晩夏のしらべ




※days84/8巻までの知識で書いたものなのでほとんどファンタジーです










 見覚えのある景色に思わず目を細めた。古い家屋が軒を連ねる住宅街は、変わり映えのない風景のまま、月日が経った分だけ歳をとっていた。生活道路の塗装は剥げ、コンクリートの割れ目からは雑草が真っ直ぐ伸びている。空き地は買い手がつかないまま空白をぽっかり作り続け、立ち入り禁止の看板はいよいよ色褪せ景色と同化していた。細い通りを抜けた先には駄菓子屋を境に田畑が目立つようになり、途端に日陰が少なくなるはずだ。胃の奥あたりにすっくりと湧いた感慨は懐かしさを伴い、記憶の蓋をゆっくり開けた。




 長く続いた梅雨が明け、蝉が鳴きはじめた時分。楽の通っていた小学校が夏季休暇に入る前日だった。ぼろぼろになったランドセルから筒状に丸めた画用紙が飛び出し、上靴や体操服や白衣やお道具箱を抱える背中が大荷物のせいでやたらと小ぢんまりして見えたことをよく覚えている。
 その日、保護者面談のために、楽の通う学校にはじめて行った。それまで学校に通ったことがないという楽にとっても、一般の学校に在籍したことのないうづきにとっても、保護者面談は馴染みのないイベントだった。
 ナイフも銃火器も道場も医療設備もない校内はうづきの知っている“学校”とは様子がおおきく異なり、社会見学の気分で面談の時間まで校内を散策した。生徒数が少ない分敷地が狭かったため、あっけなく回り終えてしまった。
 平和が約束されているこどもたちと、平和を脅かす存在を概念としてしか知らない教員たち。さながら湖面だけを凍らせたような薄い平和が充満する空間は、それだけで新鮮だった。

 保護者面談を終え帰路についてから、楽はむっつりと黙りこくっていた。元々が多弁なたちではないため、眠いかお腹がすいたかその類だろうと考え黙っていた。会話を強要されない状況は誰が相手であれ気楽だった。

 無言のまま、古い家屋が軒を連ねる住宅街を抜け、空き地と駄菓子屋を通り過ぎると農道に出た。視界が開け、途端に日陰がなくなった。夏の訪れを告げる入道雲。焼かれたコンクリートの匂い。回るスプリンクラーと、湿った土がむっと押し上げる湿度。
 前を歩いていた楽がいきなり立ち止まり、畦道の端に座り込んだ。楽が動くたびに、ランドセルに乱雑に詰め込んだ文房具がぶつかり合い、がしゃがしゃと鳴っていた。声をかけても返事がなかったため、楽の隣で腰を屈め、眠そうな二重瞼に半分隠れた瞳の先を辿った。蟻の行列が、整然と一直線に、金平糖のようなものを運んでいた。
 うんともすんとも言わずにぴくりとも動かない楽と並んでしばらく蟻の観察をしたけれど、ぢりぢり照りつけてくる陽射しに耐えかね、楽をその場に待たせて駄菓子屋へと引き返した。
 かき氷とラムネ、ちょうど目についた金平糖を買った。蟻の観察じゆうけんきゅうの足しになればいいと思ったのだった。
 駄菓子屋から出て農道のほうを見ると楽の姿はなかった。なんとなくそんな気はしていたし、楽の行動が自由気ままであることも、そのへんのおとなや獣より強いことも知っていたため、さして慌てはしなかった。ただ、かき氷が溶けてしまっては勿体無いなと、それだけが気がかりだった。

 駄菓子屋の前に設置された木のベンチに腰掛け、まだ呼び慣れない楽の名前を呼んだ。かき氷溶けちゃうから出ておいで、とも。
 表面からじわじわと溶けはじめたかき氷と、店の裏手で鳴く蝉の群れ。探し出すことは容易だったが、ちょうど日陰になっているベンチから腰を浮かすのは億劫だった。
 ラムネを買ったものの開け方が分からず、瓶の口を塞ぐビー玉を眺めて時間を潰した。かき氷が半分ほど溶けたところで、店の裏手から楽が出てきた。幼い手には、かしましく鳴く蝉が握られていた。
「そうやって鳴くのはね、オスだけなんだって」
 どこかで聞いた雑学を口にしてから、せめて嘘か本当かだけでもちゃんと調べておけばよかったなと内省した。中途半端なものを楽に与えるのはできるだけ避けたかった。怪訝そうにまばたきを繰り返した楽にかき氷を渡すと、もう用は無くなったのか、楽は蝉を宙に放り捨て、ベンチにどすんと腰を下ろした。足元に転がされたランドセルが、がしゃん、と鳴った。
 楽は、なにかに怒っているようだった。
 まだまるい頬が赤らんでいたのは暑さのせいだけではないだろうなと。

 しかし当時の僕には、こどもはおろか、同世代の人間とさえほとんど関わった経験がなかった。誰かの感情を正しく汲み取る術を知らなかった。

 であればいっそ触れないほうが、楽が楽のまま、彼が見たまま感じたまま、したいことをしたいように伸びやかに生きてけるだろうと。窮屈な思いをしないだろうと。たしか、そんなふうに思っていた。
 今でもそれは変わらない。小さなこども、それも楽のような、どちらかというと野生みの強い生き物を支配するのに、大した手間はいらない。群れで生活する肉食獣の要領で、力でコントロールすればいいだけだから。
 けれども思うままに動く傀儡欲しさに楽を拾ったわけではないのだ。示した道を、あくまで彼自身が選択する。それが何より重要だった。

 楽は溶けた氷で薄まったシロップをごくごくと飲み、残の氷を一口で頬張り、ラムネの封を簡単に開けてみせた。飲むか尋ねるとやはり無言で頷いたため、もう一本買い、冷たいほうを楽に渡した。ラムネと僕とを見比べた楽がようやく口を開いた。声を聞くのは久しぶりのように感じた。
「……なんで怒んねーんだあ?」
 まったく予想外の問いだった。
「怒る……なにに?」
 楽もまた困惑したように首を傾げ、しばらく黙ってラムネを飲んでから、
「おとな嫌い」
 とぽつりと言った。

 ふと、しきりに「協調性」と繰り返した学級担任の、ぬるりとした笑顔が脳裏をよぎった。それ以外に面談で何を言われたかは記憶にないが、「協調性」と念を押すように、おそらく同調を求めるように、いかに「協調性」が必要であるかを矢鱈と丁寧な口調で説明されたはずだ。
「うるせーし、うぜー」
「そう」
 楽は、やはり怒っていた。
 他人に合わせることを強制され、ルールを押し付けられ、枠からはみ出すと頭ごなしに叱られるばかりの毎日に。おとなに。しかし楽は、まるで感情を持たないように、表情が変わらない。変わらないのではなく、分かりにくいだけだという性質に気付いたのは、僕でさえもっとずっと後だった。どれだけ厳しく咎め立ててもまるで響いていないと感じた教師がどういった対応に出るかは想像に容易い。理不尽な悪循環の中で、おとなに対し、あるいは同級生に対しても、言葉にできない苛立ちを募らせていた。それをうまく消化できず、僕を試すためか、八つ当たりか、その両方か、あえて放埒に振る舞ったらしかった。
「特に、学校の先生、嫌い」
「うん」
「けど有月は嫌いじゃない」
「それはそれは」
 ありがとうと言おうか迷って、けっきょく、それ以上の言葉はどれもしっくりこなかったため、ぬるいラムネと共に飲み込んだ。楽なりに、拙いながらもどうにか言葉に置き換えた感情に、いいともわるいとも言いたくなかった。ましてや、ありがとうだなんて。
 楽が紡いだままをただ受け入れるだけでじゅうぶんだろうと思ったし、実際、楽は満足そうな顔をしていた。はじめて見る表情だった。普段の眠そうな退屈そうな顔とどこがどう異なるかを明確に示すことはできないが、それでも、おだやかで、たいらかな色味が彼のめもとに差していたのだった。










「なー、ボス。蝉って、オスしか鳴かないらしいぜー」
 遠くを泳いでいた思考がまっすぐに引き戻され、大きな背中が目についた。痛んだコンクリートで自転車のタイヤがわずかに跳ねる。自転車を漕ぐ楽の背中が、大荷物を抱えて小ぢんまり見えた背中と重なった。途端に日陰がなくなり、農道の、この独特の、土と湿度と夏の匂いが過去と今との線引きを曖昧にした。
 日差しを遮るように手で目元に影を作り、振り返る。駄菓子屋があったはずの場所は売地になっていた。もうなくなってしまった古い駄菓子屋の裏手から蝉を捕まえてきた小さな楽はもういないのだ。

 こっそりと笑いをこぼしながら、
「それ、どこで知ったの」
 と揶揄うように尋ねる。
「んー、さあ。覚えてねー」
「っふふ。楽らしいな」
 畦道を抜け、懐かしさをポケットの内側にしまい直し、耳をそばだてる。
 ──ツクツクツクツク。ツクツク……。
「蝉ってね、種類によって、鳴く時期も時間帯も違うんだって。いま鳴いてるのは、ツクツクボウシ。……もう、夏も終わりか」
「へー。またなんか読んだんすか?」
「昔、ちょっとね。自由研究みたいなものさ」
「ほぉーん」
 こちらをちらりと見た楽は、愉しげに笑っていた。身体つきだけでなく、感情も、表情も、ずいぶんと大人びた。もうひとりでも生きていけるだろうに、そんなそぶりは一切見せない。
 楽自身が自ら選んでここにいる。

 真っ直ぐに自転車を漕ぎ進める楽の背中に肩を預け、もう二度と立ち寄ることのない古い街を見遣る。ひっそり歳をとっていく街並みが、千切れた雲の下に青く照らされていた。









 _________________
 初出:2022年某日
 いまとなってはもうすべてが懐かしい幻覚