海神(わだつみ)
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わだつみ
完樹と呼ばれた男児は担架で救急車に運ばれ、近隣の病院へ搬送された。父親の林田直樹(はやしだなおき)も付き添いで救急車に同乗していった。二人の名前は目の前の黒いスーツの男からたったいま告げられた。
バッファローマン、彼女、そしてくだんの男の3人は、彼女が救急車を呼んでもらうよう頼みにいった、まさにそのホテルのなかの一室にいた。
このホテルは「キー・ラーゴ」という名前らしい。テーブルにおかれた男の名刺にそう記されている。
そこには
ホテル キー・ラーゴ
副支配人 相良康介
とあった。
救急車と林田親子がその場を去ったあと、相良は二人をホテルへと案内した。濡れた衣服を洗って、乾くまで部屋を用意してくれるという。宿泊客でもない自分達をなぜそんな風にもてなしてくれるのか少し奇妙な気がしたが、連れられていった部屋で、委細を聞いて得心がいった。
濡れた衣服を乾かすあいだ、バッファローマンはホテルのシーツを腰に巻いていた。一番大きなサイズのバスタオルでさえ間に合わず、不可避的な選択に相良はとても恐縮していたが、それを彼は
「見ず知らずのオレにここまでしてもらって、こちらのほうが恐縮だ」とやんわりと制した。
話をもとに戻す。
林田直樹、つまり父親の方は、地元の高校を卒業してすぐにキー・ラーゴに就職した。事務とフロントを兼任している。相良の方は高校卒業後、四年生大学に進学し、卒業後に他のホテルで何年か修行してからここに戻ってきた。キー・ラーゴの支配人は彼の父親で、要するに相良は次期支配人なのだった。
二人は小学校時代からの親友で、もっといえば二人の父親たちもまた親友同士であった。今のホテルの前身である日本旅館で同じような関係で働いていたそうだ。
手短にそこまで話すと、失礼します、と言って相良は自分の前に置かれたティーカップを持ち上げて、少し冷めかけた紅茶をあおるように飲んだ。
カップをソーサーに戻しながら少し照れたように笑う。
「いや、ずっと気が動転していましたので喉が渇いてしまって――」
すすめられて二人も自分たちの前に置かれたカップに手をのばした。
希望を聞かれて、選んだコーヒーにはウェッジウッドのセイラーズが使われていて、この海辺のホテルの雰囲気によくあっていた。隣の小さな皿にはプチフールが1つ、ちょこんと載っている。飾りのカットフルーツはビワのコンポート。フルーツタルトのようだ。
「よろしければ、タルトもぜひ召し上がってみてください。一応、ホテルメイドでして、毎日ここで作っています」
すすめられて、彼女はその菓子の一角を、ピンのように細いフォークで切り分けて口に運んだ。タルト生地はサクサクとして硬すぎずホロリと崩れ、バターの豊かな風味がした。なかのカスタードクリームは濃厚でふわりと洋酒の香りがする。続けて上に載ったビワを口にすると、小さいのにビワ独特の食感がしっかり残っていて、とても瑞々しかった。
おいしい、と彼女が思わず声にだすと相良は相好を崩した。
「お口にあったようでなによりです。パティシエが、手前味噌ですが、い腕を持っています。お陰でブライダルの評判もなかなかでして」
バッファローマンは食うか?とたずねて、自分の分の皿を彼女に差し出した。
嬉しそうにうなずいて、彼女は二皿目にフォークを伸ばす。それを横目で見やりながら
「小さいときからの親友の息子があんな目になったんじゃ、あのオヤジさんだけじゃなく、アンタも肝を冷やしたろう」とバッファローマンは言った。
相手は大きく頷いていらえを返した。
「この時期は、もう波がとても高くなっていて、しかもあのあたりは離岸流があります。大人でも危ないんです。本当に、お二人がいなかったら、完樹はどうなっていたか……考えるとゾッとします。
お話するのが遅れましたが、実は完樹は私の甥にあたります。直樹は、私の妹のひかりと結婚したんです。ただ、妹は三年前に病死してしまって。なので今は直樹が一人で完樹を育てているんです」
「オヤジさんが目を話したすきにフラッと遊びに出ちまったのか」
「図式としてはそうなるんでしょうが……今日は直樹のほうは非番で、たまたまここに二人で立ち寄ったんです。そうしたら急に彼あての用事がはいってきて。完樹には事務所で待っているように伝えてそこを離れたらしく。気がついたら姿が見えないので探していたところ、お隣の女性がフロントに」
話の矛先が自分に向けられたので彼女は頭をさげ、申し遅れました、と名を名乗った。
「それで、慌てて砂浜に飛んででたわけです。ただ――普段の完樹はとても利発で聞き分けがよくて。今の時期の海が危険だと言うこともよく理解してるはずなんです。だのに何だってあんなところで……」
言葉をとぎらせて相良は首をひねった。
「理由は判らないが、最初に砂浜からあの子の姿を見つけたとき、何かを探してるように見えたな、オレには」
「何の理由があったにせよ、バッファローマンさまがあの場所にいらっしゃらなければあの子の命はなかったでしょう。
――本当に、ありがとうございました」
相良は立ち上がって、甥の命の救い主である双角巨躯の超人に深々と頭をさげた。バッファローマンは慌てて腰を宙に浮かせる。
「よしてくれ。オレはたまたまあの場にいて、当たり前のことをしただけだ」
「いいえ。あの突堤のあたりは潮の流れがとても早くて、先ほども申し上げたように離岸流が通っているんです。バッファローマンさまのようなウエイトのある方でなければ、助けに行った人間も危なかったと思います。……こんなことを言うのは自分でも身の毛がよだちますが」
海の怖さ、恐ろしさはそこに住む人たちが一番よく知っている。ことにこの辺りの海水浴場は外海のすぐ近くにあるため、毎夏、水の事故がいくつも起きている。
会話が途切れたちょうどその時、見計らったかのように相良の胸ポケットから携帯電話の呼び出し音が鳴った。失礼します、と言って二人から数歩離れて電話に出る。
相手はどうやら林田直樹のようだった。そうか、よかった、と明るい声で相良は返事をしている。それから電話の向こうに対して数度頷くと、うん、僕もそのつもりだったと話す。それから、幾らもしないうちに、じゃ、あとでと言って通話は終了した。
二人の元に戻ってくると、お話の途中ですみませんでした、と言って再び自分の椅子に腰かけた。
「いまの電話、病院の直樹からで。完樹は意識もハッキリしていて、呼吸も問題ないそうです」
「わぁ!よかった!!」
「よかったな」
「ただ、多少水を飲んでいて、肺への影響をみるためにも、今夜一晩入院が必要だそうで。完全看護だそうですが直樹はもう少し向こうで様子を見てからこちらに戻るとのことでした。バッファローマンさまに、すぐにお礼を申し上げるべきなのに、遅くなって申し訳ありません、と申していました」
「いや、さっきから言ってるが、そんな大層なことをしたわけじゃないから、本当に」
「そんなとんでもない。それでですね、これは直樹とも話しまして、私たちからの提案なのですが――もしお二人のご都合がよろしければ、今日はこちらにお泊まりになられませんか?」
完樹と呼ばれた男児は担架で救急車に運ばれ、近隣の病院へ搬送された。父親の林田直樹(はやしだなおき)も付き添いで救急車に同乗していった。二人の名前は目の前の黒いスーツの男からたったいま告げられた。
バッファローマン、彼女、そしてくだんの男の3人は、彼女が救急車を呼んでもらうよう頼みにいった、まさにそのホテルのなかの一室にいた。
このホテルは「キー・ラーゴ」という名前らしい。テーブルにおかれた男の名刺にそう記されている。
そこには
ホテル キー・ラーゴ
副支配人 相良康介
とあった。
救急車と林田親子がその場を去ったあと、相良は二人をホテルへと案内した。濡れた衣服を洗って、乾くまで部屋を用意してくれるという。宿泊客でもない自分達をなぜそんな風にもてなしてくれるのか少し奇妙な気がしたが、連れられていった部屋で、委細を聞いて得心がいった。
濡れた衣服を乾かすあいだ、バッファローマンはホテルのシーツを腰に巻いていた。一番大きなサイズのバスタオルでさえ間に合わず、不可避的な選択に相良はとても恐縮していたが、それを彼は
「見ず知らずのオレにここまでしてもらって、こちらのほうが恐縮だ」とやんわりと制した。
話をもとに戻す。
林田直樹、つまり父親の方は、地元の高校を卒業してすぐにキー・ラーゴに就職した。事務とフロントを兼任している。相良の方は高校卒業後、四年生大学に進学し、卒業後に他のホテルで何年か修行してからここに戻ってきた。キー・ラーゴの支配人は彼の父親で、要するに相良は次期支配人なのだった。
二人は小学校時代からの親友で、もっといえば二人の父親たちもまた親友同士であった。今のホテルの前身である日本旅館で同じような関係で働いていたそうだ。
手短にそこまで話すと、失礼します、と言って相良は自分の前に置かれたティーカップを持ち上げて、少し冷めかけた紅茶をあおるように飲んだ。
カップをソーサーに戻しながら少し照れたように笑う。
「いや、ずっと気が動転していましたので喉が渇いてしまって――」
すすめられて二人も自分たちの前に置かれたカップに手をのばした。
希望を聞かれて、選んだコーヒーにはウェッジウッドのセイラーズが使われていて、この海辺のホテルの雰囲気によくあっていた。隣の小さな皿にはプチフールが1つ、ちょこんと載っている。飾りのカットフルーツはビワのコンポート。フルーツタルトのようだ。
「よろしければ、タルトもぜひ召し上がってみてください。一応、ホテルメイドでして、毎日ここで作っています」
すすめられて、彼女はその菓子の一角を、ピンのように細いフォークで切り分けて口に運んだ。タルト生地はサクサクとして硬すぎずホロリと崩れ、バターの豊かな風味がした。なかのカスタードクリームは濃厚でふわりと洋酒の香りがする。続けて上に載ったビワを口にすると、小さいのにビワ独特の食感がしっかり残っていて、とても瑞々しかった。
おいしい、と彼女が思わず声にだすと相良は相好を崩した。
「お口にあったようでなによりです。パティシエが、手前味噌ですが、い腕を持っています。お陰でブライダルの評判もなかなかでして」
バッファローマンは食うか?とたずねて、自分の分の皿を彼女に差し出した。
嬉しそうにうなずいて、彼女は二皿目にフォークを伸ばす。それを横目で見やりながら
「小さいときからの親友の息子があんな目になったんじゃ、あのオヤジさんだけじゃなく、アンタも肝を冷やしたろう」とバッファローマンは言った。
相手は大きく頷いていらえを返した。
「この時期は、もう波がとても高くなっていて、しかもあのあたりは離岸流があります。大人でも危ないんです。本当に、お二人がいなかったら、完樹はどうなっていたか……考えるとゾッとします。
お話するのが遅れましたが、実は完樹は私の甥にあたります。直樹は、私の妹のひかりと結婚したんです。ただ、妹は三年前に病死してしまって。なので今は直樹が一人で完樹を育てているんです」
「オヤジさんが目を話したすきにフラッと遊びに出ちまったのか」
「図式としてはそうなるんでしょうが……今日は直樹のほうは非番で、たまたまここに二人で立ち寄ったんです。そうしたら急に彼あての用事がはいってきて。完樹には事務所で待っているように伝えてそこを離れたらしく。気がついたら姿が見えないので探していたところ、お隣の女性がフロントに」
話の矛先が自分に向けられたので彼女は頭をさげ、申し遅れました、と名を名乗った。
「それで、慌てて砂浜に飛んででたわけです。ただ――普段の完樹はとても利発で聞き分けがよくて。今の時期の海が危険だと言うこともよく理解してるはずなんです。だのに何だってあんなところで……」
言葉をとぎらせて相良は首をひねった。
「理由は判らないが、最初に砂浜からあの子の姿を見つけたとき、何かを探してるように見えたな、オレには」
「何の理由があったにせよ、バッファローマンさまがあの場所にいらっしゃらなければあの子の命はなかったでしょう。
――本当に、ありがとうございました」
相良は立ち上がって、甥の命の救い主である双角巨躯の超人に深々と頭をさげた。バッファローマンは慌てて腰を宙に浮かせる。
「よしてくれ。オレはたまたまあの場にいて、当たり前のことをしただけだ」
「いいえ。あの突堤のあたりは潮の流れがとても早くて、先ほども申し上げたように離岸流が通っているんです。バッファローマンさまのようなウエイトのある方でなければ、助けに行った人間も危なかったと思います。……こんなことを言うのは自分でも身の毛がよだちますが」
海の怖さ、恐ろしさはそこに住む人たちが一番よく知っている。ことにこの辺りの海水浴場は外海のすぐ近くにあるため、毎夏、水の事故がいくつも起きている。
会話が途切れたちょうどその時、見計らったかのように相良の胸ポケットから携帯電話の呼び出し音が鳴った。失礼します、と言って二人から数歩離れて電話に出る。
相手はどうやら林田直樹のようだった。そうか、よかった、と明るい声で相良は返事をしている。それから電話の向こうに対して数度頷くと、うん、僕もそのつもりだったと話す。それから、幾らもしないうちに、じゃ、あとでと言って通話は終了した。
二人の元に戻ってくると、お話の途中ですみませんでした、と言って再び自分の椅子に腰かけた。
「いまの電話、病院の直樹からで。完樹は意識もハッキリしていて、呼吸も問題ないそうです」
「わぁ!よかった!!」
「よかったな」
「ただ、多少水を飲んでいて、肺への影響をみるためにも、今夜一晩入院が必要だそうで。完全看護だそうですが直樹はもう少し向こうで様子を見てからこちらに戻るとのことでした。バッファローマンさまに、すぐにお礼を申し上げるべきなのに、遅くなって申し訳ありません、と申していました」
「いや、さっきから言ってるが、そんな大層なことをしたわけじゃないから、本当に」
「そんなとんでもない。それでですね、これは直樹とも話しまして、私たちからの提案なのですが――もしお二人のご都合がよろしければ、今日はこちらにお泊まりになられませんか?」