性悪




※days84/8巻までの知識で書いたものです








 買ったばかりのきんと冷えたアイスバー。普段の楽であれば溶けてしまうよりも先に胃に収めるのだが、ふいに、あ、と魔がさした。コンビニの店内と外との温度差に目を細め、日陰から出ようとしないスラーのすぐそばまで自転車を乗り付ける。スラーはいつものように荷台に腰を下ろし、よほど暑いのか、首元を暑苦しく覆う襟を指先で寛げていた。
「……ん?」
 楽は眠そうな退屈そうないつもの顔でスラーの口元にアイスを押し付けた。スラーは呆気に取られた表情でアイスと無言を保つ楽とを交互に見遣り、困ったように微かに笑った。
「ひとくちくれるのかい?」
 なおも無言でアイスを押し付けてくる楽と、表面から溶けはじめたアイスバー。スラーがいくら顔を逸らしても頑なにアイスを押し付けられるため、くちびるの端が白く汚れていく。
「……はいはい」
 めずらしいこともあるものだ、あの楽が最初のひとくちを他人に譲るなんて。楽の突拍子もない行動について深く考えるよりも、はやく帰りたい、という気持ちがゆうにまさった。スラーは押し付けられたアイスの先端をくちに含み、バニラのまったりとした甘さをひとくち分だけ舐め取った。甘くて冷たい。アイスを食べるのなんていつぶりだろう。手土産にと買っていくことはあったが、スラー自身が手に取ることは滅多にない。スラーはくちの端についていたバニラを舐め取り、もう満足、と目で訴えた。けれど楽は相変わらずの表情で、なおもアイスを差し出している。
「ん」
「ありがとう、美味しかった」
「ん」
 遠慮がちに顔を背けるスラーをじいと見ながら、楽は角がじわじわまるくなっていくアイスバーをしつこくしつこく押し付ける。連日忙しそうにしていて、全然相手にしてくれないスラーに悪戯を仕掛けたくなったのだ。手持ちのゲームはクリアしてしまったし、目ぼしいウェブ漫画も無料分は読み終わった。ただ暑いだけの夏なんてこれっぽっちも面白くない。楽は垂れたアイスが自身の手を汚しているのを気にも止めず、スラーが諦めるのを辛抱強く待った。形を保てなくなりたらりと溶けたバニラの雫が重力に抗えなくなった頃、ようやく、そして案の定、スラーが先に根負けした。楽の手からバニラが滴り落ちれば、自ずとスラーの服についていた。それを避けたかったのかもしれない。年中返り血で汚れているし、洗い替えなどいくらでもある。それどころか白いサマーニットにバニラがついたところで誰も気付かない。可笑しな話だ。血はよくて砂糖は嫌だというのは一体どういう了見か。常人とはずれた感性を持っているスラーの考えていることはいまいちよく分からない。分からないままもう十年近くの付き合いになる。
 表面がやわく溶けたバニラアイスを何に見立て、どういう意図をもって悪戯を仕掛けているのかなんて言うまでもない。しかしスラーはどうだろう。さすがに勘付いたかもしれないし、単なる気まぐれという形で流されている可能性だってある。何せスラーは変なところで鈍感で、故にこそ無責任にひとを煽るのだ。両手の指では数えきれないほどに前科もある。
 スラーがしぶしぶといった様子で目を伏せ、とろけて甘味の増したバニラを舌で掬い上げた。表面のやわくなったバニラをスラーが一通りくちに含んだところで、薄く編まれたニットで隠された喉元が上下した。スラーは滅多に人前で食事を摂らない。そのためその喉仏が頬や指の皮膚よりも白いこと、控えめに上下する様子、それらの艶やかさを見るシチュエーションはどうしたって限られる。けれど、楽は知っている。知っているから、たまらなくなってしまう。
 アイスの表層、溶けた部分が舐め取られ、まだ形を保っている凍った芯が顕になった。伏せられていたスラーの双眸が楽を捉え、すっくりと探りを入れられる。コンビニの店内で汗がとぶまで冷やしたはずの楽のからだはコンクリートの照り返しと内側で燻る欲とでじりじり熱を持ちはじめていた。生唾を飲み下し、ゆっくりと瞬きをする。集中しすぎると瞬きを忘れる癖のある楽の瞳はすっかり乾ききっていた。日陰にいても酷暑を感じる程度の気温である。自転車のカゴに放り込まれたカップアイスは、ほとんど液体になっている。
 楽の顔を覗き込んだまま、スラーは表情を変えることなく殊更ゆっくりとアイスを咥え込んだ。くちに入る分だけ舐め上げたと思えば、根元に赤い舌先が這わされる。

 こんなに涼しい顔をして、夏でもよっぽど汗をかかないくせに。
 その咥内がうそみたいに熱いこと、どこか拙い舌の動き、情欲を引き摺り出せば微かに湿る前髪を、知りすぎた。

 どうせ強請っても、また今度、と躱されるのだ。前回したのはいつ頃だったか。即座に思い出せない程度には日が経っているのだし、これくらいの悪戯は赦されて然るべきである。とはいえ相手がスラーである以上、楽の欲をあからさまに煽る仕草が意図的であるのか否かは掴めない。楽の下心を察した上でわざと色をちらつかせてくるのであれば悪魔の所業だ。とはいえそんな心算が一切ない可能性だってある。いずれにせよ、正しく悪魔に違いない。そんな悪魔に、つい出来心で悪戯を仕掛けてしまった時点で負けている。楽はもうとっくにその気になっているのに、アイスをどうにか食べ終わり、木の棒にやんわり歯を立てたスラーは何と言うだろう。
「あ、アタリだって」
「…………つーことは?」
 スラーは足を組み直し、悠長に頬杖をつきながら含み笑いをふっとこぼした。
「また今度、交換しに来よう」
「あ〜〜〜〜〜〜?」
 楽はアタリと書かれた木の棒を受け取り、不服を示すように歯を立てた。悪戯を仕掛けたはずなのに、しっかり弄ばれたというわけだ。不承不精ペダルを踏み込み、可笑そうに身体を揺らすスラーを横目で見る。

「俺、そろそろ拗ねてもいいっすか」
「怒らせるような真似をした覚えはないけどな」
「あーはいはいそっすねー」
 どこまでが戯れでどこからが本音かわからない。つくづくたちの悪い男だと思う。かしましく喚く蝉と焼けたコンクリートのにおいを煩わしく感じながら、楽はすんと鼻を鳴らした。
「楽」
「あーなんすか」
「明日の夜、何か予定ある?」
 特に変わり映えのしない平坦な声色で、静かにスラーがつぶやいた。風に流されそうになる声をどうにか捉え、言葉の意味を手繰り寄せる。ややあって、声にならない声が楽の喉を鳴らすと同時に、スラーがのくちからさも愉快げな笑いがこぼれた。

 どちらに転んでも、つくづくたちの悪い男である。











 _________________
 初出:2022年某日
 飼い犬を弄ぶ食えない飼い主はなんぼあってもええですからね