月へと
シャワーを浴び、しとりと湿った髪を無造作に下ろす。気がつけば、前髪は顎が隠れるほどに伸びていた。視界を遮る髪をかきあげ、耳にかける。木製のチェアーに深く腰を下ろすと、首元にタオルが巻かれ、そのうえからカットクロスがかけられた。ふわりと空気を含んだそれが、からだのラインに沿うように落ち着く。汚れはおろかしわひとつ無く、清潔な色をしている。
「ずいぶん伸びたじゃん」
背後からしずかに声をかけられる。何年も聞いていなかったはずなのに、声の質からイントネーションの癖まですべて記憶の通りだった。
耳にかけた前髪の束がすいと掬われた。毛先を観察されているのだろう。正面に鏡があるわけではないため、あくまで推察に過ぎないのだけれど。
「専属のスタイリストが長期の休暇中だったんだ」
「へェ。そんで律儀にそいつの帰還を待ってたってわけ」
「僕は一途でね。これと決めたら曲げられないたちなんだ」
「俺からすりゃ、あんたは偏屈な石頭だけどな」
「きみは相変わらずだな。素直によろこべばいいものを」
──さりっ。
返事の代わりを寄越すように、髪を切る音が耳元で鳴った。
──さりっ。さりっ。さりっ。
すべるように鋏が動き、切られた髪が肩口へ、そうして床へと落ちていく。ぱらぱらと床に降る髪を目で追いながら、頭部や首元に添えられているてのひらの温度を意識する。声だけでなく、温度もにおいも、動作の癖も、つい昨日まで記憶のなかにいた幼なじみと寸分違わぬ姿をしていた。そばにいるのはスタンリー・スナイダーそのひとであることを、思いがけず実感する。
決められたコースを辿る弾丸のように、迷うことなく鋏はその役目を果たしていく。伸びていた箇所を全体的にカットし、重みを減らし、癖に合わせて毛先を整える。
──さりっ。
鋏の音と、どちらともつかない呼吸音。話そうと思っていたことがたくさんあったはずなのに、すぐそばにいるというだけでほとんどどうでもよくなってしまう。
言葉に変換できるエピソードよりも、この場に流れる時間に価値を感じるのはいつぶりだろう。
スタンリーに髪を切ってもらうようになった経緯は、たんなる成り行きだった。ストーンワールドでは当然ヘアサロンもスタイリストも滅んでいた。周囲にいた自力復活者の大半が粗野で無骨な軍人で、とても鋏を預ける気持ちにならなかった。だから、できるかい? と訊いたのだ。作ったばかりの鋏を渡し、伸びた髪をつまみ上げて見せながら。言わんとしていることをすぐに察したスタンリーが、できると言い切るのに時間はかからなかった。すいすいと髪を切っていくスタンリーの手際に感心しながら、こんなことなら旧世界でもヘアサロンなんかに行かなければよかったと後悔した。むかしから、無意義な時間を悪としていた。時間ほど価値のあるものはない。無意義な時間を悪とするのであれば、ヘアサロンに費やす時間はまさにその象徴であった。
鋏の音が止み、空気がしんと静まり返る。前髪、こめかみからの流れ、側頭部から後頭部。髪をすいすいと手櫛に梳かれ、あたたかさと心地よさに気付けばうっそりと目を細めていた。
「……変わんねえな」
ぽつりと声が落ちてくる。耳にしっくり馴染み込む、甘やかでハスキーな声。
頭をうしろに倒すと、ちょうどスタンリーの腹部に受け止められた。しなやかで無駄のない筋肉と、あたたかく健全な体温。
「それはお褒めの言葉かな?」
形容しがたい表情を浮かべるスタンリーは、記憶のなかの姿と変わらない。それはそうだ。僕の時間は年単位で過ぎ、肉体も当然年齢を重ねた。横並びで歩んできた僕らの時間に、明確な開きが生じている。変わらないはずがない。過ぎた時間は戻らない。スタンリーが宇宙へ行き、メデューサを使用するごとに、さらに僕らの時間は開いていく。変わらないはずなどないというのに、変わらないとぽつりとこぼしたスタンリーは、なにを感じ取ったのだろう。
「もっとジジイになってっかと思ったかんね。ハゲても白髪にもなってねえから、拍子抜け」
揶揄うように、あるいはなにかを誤魔化すように、ぶあついてのひらで視界を覆われる。そこに自身の手を重ね、懐かしい、とふいに感じた。言葉を交わすこのしゅんかんを、スタンリーの体温を感じる時間を夢にまで見たと言えば、科学屋のくせにと笑い飛ばしてくれるだろうか。
「……きみが月から帰る頃には、期待通りの姿になっているかもしれないな」
ふ、と吐息のこぼれるちいさな音が聞こえた。視界を塞ぐ幼馴染みの手はまだ退いてくれそうもない。泣きたくなるほどのぬくもりを受け止めながら、瞼の裏に遥か遠くの月を浮かべた。
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初出:2022年某日
スタンリー復活記念2