを取り出した。
仕事が終わったあとにコンビニで買ったばかりのものだ。まだ表面に汗をかいていて、充分に冷たいだろう。水滴を軽くハンカチで拭って相手に手渡した。間近で見たその手は、岩石を荒く削ったようにゴツゴツと無骨な佇まいで、彼の人となりを形にしたようだった。
「どうぞ」
「ありがとう」
二人は間をおかずペットボトルを開けた。
ザ・魔雲天は「いただきます」と彼女に向かってペットボトルを目の高さまで上げてからそれに口をつけた。まるで酒席で「どうぞ一献」と酒を注がれたような、奇妙に愛らしさが漂う姿だった。
彼女もスポーツドリンクを口に含む。すっかり忘れていたが夜のあいだ立ち通しで仕事をしてきたのだ。疲れた身体に冷たく甘いドリンクがしみこむ快さに「ああ、美味しい」と、思わず声が出た。
その言葉に魔雲天がうなずいた。
「うん。体を動かしたあとの一杯は最高だ」
「何だかお酒を呑んでるみたいですね」
「そうだろうか」
「はい」
彼女の見立てどおり魔雲天は無口なタイプだった。そんなふうにこちらが話しかけた時にだけ、要点をおさえたごく短い返事が返ってきた。
ペットボトルがすっかり空になると、ザ・魔雲天は胴着のポケットから小さなガマ口を取り出して言った。
「飲み物をありがとう。幾らだろうか」
「いいえそんな。私が勝手にお誘いしたんですから、お代は結構です」
慌てて首をふる彼女に魔雲天は小さく眉根を寄せた。
「理由もなく他人に奢ってもらう趣味はない」
「本当に、大丈夫なんです。それに代金をいただいてしまったらもう買ってこられなくなります」
「……それじゃあ今日は有難くご馳走になろう」
無下に断るのも不粋だと思ったのか、魔雲天は肩をすくめてガマ口をもとあった場所に納めた。
身長160センチに満たない彼女から見た魔雲天は、いまにも山肌から転がり落ちようとする岩石のような迫力がある。そんな相手が自分に謝意を表している様子は、なんだか民話やSFの世界のような非現実な感じがした。
「ひとつ、聞いても構わないだろうか」
「ええ、どうぞ」
「オレの名前を知っているということはお前はオレがどんな超人なのか知っているのだろう?なのに何故こんな風に声をかけた?」
魔雲天は問いかける自分の声音に少しトゲが含まれていることを自覚していた。
彼は柔道の精神性や体系にひかれ、自らのファイトスタイルに取り入れている。そして人間がそれを作り出したものだということも承知している。だがしかし、人間と積極的に交流したいとは思っていない。
自分のような岩石超人と人間では、肉体の性質はもとより、ライフスタイルから価値観まで、全てにおいて違いすぎているのだ。そのことを思い知らされるような経験もたくさんした。
だからお互いに不快な思いをしないよう、あえて人間とは距離をおくようにしていたのに、彼女はお構いなしでそれを飛び越えてきた。
きっと、このささくれみたいな小さな苛立ちはそのせいだ。
魔雲天の問いに彼女は窮した。「どうして」、そんなことは考えもしなかった。強いて言うならいつもすれ違う不思議な相手のことをもう少し知りたくなった――それだけだ。
その時、彼女は魔雲天の眼窩の奥の暗がりにポツンと浮かぶ、紅い瞳に初めて気がついた。
まるで峻厳な岩山の奥底で煮えたぎる溶岩のようで、それは少しだけ彼女の背中をヒヤリとさせた。
修練にいそしんでいるあいだは朝霧のたなびく山の姿であったのが、険のある眼差しの今は、黒雲を背負った山に変わっていた。
「……話をしてみたかったんです。毎朝トレーニングを頑張っているから、凄いなって思って」
「修練など誰でもする」
「それからあなたの姿は大きな入道雲みたいで、見ているといつも元気が出たんです……でも何だか気を悪くさせてしまったみたいでごめんなさい。明日からはもうトレーニングの邪魔はしませんから」
彼女は立ち上がると魔雲天に向かってペコリとお辞儀をし、肩を落として去っていった。
その瞬間、魔雲天はいわれなく小さな生き物をいじめてしまったような罪悪感をおぼえ、腹のなかにしこりのような、おさまりの悪いものを感じていた。
翌朝。彼女はコンビニの夜勤を終えたあと、よほど公園以外のルートで帰ろうかと考えた。だけどそれをしてしまったら、もう二度とあの超人と話す勇気は出せないだろう。だから気後れする自分をはげまして、公園に足を踏み入れた。もしかしたら避けられているかも、それを恐れていたが、いつもの場所で白い胴着が目に入ったのでホッとした。
そうして重い足を進め、彼の前で立ち止まる。
「おはようございます」
とたんに、昨日までは全く感じることのなかった畏怖がこみ上げて、思わずつばを飲みこんだ。もしかすると、彼とリングで向き合ったらこんな気分になるのかもしれない。
だけど、魔雲天からは何事もなかったかのように、昨日と同じあいさつが返ってきた。
「おはよう」
よかった、これで元通り。そのことに安堵し、彼女が会釈して立ち去ろうとした瞬間、魔雲天はその背に声をかけた。
「今朝も暑いな」
驚きで飛びあがりそうになりながら、彼女はあわてて振り返った。
「あ、暑いですね」
「冷たい飲み物を持っているんだが、どうだろうか?」
てっきり嫌われたと思っていたのに。気がつくと目の前がじんわり滲んでいた。
「はい、ぜひ!」
二人は昨日と同じように腰を落ち着け、今度は彼女が魔雲天からペットボトルを受け取った。
魔雲天は飲み物に口をつけるとボソリとつぶやいた。
「温くなってしまった」
「でも、美味しいです」
「……人づきあいは得意じゃないんだ」
「実はわたしも苦手で、それで夜中のバイトしてるんです」
「ふむ」
「声をかけてくれてうれしかったです。魔雲天さんは大きくて、強くて……優しいんですね」
いかつい岩石超人にそんな言葉をかけてくる者など滅多にいない。若い女性ならばなおのこと。どんな顔をしたらいいのかさっぱり分からず、気恥ずかしくなった魔雲天は尖った頭をガリガリとかいた。
「変わってるな、お前は」
「普通だと思います。変わってるのは皆のほうです」
根拠のほどは定かではないが、自信に満ちた物言いに魔雲天はつい声を上げて笑った。
腹の底に響くような大きなその声につられ、彼女も笑いだす。
こうしてついに二人は始まりの朝を迎えたのだった。
end
(初出:「夢みる頃を過ぎても」 2022.09)
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